「ラ・マン・キ・パンス」すなわち「考える手」。その昔、フランスの数学・哲学者パスカルは人間を「考える葦」と定義しました。人間は弱い存在であるけれど、「考える」ことができるゆえ偉大であるのだ、と。パン職人にとって手はいわば命のようなもの。いくら理屈で考えパンを作っても、それだけでおいしくなるとは思えない。手が覚えている感触、温度…それは手が考えていると言ってもいいのかもしれません。そんな思いで改めて店名を見つめると、そこにはシェフのパン作りに対する哲学が見え隠れしているように思えてきます。





2005年6月、川崎市生田に誕生したブーランジュリー、「ラ・マン・キ・パンス」。駅からわずか徒歩1分という好立地にあるこの店は、とてもシャープで都会的なイメージ。店内はシンプルだけれど、スタイリッシュなデザインの照明、そして降り注ぐ陽の光とともに、明るくすがすがしい空気の流れを感じます。シェフの田野尻 崇さんは弱冠27歳。まだ初々しさの残るその姿に秘められたパンへの情熱を伺いたくて、今回取材をお願いすることにしました。

「こだわりなんて何も…当たり前のことをしているだけですから。それに、まだまだ納得のいくパンは作れていないんです。でも、3年後にお店が満足のいく形になっていればいいなと思っています」

これが、初めて田野尻さんにお会いした時に聞いた言葉。しかし言葉は謙虚ながらも、そこに隠れる決意や自信といった、頼もしい何かを感じたのを覚えています。第一印象は「シャイで寡黙な職人肌」。でも今回の取材中、無邪気に話すその姿からは職人の気難しさなどはみじんも感じられず、そこにはただパンが好きでたまらないという一人の青年の姿がありました。



出身は鹿児島県。高校時代まで過ごした枕崎市は、鰹節が有名な港町です。そんな環境の中、田野尻さんがパン屋を目指した理由とは…

「パンを食べることが好きだったんです。高校は普通科に通っていたんですが、大学受験を目の前にした時、自分は大学に何をしに行くのか分からなかった。親の金を使ってまで4年間も行く価値があるのか?それなら自分が好きなことをやって、その貴重な4年間を過ごしたほうがいいと思ったんです」

そう思ったとたん、田野尻さんはすぐにパン屋のドアをたたいた。

「製パン技術を学べる専門学校への入学も考えたんですが、その時、すぐ現場に入ったほうがいいとのアドバイスをもらったんです。その頃ちょうど高校の商業科の方に「ドンク」から求人がきていて、父親の勧めもあり入社することにしました」

そして、配属されたのは鹿児島三越の「ジョアン」。パンが好きと言っても、その時までパンを作った経験のない田野尻さんにとっては、その4年間が初めてのパン修業。友人たちが大学生活を送っていたその時期、田野尻さんは自分の好きなことに向き合い、ひたすら修業に励んでいたのです。しかし、朝早くから夜遅くまで働くという忙しい日々が続き、とうとう体調を崩してしまったそうです。

「もともと喘息持ちなんですよ。体調を崩したことがきっかけではあったけれど、正直言うと仕事が少し面白くなくなってきてい たんです。いろいろ考えましたが、結局会社を辞めることにしました」



パンと真剣に向き合った4年間を過ごした後、田野尻さんが向かったのは、芸術の国フランス。

「実は、ずっと芸術に興味があったんです。それに、「ドンク」ではフランスパンを作っていたので、以前からフランスには行きたいと思っていました。でも、パン修業だとかいうつもりは全くなく、実は一番の理由は、その時好きだった人に失恋してしまって見返してやろうと思ったからなんです(笑)」

そう思ったら行動は早い。フランスへのワーキングホリデービザを申請、認可されるとすぐフランスに渡ったという。
ワーキングホリデーとは、異なった文化の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うため就労することを認める特別な制度。バカンスを主目的としながら本場パリのブーランジュリーで働くことができる、それは、当時の田野尻さんにとって最適な制度であったに違いありません。

「まず南仏で2週間ほど語学学校に通ったんですが、全然身につかなくて。ちょうどその頃、パリから来た日本人がオヴニー(パリで発行されている日本語情報誌)を持っていて、たまたまそこにメゾン・カイザーの求人広告が載っていたんです。それですぐに応募してパリに行きました」



「メゾン・カイザーでは、本店である5区のモンジュ店で研修後、15区のコメルス店に配属されました。約9ヶ月間、製造を担当していたのですが、その間に一通りのことはやらせてもらえました。窯も任せてもらえましたし」


パリでの充実した生活。それは、田野尻さんが日本で培った技術と経験に基づくものであったのは確か。しかし、そんな田野尻さんにもやはり苦労はありました。

「言葉ができなかったので、始めは大変でしたね。他の人が何か失敗しても、言葉が分からない僕のせいにされたり。でもシェフがすごくいい方で、僕のことをよく理解してくれていたんです。とても信頼できるシェフでした」

それはシェフのほうでも同じだったに違いなく、本店であるモンジュ店に異動する話もあったとか。しかし、ワーキングホリデーの期限は最長で1年間。結局異動の話も断った田野尻さんがお店を辞める時には、シェフをはじめ従業員みんなに惜しまれたといいます。田野尻さんの純朴で誠実な人柄が、国を越えて親愛の情を芽生えさせたことは間違いないようです。


レジの隣にはクグロフやラスクなどのお菓子も 



黒蜜の風味豊かなクッキーも美味


しかし、フランスでもパンの世界にいた田野尻さんが、帰国後次に目指したのは意外な道でした。

「帰国してからいろんなパン屋を食べ歩いたんですが、日本のパンはおいしくなかった。それでパンはもういいかなと思ってしまったんです。以前から美術が好きだったこともあり、今度は『絵をやろう!』と思いました。そして、美大へ入学するために入試までの3ヶ月間、予備校に通ったんです」

“パン一筋“のように映っていた田野尻さんの人生、しかしどうやら本人には、パンに対してそれほどの執着心はなかったようです。とはいえ、人生の進路を変えることにはかなり勇気がいるはず。それでも自分の気持ちに素直に従う潔さが田野尻さんにはありました。それは、もしかしたら若さゆえの特権なのかもしれません。しかし残念ながら美大には不合格。それでも諦めきれなかった田野尻さんは、絵を描きたいという想いを持ったままパン屋でアルバイトを始めます。「ブルディガラ」、「ポール」など有名店の名前が並ぶアルバイト歴。中には社員登用の話が出たお店もあったそう。でも、自分が学びたい技術がそこにはないという判断から、その後も田野尻さんのアルバイト生活は続きます。しかしその頃、田野尻さんの人生において大きな出会いがありました。それは奥様である茨草(しそう)さんとの出会い。

「美大へ入るための予備校で、隣だったのが彼女なんです。僕は油絵だったんですが、彼女はデザイン系。彼女とならこれからの人生、一緒にやっていけると思って」

そう、「ラ・マン・キ・パンス」で大きな存在となっているのは奥様である茨草さん。お客さんを迎える彼女の元気な声と明るい笑顔。

「お客さんは僕よりもだいぶ年上の方が多くて、何を話せばいいのか分からないんです。だから接客は彼女に任せているんですよ」

そして、パンを入れる袋に一つ一つ貼ってくれるネームシールも茨草さんの手作り。もちろん、お店のデザインにも茨草さんの意見が多く取り入れられています。そして、何よりもこの店を開くことになったのにも彼女の存在は大きかったといいます。

「実はその時点ですぐに店を出そうなんて考えはまだ無かったんです。でもここでテナントを募集しているのを見て、気にはなっていました。そうしたら、なんとここの家主さんと彼女の両親が知り合いだったんです。彼女の父親の勧めもあったし、フランスでお世話になった人から『店を出すなら30歳までに出しなさい』と言われていたこともあり、思い切ってパン屋を開くことにしたんです」

一度は絵描きを志したものの、ここでまた急展開。とは言え、ずっとパン作りに携わっていたのですから、田野尻さんにとってはやはりこれが自然な流れだったのでしょう。


思わず集めたくなるネームシール。
買ったパンの名前が分かるのもうれしい!



かわいらしいハート型のガトーショコラも


現在、店で働くスタッフは、田野尻さんと茨草さんの他に2名。一人は「ブルディガラ」でアルバイトをしていた時の仲間、そしてもう一人はなんと鹿児島からこのために呼び寄せた友人。信頼できるスタッフに囲まれた田野尻さん夫婦ですが、やはり開店後半年ほどは寝る暇もないほど忙しく、その頃は店に寝泊りする日々だったそうです。しかし現在は店の近くに家を借り、少し気持ちに余裕もでてきた様子。それでも朝5時には店に入り、12時に帰宅するという日々が続いています。しかし田野尻さんは自分の人生への気配りとともに、スタッフへの気配りも忘れません。

「仕事ばかりの人生にはしたくない。だからうちは定休日も2日あるんです。僕はそのうちの1日は仕込みのため出勤していますが、スタッフにはしっかり休みをとってもらいたくて」



田野尻さんとの会話の中で感じるのは、彼がとても柔軟な頭を持っているということ。その程よく力の抜けた考え方と、自分の進む道をしっかり見極めるという意味でのマイペースさ。「ラ・マン・キ・パンス」の近くには大学や高校があるにもかかわらず、

「フランスのパンの精神が好きなので、お店にはメロンパンなどの菓子パンは置いていないんです。でも、毎日ハード系のパンを買いに来てくれるお婆さんもいるんですよ。毎日50〜60本のハード系が売れるというのは、うれしい驚きですね」

接客は苦手だと言っていた田野尻さん、だが実は地元のお客さんとも交流を深めているよう。

「この間、夏みかんのピールの作り方を近所のお客さんに教えてもらったんです。すごくおいしいんですよ。これを使った期間限定の新商品を出す予定です」




「こんなにふんわり焼き上がるんですよ」と自慢のパン・ド・ミは
東毛酪農の牛乳を使ったもの


開店して1年足らず、お店も軌道に乗り全てがいい方向に向かっている田野尻さんに、今後の展開を伺ってみました。

「香りと旨みのあるパンが好きなんです。今は修業先のお店で学んだものを元にしたパンが多くを占めていますが、基本的には全てオリジナルを目指しているんです」

それが3年後までの目標。
さらにその後の将来は、

「またいつかフランスに行くことができたらと考えています。彼女もそれは理解してくれていますし」

「えっ、そうしたら、ラ・マン・キ・パンスは無くなってしまうんですか?」との問いかけに

「大丈夫ですよ。戻ってきてからも日本でお店をやるつもりです!」

と笑顔で答えてくれた田野尻さん。

良き理解者と気心の知れた仲間に囲まれて、のびのびとした若い力を存分に発揮することができる田野尻さんの「考える手」は、まだまだ無限の可能性を秘めているはず。 そう、まずは3年後…!!

(2006.04)

奥様・茨草さんと一緒に



ラ・マン・キ・パンス
住所 神奈川県川崎市多摩区生田7−11−8
TEL&FAX044−934−3757
営業時間10:00〜20:00
定休日日曜・月曜
アクセス小田急線生田駅から徒歩1分