1998年9月。東京・赤坂のホテルニューオータニに「ピエール・エルメ パリ」がオープンし、今年でちょうど10年。 当時、パリの老舗洋菓子店「ラデュレ」のシェフパティシエだったピエール・エルメ氏が、初の自身のブランドを東京に開店させたことは、パティスリー界に衝撃を走らせました。まさに“黒船来航”。この10年で、ピエール・エルメが日本に及ぼした影響は計り知れません。作り手達は、セオリーを打ち破る独特の製法と、卓越した味覚に刺激され、食べ手達は、エルメ氏の手から生まれた全く新しい「テクスチャー」の世界に、ただただ目を見開きました。もちろん、全ての作品が、初めから万人が理解できるような単純なものではありませんでした。一昔前まで、香水の材料というイメージが強かった“バラ”が、ケーキの材料になるなんて誰が想像できたでしょうか。

「11年前、ニューオータニにエルメ氏を迎え、トゥールジャルダンの厨房でマカロンを焼くことから、すべてが始まりました」

10周年記念パーティーは、ホテルニューオータニ総支配人の清水肇氏の挨拶から始まりました。

ホテルニューオータニ 総支配人 清水肇氏


「湿度の多い日本の気候下でパリのマカロンを再現することは、非常に難しい試みでした。当時、日本ではまだ馴染みの薄いものだったので、『甘すぎる、最中のほうがおいしい』と言われてしまうことも。しかし、この10年で大きく変わりました。高級で美味しいケーキは、決まってアルコールの強いケーキだと思われていましたが、エルメのケーキが登場して以来、アルコールをダイレクトに感じるようなケーキは日本から消えていった。日本国中のパティシエ達がエルメ氏の研鑽を受けて変わったといっても過言ではありません。2008年は、ピエール・エルメ・パリの記念すべき年。まさに10周年にふさわしいコレクションが並びました。皆さん、存分にお楽しみください」

会場となったホテルニューオータニ「鳳凰の間」は、拍手喝采に包まれました。ラボに目を向けると、コックコートを来たパティシエ達はデザートの仕上げに精を出し、テーブルには既に新作のケーキやショコラの準備が整っていました。お披露目の瞬間を待つスイーツは鮮やかな香りを放ち、ゲストを迎え入れます。

窓の外には日本庭園を望む「鳳凰の間」

実演のラボにはドラピエ氏、ルデュ氏の姿も


記念すべき2008年の秋冬コレクションのテーマは“エメルヴェイユ”(夢見心地)。
2008年7月10日、パリ・カンボン通りにピエール・エルメ パリ新店舗がオープンし、これにあわせてフランスではパリ市内の名所や画廊など5箇所において2008年の新作が紹介されました。新作群による「感動とサプライズ」を満喫し分かちあうべく、秋冬の新作商品、クリスマス、そしてバレンタインの全てのコレクションに通じてこのテーマを使用しています。作品を紹介すると共に、パナデリアのピエール・エルメ氏インタビューの様子をお伝えします。

会場の外には、エルメ氏の10年間の軌跡をつづるパネルが展示。自分の10年を振り返るような気持ちで作品を眺めてしまいます


「振り返るのは好きじゃない。私はなるべく前向きでいたいから」

この10年を振り返って・・・まずそんな話から切り出すと、エルメ氏は笑顔でそう答えました。ピエール・エルメの新しい味覚との出会いの中で日本のパティスリー界は牽引され目覚ましい変化を遂げましたが、その一方、10年前からエルメ氏が続けている“主張”は変わっていません。

「私はずっと味覚のアーキテクチャーを主張してきました。それは、風味、香り、味、音・・・それがケーキにとって何よりも大切な要素なのだと確信して仕事をしています」

かつて、職人が表現できる製菓技術といえば、シュガーデコレーションのような“見た目重視”の技巧的なもの。自分の作品の写真を持って見せては、働かせて欲しいという職人達にエルメ氏は、こう問いました。「ケーキは作れますか?」・・・繊細なアメ細工に、シュガーピースのレリーフ。しかし、こういったものはパティスリーで毎日作られるものではありません。

「ケーキは毎日食べておいしいものです。味を強調すること、テクスチャーとフレーバーこそケーキの基本であること。私が、当時の日本に持ってきたものは、じつにシンプルで当たり前な命題です」

9月発売のピエール・エルメ氏最新本「MACARON」には、過去20年全てのマカロンのルセットが記されています


“味覚”こそ、ケーキの重要なファクター。その主張は、日本のケーキを包んでいた鋼の鎧を一枚ずつ剥がしてしていきました。そして、エルメ氏はふと雑誌に目を落とし、ひとつのケーキを指差しました。

「例えばこの星模様の飾りがついたケーキ。これはおそらく、味覚のプラスにはなっていないでしょう。だとしたら、星は無くてもいい。この手間をかける分、味作りに手間と時間を割くべき。味と関係の無い、不用な飾りも特別な形もいりません。第一、味がおいしいものであれば、形はそれなりのものになるのです」

バレンタインの新作「ケール オリジーヌ」は、まさしくエルメ氏の主張を具現化した作品。徹底的に味覚を追及するエルメ氏にとって、まさに“チョコレートケーキの理想形”。その内容はまさにチョコレート尽くし。シンプルな外観に、削ぎ落とされ、集約された素材の建築。そこから浮かび上がるチョコレートの輪郭は驚くほどの鮮明さを持ち、私たちに味わいの発見をもたらします。

ケール オリジーヌ \3150 
(※2009年2月1日〜15日発売開始予定)
ベネズエラのポルセラーナ産のチョコレートを使用。チョコレート入りの柔らかな生地に忍ばせたシャンティクリームを加えたまろやかなガナッシュが、クリーミーなテクスチャーを生み出します。



「テーマは“究極のチョコレートケーキとは何か?”。本当にチョコレートを好きな人がどういうチョコレートを期待するか?ということが出発点でした。ポルセラーナ産のチョコレートは他と比べものにならないような強いテイストに素晴らしさを感じましたが・・・どうです?カカオの香りを感じますか?」

ひとたび口に含むと、カカオの力強い香りが鮮烈に広がります。ほんのり鼻腔をくすぐるスモーキーな香りの奥からゆっくりと立ちのぼる酸味。柔らかなチョコレート生地に内包された軽やかなガナッシュクリームが溶け合い、柔らかさと重厚感の絶妙なバランスが、カカオ本来の風味をより一層浮き上がらせています。「ああ、おいしい!」無意識に言葉が漏れてしまいます。エルメ氏は表情を和らげ、“究極のチョコレートケーキ”の話を続けました。

「パティスリーの創造は、単に組み合わせや層をつけるということではなく、“風味のアーキテクチャー”つまりは風味をいかに組み立て、建築していくかを徹底的に考えるんです。アーキテクチャーには、シンプルなことも複雑なこともあるので、その両方をやらなければならないと考えています。風味を3つ以上組み合わせてはいけない・・・などという人もいますが、私はばかばかしいと思う。勿論、ひとつの味のおいしさもあれば、いくつもの組み合わせで生まれるおいしさもある。これは、パティシエのノウハウ次第だと思うのです」

新しい組み合わせだけでなく、伝統的なレシピを研究し、どうしたら理想的なものができるか?ということも大きな研究課題。ひとつの素材を見つめ、根本を見直すことは「パティシエの仕事としてやるべき作業」と、エルメ氏。今回の新作「タルト・カラメル・オ・ブール・サレ」も、“タルト・オ・カラメル”というパティスリーのスタンダードを、エルメ氏の理想をもって追求し、完成させた作品です。

タルト・カラメル・オ・ブール・サレ ¥735 
(※2008年11月より発売)
薄く焼きあげたパートサブレにはカラメル入りのマスカルポーネクリーム、カラメルとレモン果汁がしみこませた生地、そしてトップにはたっぷりのバターの風味溢れるカラメルが・・・まさにカラメル尽くしの恍惚のタルト



ひとたびフォークを差し込むと、カラメルソースがクリームの間を縫って、輝きながらゆるやかに流れる。崩れる姿さえ美しいテクスチャーになりえるのは、まさにエルメ氏のいう「味が美しければ、形も美しくなる」という言葉が現実となっているよう。

「ビスキュイにレモンを忍ばせています。レモンの味は表に出さず、キャラメルによる甘みの緩和剤としての役割で。タルト・オ・カフェ、タルト・アンフィニマン・ヴァニーユで追求してきたように、素材をメインに出したいというシンプルな発想で作っています」

伝統に挑戦するタルトのシリーズは、まさにエルメ氏の“スイーツの夢”。賞味に関しても、「一人分のタルトを4口か6口に切り分けて玩味し、思いきり感動に浸っていただければベスト」と、付言するこだわりぶり。 これ以外にも、今回のコレクションの中には、フランスの“伝統”をベースに斬新な装いに作り変えた、実にエルメ氏らしい作品が登場しています。

ガレット・ブリオッシュ・サティーヌ 
(※2009年1月1日より6〜8人用サイズのみ個数限定で販売開始予定)
ブリオッシュ生地の間には、パッションフルーツ入りのムースリーヌクリームとパッションフルーツのコンポート。トップにはパッションフルーツのクランブル。甘さを抑えたまろやかなムースリーヌがパッションの香りとフルーティーな風味を引き立てます



エピファニーの行事菓子として定着しつつある「ガレット・デ・ロワ」。フィユタージュではなくブリオッシュ生地!?と、驚いてしまうところですが、ブリオッシュ生地にフルーツのコンフィ、パティシエールをサンドした『ガレット・トロペジェンヌ』は南フランスの伝統的なお菓子。自身もアルザス出身とあって、伝統を踏襲しつつ“サティーヌ”のコンビネーションでエルメ風にアレンジしています。

「新作にあたって、縦軸と横軸という2つの方向性を軸にしています。縦軸のカテゴリーは、新しい風味の組み合わせ。今年でいうと“エモーション・デリシューズ”がこれにあたります。ワサビとグレープフルーツという全く新しい組み合わせ。これでひとつの作品が出来上がります。出来上がった既存の組み合わせをアイスクリームやタルト、ボンボンショコラなどに展開していく作業が、横軸になるのです」

来年2月に発売予定の「ボンボンショコラ・アンフィニマン・ヴァニーユ」も、“組み合わせの展開”というカテゴリーのひとつ。そのタイトルを聞いただけで、ファンなら小躍りしてしまいそう。バニラにはこんな可能性があったのか!と人々を開眼させた、究極のバニラの世界“アンフィニマン・ヴァニーユ”のボンボンショコラバージョンです。

ボンボンショコラ・アンフィニマン・ヴァニーユ  1個¥315  
(※2009年2月より発売開始予定)
ブラックチョコレートのシェルを口に含むと、口溶けと共にバニラの香りが喉から鼻へと駆け巡る。妖艶にして濃厚なバニラの味わいと、チョコレートの心地よいほろ苦さとわずかな酸味が共存し、長い長い余韻を生み出します。



「メキシコ産、マダガスカル産、タヒチ産の3種類のバニラ。この組み合わせなくしては“エルメのバニラ”は完成しません。バニラ風味というものはよくあると思うんですが、私はバニラを使う時は単なる風味付けではなく、バニラそのものの味を充分に出し、香りを最大限に引き出さなくてはならないと考えているのです。ピエール・エルメのボンボンショコラのラインにするからには決して“キャンディ”にはしたくない。チョコレートもしっかりと感じさせるため、両方の味と香りをバランス良く出すことに注力しました」

“自分が感じる感覚、香り、発見、人との出会いはすべてが創造の源“と語るエルメ氏。“旅する国の伝統や文化は食を通じて理解することができる”という持論のもと、日本でもエルメ氏ならではの視点で食材を研究。前回の来日ではワサビ田を見学し、『ワサビの根元は甘いのでケーキにも使えるに違いない』とエモーション・デリシューズを発表し、永くワサビを口にしてきた日本人でも発想し得なかったアイディアで驚かせました。日本に限らず、イタリアやドイツ、スイス、中東、ギリシャなどでも様々な素材と出会い、常にそれらはアイディアの源としてストックされているそうです。

「もちろん、フランスの食材も悪くないですよ。どんな国、どんな場所の素材でも、ケーキの一素材として取り入れることは可能です。しかし、技術的なノウハウはあくまでフランスの伝統に基づいています」

今後の動きを聞くと、年内にもパリに4店舗目、香港にもショコラとマカロンの専門店をオープンし、来年はドバイにも進出。これにあわせ、ショコラとマカロンの新しいラボラトリーがエルメ氏の故郷であるアルザスに建設されるとのこと。“生ケーキのみは、パリで作ります”という言葉に、世界のどこにあろうとも「ピエール・エルメ パリ」なのだ、という静かな誇りを感じました。
寡黙で優しい瞳の中に情熱と好奇心をたたえ、世界を、未来を見つめるエルメ氏。10年目を迎えた、ピエール・エルメ パリの感動とサプライズに、今一度拍手喝采を送りたいと思います。(2008.11)

ビュッシュ・モンテベロ ¥4,600 
ピスタチオのダックワーズに、苺のコンポートとピスタチオのクリームをサンド。ナッティーなコクとほのかな苦みを有するピスタチオを、フレッシュな苺が爽やかに纏め上げる。柔らかなダックワーズと蕩けるクリーム、香ばしいピスタチオの歯ごたえ。食感の旋律が、素材がもつ鮮やかな香りと味わいを実に愉しげに盛り上げます。


ビュッシュ・イスパハン \4,600 
ピエール・エルメの代表作、ローズとライチの「イスパハン」がクリスマス・ビュッシュに。トップの飾りだけでなく、マカロンをサンド生地としても使っているのがポイント。フンワリ、さっくりと崩れるマカロンの間には、なめらかなローズのクリーム。そしてフレッシュのライチとフランボワーズ。ローズの上品な甘みと香り、フルーツの酸味と味わいが柔らかに溶け合います。




※販売期間:2008年12月17日〜25日
※予約期間:2008年11月中旬〜引渡し希望日の4日前までを予定



ピエール・エルメ パリ(ホテルニューオータニ ザ・メイン ロビィ階)
TEL03-3221-7252
営業時間11:00〜21:00
URL http://www.newotani.co.jp/tokyo/restaurant/pierre/



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