小倉 孝樹

ムッシュイワン、ベーカリーカフェ・ポラリス シェフディレクター

1956年 東京生まれ
1975年 ホテルパシフィック東京ベーカリー部入社
1989年 浅草ビューホテル ベーカリーシェフ就任
1995年 浅草ビューホテル ベーカー長就任
2006年 ベーカリーカフェ ムッシュイワン開業。総指揮をとる


みなさんは普段どんなスタイルでパンを食べていますか?
洒落たブーランジェリーが増える一方で、夕食に食事パンというスタイルはまだまだ少数派。
なんと日本人の食べるパンの75〜80%は、コンビニやスーパーで売られている、いわゆる袋パンが占めているという調査結果もあるのだとか・・・。
そんな軟弱な日本のパン事情を憂えているのが、「ムッシュ イワン」の小倉孝樹シェフ。
そこで、“本来パンは食事と一緒に楽しむもの。もっと食事パンをおいしく食べてほしい!”との想いをこめた講習会が開催されました。
テーマは、「パンの質を高める〜これから期待されるベーカリー像」。
いったい、どんな講習会になるのでしょうか?


今回の講習会を主催したのは、川越に本社をおく「ツジ・キカイ」。窯やドウコンディショナーなどベーカリーに欠かせない厨房機器のメーカーです。


「ツジ・キカイ」代表取締役社長 山根証さん


「おはようございます!」
すらりとした長身に、朗々と響く声。講師を務める小倉孝樹さんは、ご存知「ムッシュ イワン」、そして「ポラリス」のシェフディレクター。パン業界の兄貴分的存在でもあり、今回の講習会にも、若いパン職人の方からご年配の関係者の方まで大勢の方が顔を見せています。


「ムッシュ イワン」に続き、昨年には「ポラリス」をオープンした小倉孝樹さん。両店舗とも、パンと食事を楽しめるスタイルが人気


ところが・・・。
「実は、今日の講習では、皆さんに今のパン屋さんのあり方を問うてみたいと思っているんです」
と、何やら最初から普通の講習会とは違う雰囲気。

「今は様々なスタイルのパン屋さんがありますが、私が目指して欲しいのは500m〜1kmで愛される存在。流行を追う一過性のものではなく、その土地に根付いたパンを作ってほしい。そう思っているんです」
と、熱く語り始めた小倉さん。最近のベーカリー事情に関して思うことがありそうです。


参加者はベーカリーのこれからを担う人たちばかり!


「そのために必要なのはシンプルさ。パンというのは本来食事と一緒に食べるもの。毎日、食事と一緒に食べるパンが店の基本になっていることが、パン屋にとって大切なことなんです。今回の講習でも、本当はカレーパンやクリームパンなど、売れ行きのいいパンの講習をした方が喜ばれたかもしれない。でも、そういうわかりやすいものではなく、パン屋として、本当に生地がおいしいものを作り、それについてお客様にしっかり説明できるようになって欲しいと思っているんです」
確かに、いくらアレンジが上手でも、基本の生地がしっかりできていなければ、おいしいパンとはいえません。ブーランジェリーブームの土台を築いてきた小倉さんだけに、言葉にも含蓄があります。


会場にはドーナッツを揚げるフライヤーやピッツア専用窯などがずらりと並びます


という訳で、今回教えていただくのはバゲットやパン・ド・ミなど基本的なアイテム。まずはバゲットからスタートです。
「仕込みの方法は色々あります。昔はリスドオル(フランス粉)100%にビタミンCを入れる配合が一般的でしたが、今、それをやるところは少ない。この10年で色々と変わってきていますね」
確かに最近のバゲットは、旨みが強く、食感に特徴があるものが増えています。ベーシックなパンにも流行があるということなんでしょうか。
「変わるものもありますが、私がずっと変えていないのが粉の比率。“7:2:1の割合“で、フランス粉、中力粉、強力粉を入れています」
今回は、フランス粉に“モンブラン”、中力粉に“赤松”、強力粉に“ヨット”を使用。非常にゆっくりとした速度でミキシングをしていきます。
「ボウルの周りに生地がつくので、途中で一度、かき落としをしてください」
約2分半後、低速のミキシングを終えた生地はベトベトして、ゆるい状態。ちょっと見る限り、まだ水と粉が馴染んでいないようです。
「この生地は麺台に乗せて、このまま20分くらい休ませます」
えっ、もう終わり?しかも、このままで休ませるなんて!?
「そうです。そうすると、だんだんと生地がつながってくるんですよ」
布やビニールもかけず、本当にただ放っておくだけ。
大丈夫かなぁ、と思っていましたが、20分後に触らせていただいて納得。プヨプヨとやわらかい触り心地ですが、生地につながりと弾力が生まれていました。この後、パンチを1回入れて約3時間寝かせます。


え、本当にこのまま・・・?とちょっと不安になりますが、大丈夫なんです


さて、その間に試食用のバゲットが登場しました。
「ちょっと試食してみてください。どうですか、甘みを感じませんか?」
確かに口の中で、粉の甘みがじんわりと広がり、みずみずしい食感です。
種明かしをしてしまうと、これは長時間発酵のバゲット。先ほど仕込んだ通常発酵のバゲットと味を比べるため、昨晩から用意をしてくださっていたそうです。


長時間発酵のバゲット。クラムに透明感があります


「そうそう、長時間発酵で生まれる、この甘みを分かって欲しかったんですよ。それから、長時間発酵の場合は温度管理が大切なので、ドウコン選びも重要なポイントです。今回はセミドライイーストを使っていますが、ホテル時代にはイーストの代わりにレーズン種を使っていました。天然酵母はイーストに比べて膨らみが弱いと言われますが、中種に栄養素をたくさん入れたり、発酵でワンクッションおいたりすることで丈夫な生地を作ることができるんですよ」
と小倉さん。


ポイントはあまりガスを抜かないこと!バンバンとはたたかずに、そっと成形していきます


発酵方法以外にも、自分の店で小麦を石臼挽きにして使うなど、さりげないこだわりが光ります。それは、こんなところにも・・・ 「これは、クロワッサン・オ・ザマンド。うちでは、皮付きのアーモンドプードルを軽くローストしてから使います。小麦粉も全く入れないので、風味は抜群ですよ」
さっそく味見させていただくと、ローストしたアーモンドの香ばしさがフワッと広がり風味豊か。


粒々とした茶色のものがローストしたアーモンドプードル。通常ベーカリーで使うアーモンドクリームには、小麦粉が入っているそうです


「それから、クロワッサンに使うバターも重要。今はバターを使うのが当たり前の時代だから、どの店もそれなりにおいしくできていて、差別化を図るのが難しいと思います。だから、どれだけおいしいかをお客様に分かってもらう努力をすることが大切。そのために、うちでは“タカナシ特選北海道バター”を使っています。色々食べてみたけど、これは本当においしいですよ」
と小倉さん。パティシエにも人気のある“タカナシ特選北海道バター”を麺棒で叩き、シート状のバターに伸ばして使用しているそうです。


タカナシ特選北海道バター。チルド流通なので乳風味が活きています


「皆さん、レシピを見て気付きましたか?うちではデトランプ生地にはバターを入れていないんです」
え?普通、生地の方にも油脂を練りこんでいるはずでは・・・?
「実はうちの店は、立地上、夏場にどうしてもホイロ内の湿度が高くなってしまうんです。そうすると、クロワッサンの層がどうしてもくっついてしまう。そこで生地の油脂量を減らしていき、今では全く入れない配合で作っているんです」
なるほど。工夫すれば、悪条件もうまくクリアできるのものなんですね。


手首をやわらかく動かし、さっと塗る。卵の塗り方ひとつとってもベテランは違います


ところで、原料高や不景気など、今はベーカリーにとっても厳しい時代。小倉さんもヒシヒシとそれを感じているようです。
「今年はパン屋にとって大変な年。いくら頑張ってもコストが見合わないし、ロスも出せない状況だと思います。皆さんはどうですか?」
小倉さんの言葉に頷く参加者たち。ほとんどがベーカリーの関係者ですから、当然、思うところはあるようです。

「先日、製粉会社の人と新商品開発の話になったんです。皆さんは、新商品の開発をどれくらいしていますか?」 「うーん。たぶん、10品くらいだと思います」
と男性の参加者。
「そうですか。実は大手製パン会社では、毎年100品くらい新商品を出すそうです。粉を原材料に使う商売で、こんなに新製品を出すところはないと思いますよ。ほら、讃岐うどん屋だって新商品なんかそんなに出さないでしょう?」
と小倉さん。そう言われてみれば、確かにその通りです。


「どんどん生地を触ってみて」と小倉さん。いつも扱っている生地との違いを体感します


「パン屋の基本となるのは、あくまで食事パン。次々に新商品を出すという流れが当たり前になっていますが、私はパン屋側から断ち切るということも考えたいと思っているんです。食事パンのおいしさや食べ方をもっとお客様に伝えていくことが必要だと思います」
パン=軽食、というイメージがパン屋さんの首を締めているという現状は少なからずあるようです。

・・・と、かなり真剣な話をなごませるかのように、いい香りが立ち込めてきました。
「ランチには、カスクルートを用意しました。これは、ぜひ熱いうちに食べて欲しいんだよね〜」
と、すでに具材を挟んだカスクルートを窯に入れる小倉さん。チーズがトロッと溶け、クラストがカリッとしたら出来上がりです。


ハム、チーズ、レタスを挟んだカスクルートにザワークラウトを沿えて。温かくておいしい!


「男の人はガブッといっちゃってほしいな」
会場には、さらに「ツジ・キカイ」のピッツア用石窯で焼いた熱々のナポリピッツアや野菜のスープなどが用意され賑やかなランチタイムに。


石窯で焼いたナポリ風ピッツア。焼き立てが楽しめるのは「ツジ・キカイ」ならでは!




お腹がいっぱいになったところで、午後の講習がスタート。
「実は今回の講習では、全種の仕込みのデモはしないつもりです。というのも、仕込みは基本的に機械がやるもので、分数や速度がわかれば大体できるもの。それよりも、今回は丸めや成形といった“手”の仕事をしっかりやりたいと思っています」
仕込みではなく、丸めと成形?と言っても、参加者は皆さんプロの方ばかり。簡単にできてしまうのではないでしょうか?
「簡単だと思われているけど、丸めはとても大切な作業なんですよ」
と小倉さん。そこで、前に出て分割・丸めを行ないます。


普段はなにげなくやっている丸めですが・・・?!


「こうして分割・成形で傷つけ、締まった生地をベンチなどでゆるめる。パン生地作りはその繰り返しなんです。だから、なるべく生地に触れないようにすることが大切。張らせるよりも、生地にあまり触らないこと。こうやって、ほら!」
生地にそっと触れ、手早く丸めていく小倉さん。あっという間に、プリッとやわらかな丸い生地ができ上がります。
「丸め方ひとつで伸び方が変わる。だから、味や形に必ず影響してくる。本当に重要な作業なんですよ」
そんな、小倉さんの前ではみんな大人しい生徒に早代わり。確かに、皆で丸めた生地は形や張り具合にかなりバラツキが。仕込みや成形とは違い、今まであまり意識せずに丸めの作業をしていた人も多いということなのでしょう。


小倉さんの手にかかると、あっという間に美しい丸めが完成


そして、パン作りに欠かせないもうひとつの要素が窯。小倉さんが「ムッシュ イワン」オープンの際に選んだのが、「ツジ・キカイ」の「平窯王」です。
「窯に手を入れてみてください。ほら、熱くないでしょう?サウナと同じで、温度は高いけれど、熱の当たりがやわらかいので、焦げにくいんです。中央から熱が入るので、皮が薄く、内側はしっとりと焼きあがるんですよ」
とツジ・キカイの山根さん。
通常の石窯は、石を窯床に敷くなどして石の蓄熱性を利用しますが、平窯王の石は、なんと全方向のセラミック。金型を作って、厚さ50mmのセラミックの窯を作っているので、重量は約1トンにもなります。


焼床に石を置くのではなく、箱型のセラミックを入れた平窯王。金型にセラミックを流し込み焼いているそうです

右が平窯王に使われている50mmのセラミック。左はクラシカ用で、なんと80mm!

パティスリー用の石窯「エレガンス」。マドレーヌもふっくら!


「陶芸や芸能などの技術が評価されるように、パンやお菓子の技術も登録できれば良いのにと思うんですよね。それくらい、パンの技術者にはすごい人がいるんです」
陶芸や絵画のように、その人の腕でしか出せない味がパンにもあるはず。レシピさえあれば・・・という考え方では、おいしいパン作りはできないということを改めて実感しました。

「大切なのは基本。手抜きやごまかしをしないものが、安心と安全な味になるんです」
と、会を締めくくった小倉さん。
食に対する意識が問われる今、小倉さんが一番伝えたかったのはそのことなのかもしれません。
(2008.11)



◆ 講習していただいたパン ◆

フルート
力強い風味のあるフランス産粉“ラ・トラディショナル・フランセーズ”とライ麦“メールダンケル”で味に深みを持たせたバゲット。通常のバゲットはストレートで仕込みますが、これはポーリッシュ法なので、より一層粉の旨みやコクが引き出されています。「ラ・トラディショナル・フランセーズは普通の粉の2.5倍くらいするけど、おいしいよ」と小倉さん。



クロワッサン
周りの生地はサクサクッと軽く、口の中でバターがジュワッと広がります。「タカナシ特選北海道バター」のせいか、ミルキーな乳風味は強いのに、意外にさっぱりとした後味。油脂を加えない生地ですが、伸展性を出すためには1日寝かせるかルヴァンリキッドを少量加えると良いそうです。自家製の石臼挽き粉を20%配合しているので、生地の旨みもしっかり楽しめます。



バゲット
石窯で焼くことで生まれるパリッと薄いクラストが印象的。クラムはしっとりみずみずしく、引きのある食感です。前日仕込みで長時間発酵させたものと、当日仕込みのものを試食しましたが、長時間のものはより甘みと丸みが引き立っていました。軽くて食べやすいので、食事パンとしてはもちろん、カスクルートにもぴったりです。



セーグルショコラ
マカデミアナッツとチョコチップの入った、甘くて食べやすいハード系かと思いきや、粉の味もしっかり味わえる本格派。その理由は、味の濃いラ・トラディショナル・フランセーズ(35%)とライ麦(25%)を使用しているから。「ハード系が出ない時にはこんな工夫も」と小倉さん。ハード系初心者にも、ハード系好きにもおすすめできる一品です。



ペイザン
ラ・トラディショナル・フランセーズを60%配合した風味豊かな生地。丸麦を石臼で挽き、約200ミクロンの細かさにふるった小麦15%とライ麦15%を加え、さらに風味を高めています。パートフェルメンテ(前種)を加えることで、しっとりした食感と深みのある味わいに。講習では、ペイザン(田舎)風に丸く成形したものと、オリーブやセミドライトマトを巻き、細くねじって成形したものも登場しました。

中にオリーブを入れ、セモリナ粉をまぶして焼き上げたもの



パン・ド・ミ
「ムッシュ イワン」で人気のイギリスパンも登場しました。今回は特別に、「浅草ビューホテル」時代に使っていたという年季の入った型を使用。幅が狭く、上に向かって微妙に広がっているのが特徴です。「発酵時の伸び方を考えたら、垂直よりもこういう傾斜がついていた方がいい」と小倉さん。すっきりとキレがあり、毎朝食べたいシンプルで飽きのこない味わいです。










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