〜手を抜かないこと 〜

パン作りに全力で挑む高橋幸夫氏のこの信条は、たとえそれがひとつの材料であっても例外ではない・・・。
16年前、北海道・美瑛の雄大な麦畑に魅せられた23歳の若き高橋青年。
パン職人としての名声を高める一方で、国産小麦への情熱はますます深まり、歳月を経て今、国産小麦への新たな挑戦をすることを決めた。

そして、今、1粒の小麦がつむぎ出す壮大な物語が、幕を開けようとしている。

「ブノワトン」高橋幸夫さん






ことの起こりは、伊勢原の「ブーランジェリー ブノワトン」高橋幸夫さんからの電話だった。
ご存知の通り、高橋さんといえば様々な小麦を使い分け、その味わいを引き出すことを得意とするパン職人。今でこそ石臼を置く店は珍しくないが、1999年のオープン当初から製粉をするための石臼2台と大型の冷蔵貯蔵庫を厨房内に備え、粒で買い入れた国産小麦を毎日6〜7kg製粉するというのはある種の驚きだった。小麦にここまでこだわる人がいたなんて、とパン好きの間で話題になったものだ。
丁寧に自家製粉した小麦粉を使い、手間隙を惜しまずにパンを創り上げる。そんな徹底したこだわりから生み出されるおいしさは、今も変わらず、高橋さんを特別な存在へと高めている。パン好き、そして職人にとっても、2歩も3歩も前を行く憧れの職人なのだ。

その高橋さんが、今回すごいプロジェクトを立ち上げたという。


「この湘南エリアを中心に、もっと小麦をたくさん栽培して、おいしいパンを作って食べようというプロジェクトなんです。今、平塚(真田地区)と秦野・小田原で無農薬の小麦の栽培をしてもらっているんですよ。このあたりは、元々良質の小麦の産地でもあったんです。すでに県の農業試験場とも話しを進めていて、実は新しく製粉工場も作ってしまいました。今までは自分の店でだけでしたが、湘南エリアのパン屋さんで、この土地の小麦粉を使ったパンが作れればと考えているんですよ」

その名も湘南小麦プロジェクト。確かに、「ブノワトン」では神奈川県産のライ麦を使うなど、いち早くから地産地消の取り組みをしてきた。だが、そうはいっても1人のパン職人が、県の農業試験場に働きかけ、小麦の栽培から製粉までをプロデュースするとなると話しは別だ。小麦の選定からこだわったオリジナルブレンドの小麦粉の販売をするほか、自分で小麦を挽きたいという職人にはそのノウハウも教えていきたいと熱く話す。

「収穫は6月10日頃の予定です。ぜひ畑を見に来てください!」

朗々とした高橋さんの声から、これから始めるプロジェクトへの意気込みが伝わってくる。何かすごいことになりそうだぞ、電話を切る頃には高まる気持ちを抑えられないでいた。






6月6日。夜も更けた11時頃に携帯が鳴った。

「明日の朝、小麦の刈入れをすることになりました。突然で申し訳ないのですが・・・」

そろそろ電話が来る頃かとは思っていたが、その知らせは予想以上に突然だった。 収穫の作業では天候がなによりも重要だ。天気予報を見ると、確かに翌日の7日は曇り時々雷雨となっている。大切に育ててきた小麦が雨に濡れてしまっては収穫が台無しになってしまうからと、夜になって急遽決まったようだった。


翌朝、まだ暗いうちに起き出し、ドキドキしながら窓の外を見る。

“晴れているかな?“

だが、まだ日の出前なので晴れているのかどうかはわからない。農家の朝は早いのだ。小麦畑には馴染みがあっても、実際の収穫となると初めての体験。晴天を祈りつつ身支度を整え、いざ出発!





東京から車で約1時間。海老名インターを過ぎた辺りから緑が深くなってくる。清々しい青空の下、まだ苗を植え付けたばかりの水田が道の両脇に広がる。目的の小麦畑はこの先だ。ゆっくりと車を進めると、朝の太陽に輝く水田の先に文字通り小麦色をした一画が見えてきた。

ここは北海道?遠くに見えるマンションや建物群が神奈川であることを思い出させてくれる


時刻はまだ7時前だが、すでに小型のコンバインが動いている。

“ガ、ガ、ガ、ガ・・・“

こちらの姿を見て生産者の市川健次さんが降りてきてくれた。高橋さんは、今年市川さんと加藤さんという2人の生産者に協力をお願いし、農林61号、ニシノカオリ、アサノヒカリ、ナンブ小麦、鴻巣25号の5種類の小麦を栽培してもらっているという。

軽快にコンバインを運転する市川健次さん


「向こうのナンブ小麦は先週刈っちゃったんだよ。今刈っているのは農林61号」

腰丈ほどに成長した小麦は豊かに穂をふくらませ、そのずっしりと重たい体を風に揺らしている。これは豊作だ、素人でもそう感じられるほどしっかり実が詰まっているのがわかる。

“どんな味がするのだろう?“

外敵から大切な実を守るかのようにチクチクと肌を刺す野毛(ノゲ)をよけ、殻にさわるとポロッと小麦の粒が転がり出てきた。そのまま齧ってみる。10日ほど前に来たときよりもずっと固くなって水分が抜けていた。口の中にほのかな甘みと清々しい香りが広がる。自然の恵みに感謝したくなる素直でやさしい味わいだ。

丸々とした小麦の粒。軽く手でもむと、ポロポロと穂から外れる


「この1反(1区画)で約300坪。これで300kgはとれるんじゃないかなぁ。今年は2人で4000坪(1丁3反)ずつ小麦を作ったから、全部で6トン半〜7トンくらいは収穫できるよ」

市川さんは、この道50年、中学校時代から農業を手伝っているというベテラン中のベテラン。現在は小麦のほかに水田を栽培している。この小麦は高橋さんの要望もあって、完全無農薬、無化学肥料だというが、病気などの問題はなかったのだろうか。

「小麦は農薬を使わなくてもわりと平気みたいだね。ハルユタカだけは病気になってダメだったけど、ほかはどれも順調。ナンブ小麦なんか想像以上に良い出来だったよ!」

と頼もしい言葉が返ってきた。

例えば苺にも“とちおとめ“、“あまおう”、“さちのか”・・・と、品種があるように、小麦にも様々な品種がある。タンパク質量が高く製パンに適した強力粉タイプの品種から、主にうどん向きの中力粉タイプと、その味も質も様々だ。だが、どれでも好きなものを栽培すれば良いかというと、そうはいかない。その土地の気候や風土によって向き不向きがあるのだ。各県の農業試験場ではそれらの品種をテストして、適したもの、あるいは適するよう改良したものを県の奨励品種にする。今のところ、この農林61号は神奈川県の奨励品種だが、元々うどん用の小麦粉なのでタンパク質量が少ない。これだとグルテンが形成されにくいため、パン生地がふっくらと膨らまず、味も見た目も悪くなる。パン用となるとかなり頼りない存在だ。

やや濃い茶色の農林61号。関東を中心に全国で栽培されている

右がアサノヒカリ、左がニシノカオリ。香りと甘みのある硬質小麦なのでパンには最適


そこで高橋さんは、市川さんのような生産者の方や県に対し、製パン性にすぐれた品種育成の働きかけもしている。今年はテスト的にナンブ小麦を栽培した。元々は岩手県の品種なので上手くいくかどうかという心配もあったそうだが、ふたを開けてみると予想以上の収穫になったという。また、県の農業試験場では製パン性に優れた九州地方の品種ニシノカオリ、アサノヒカリのテスト栽培をし、いずれは県の奨励品種にしたいと考えているそうだ。

ナンブ小麦・・・元々は麺用でタンパク質量は10%程度。独特の旨みと香りがある(5月29日撮影)

鴻巣25号・・・古くからある製パン性の高い品種で埼玉県・鴻巣市のブランド小麦。粒の形がややほっそりしている(5月29日撮影)


「パンに向いているっていうニシノカオリは、かなり良い出来だけど、収量がちょっと少ない。やっぱり初めの品種は、思い通りに育てられるようになるまで2年位はかかるね」

いくらベテランとはいっても、相手は生き物。そう簡単にはいかないのだ。時間をかけて、肥料や管理方法などを見極める、いくら科学や技術が進歩しても、それが一番の近道なのかもしれない。





「小麦は輸入が多いでしょう?アメリカやカナダの小麦の輸入価格は1トン1万円だっていうから、値段では絶対にかなわない。でも、輸入するときに、防虫剤や防腐剤をいっぱいかけて日本に持って来るでしょう。だって、そうしなきゃ絶対無理だもの」

育てるときには農薬や肥料を控えられても、輸送の段では必要不可欠な場合がある。第2の主食といわれるパン、そしてうどんやお菓子などと幅広く使われる小麦だからこそ、安全なものが欲しいというのが消費者の切実な気持ちだ。だが日本では、小麦への奨励金制度はなくなり、米などと比べてもその価格は驚くほど安い。相場は1kgで80円ほど。1反分(300kg)でたったの2〜3万円にしかならないそうだ。

小麦の隣にはサトイモや米などの畑が広がっている


「作らないほうがマシって言うくらい安い。だから、副収入でもないと小麦だけ作って生活するのは無理。この辺の農家の息子たちはみんな会社に勤めに行って、農業はやらないよ」

国産小麦を求める声が大きくなる一方で、生産者が作りたくない、そして作れないという実状があることがうかがえる。それでも市川さんが作っている理由とは?

「高橋さんが一生懸命な人でしょう。その情熱に負けてね、作ることにしたんですよ」

でも、パンはまったく食べないんだけどね、と市川さんは日焼けした顔で申し訳なさそうに笑った。

一方、国産小麦の生産量ナンバーワンを誇る北海道はというと、その面積の広さを活かし大型機械を導入した大規模な農業を行っている。1人当たりの収穫量が断然多い。

「ここは確かに土地は広くない。でも、その分、自分の目の届く範囲でしっかり丁寧に作っていますよ。それに、このくらいの小さな規模だからこそ、高橋さんのためだけに小麦を栽培することもできるんです」

地域の生産者が丹精込めて育てた小麦を粉に挽き、地域のためにパンを作る。パンの世界では少なかった地産地消の構想に、今、高橋さんが息を吹き込んでいるのだ。





「じゃあ、作業を続けるよ」

市川さんが颯爽と乗り込んだコンバインは小型ながら米麦両用のすぐれもの。まっすぐに植えられた穂の列に沿って軽快に刈り込んでいく様子は、失礼ながら、まるで大きなおもちゃを動かしているようで楽しそうだ。
数列ずつまっすぐに穂を刈り込んでいく。1反で1時間ほどの作業


まず穂の根元を土から約5cmほどのところで刈り取り、その穂先に入っている麦粒を脱穀し、コンバインに内蔵された庫内に貯蔵していく。
面白いのは不要になった穂の処理の仕方。まず一つは穂を細かく刻む方法で、コンバインの後方からバラバラと穂くずが地面に蒔かれる。これは、焼畑をするのに適していて、穂についている虫などを駆除して次の植付けに備えるそうだ。そしてもう一つは刈り取った穂を紐で束ねる方法。丁寧に紐で結ばれた穂が、ポンッ、ポンッとリズミカルに、そして勢いよく吐き出されていく。穂の長さが整えられ、後でほどきやすいように器用に結ばれた束を見ると、まるで中で人が仕事をしているのではと思えるほど。ちなみに、これは堆肥や飼料として使われるのだそうだ。
細い水色の紐で結ばれた穂の束。昔は人の手でやっていたという


「じゃあ、収穫した分をコンテナに入れるから」

コンバインの横についている大きなノズルが、トラックに積んだコンテナの方に“グィーン“と動く。


“ザ、ザー----ッ“
抜けるような青空を背景に小麦のシャワーが降り注ぐ


"ワーッ、すごい!!"

歓声の中、ノズルの先から文字通り小麦色の粒々がいっせいに降ってくる。アッと言う間に、コンテナの1/3ほどの麦粒が溜まった。
さすがは日本製!と唸りたくなる機能の高さだが、このコンバインだけで約400万はするというからそれも納得かもしれない。
コンテナに溜まった小麦粒。この状態で殻はほとんど取れている


真っ先にトラックによじ登った高橋さんが、コンテナの中をのぞいて満面の笑みを浮かべた。

「うん。これはいい出来ですね!」

丸々と身の詰まった麦粒は、このまま食べてもおいしそうなほど。パンにしたら、どんなにおいしいだろう!ふと高橋さんの方に目を向けると、満足そうにじっと小麦を見つめていた。その頭の中では、きっと秋にお目見えするパンの姿や味わいが浮かんでいるに違いない。
ご家族やスタッフも集まり、待ちに待った収穫を体感






「この後、乾燥室へ持っていきます」

畑から車で5分ほどの場所にある工場は、小規模ながら製粉の設備が整えられた本格的なもの。通常の小麦より硬い硬質小麦を丁寧に処理するため、特注で作った6連結の石臼と、改良した石臼3台の合計8台が並び、フル稼働させれば、一日300kgの小麦を処理できるという。湘南小麦プロジェクトに際して高橋さんが設立したミルパワージャパンの本拠地だ。
さきほど収穫した小麦はここで製粉され、パンに適したオリジナルブレンドの粉が作られる。商品名もすでに考えているそうだ。その名も、“潮風小麦”と“波乗り小麦”(予定)。規模こそ違うが、一般的な製粉会社と設備も主旨もまったく同じ。もはやパン職人の枠を超えた壮大なプロジェクトなのだ。
製粉会社ミルパワージャパンの工場。店から車で10分ほどの場所にある


「本当にギャンブルですよ。『ブノワトン』を始めたときもそうでした。オープンしたばかりでまだパンが売れるかどうかもわからないのに、北海道から30トンもの原麦を仕入れてしまって。本当に大丈夫かなと、実は毎日ヒヤヒヤしていたんですよ」

単に小麦を挽いて粉にするといっても、そんなに簡単な話しではない。高橋さんは、これまで7年間をかけて小麦の保管実験を繰り返し行ってきた。小麦を貯蔵する際の天敵“コクゾウムシ”の発生を抑える方法から、輸送手段、価格、数量の問題、そして硬すぎる硬質小麦を石臼で好みの粒子に製粉するノウハウなどを、少しずつ、そして着実に自分のものにしてきたという自信がある。そして、ギャンブルとは言いながらもそれを成功させたのは、人生をかけるほどの強い情熱と探究心があってこそだ。


「北海道などからの輸送コストを考えたら、その分を地元に還元した方が良いと思ったんです。5年、10年という長期的なスパンで考えて、神奈川の小麦栽培が活性化できれば良いですね」

収穫した小麦は、乾燥後、順次製粉される。小麦の持つ酵素の活性が落ち着く9月頃から、いよいよ、潮風小麦と波乗り小麦のパンが登場することになる。

「これは私のライフワークです。もしかしたら、宿命と言って良いかもしれませんね」

そう微笑む高橋さんの目には、力強い決意と希望が秘められていた。







湘南小麦プロジェクトはまだその一歩を踏み出したばかり。
相手は人間の思い通りにならない自然であり生き物だ。不安がないとは言い切れない。
でも、高橋さんならきっとそれをやり遂げてくれるだろう。
どんなに大変でも「手を抜かない」こと、それこそが高橋さんのポリシーなのだから。
生産者、作り手、そして消費者が、パンを通してひとつになる。
もはやそれはいちパン屋としての成功ではなく、現在、国際社会が抱える問題を解決するヒントにもなっているのではないだろうか?
収穫を記念して「ハイ、チーズ!」


パナデリアでは、壮大で夢のある“湘南小麦プロジェクト”をこれからも応援していきます! 今後も、随時サイトまたは会報誌上でプロジェクトの様子をご報告する予定ですのでお楽しみに!


次回は、工場へ潜入させていただきます!!


今年収穫した小麦
(生産者:市川健次さん、加藤忠秋さん)


◆農林61号・・・主にうどん用として広く栽培されている品種。タンパク質量は8%程度と低いため、パン用の場合は他の小麦とブレンドして使われることが多い。噛んだ時の硬さはニシノカオリ、アサノヒカリよりも弱い。味はあっさりとしていてシンプル、甘み、香りともに少ない。
◆ニシノカオリ・・・温暖な地での栽培に適した製パン性に優れた強力粉タイプの小麦。穂の色合いがやや白い。タンパク質量が高い硬質小麦でかなり硬いため、石臼で挽くのが難しい。噛み砕くと粉っぽさを感じる。
◆アサノヒカリ・・・温暖な地での栽培に適した製パン性に優れた強力粉タイプの新品種。ニシノカオリ同様、穂の色合いがやや白みがかった硬質小麦の新品種。噛み砕くと、すっきりとした味わいの中に、甘みと香りが広がる。