心地よい風が吹き抜け、紅茶に映った青空を少し揺らした。青山墓地というロケーションが、心を静かな場所に落ち着かせてくれる。光が差し込む開放的な店内は、どこかのお宅に訪問したかのような穏やかさと共に、凛とした空気が流れている。街を歩いていて、いい店に出会えると、“縁”のようなものを感じることがある。「ショコラ・シック」のオーナーパティシエール足立由子さんも、“縁”あって、この青山の地に店を構えることとなった。


青々とした芝生の庭を臨むテラス席。都会の喧騒を一瞬忘れさせてくれる。



「私の祖父母が、六本木で骨董業を営んでいたのですが、六本木ヒルズの開発計画が始まって、立ち退きで青山に移ることになったんです。もう10年以上も前の話で、当時はまだ学生でした。お菓子作りが好きで、大学に行きながら、夜間は東京製菓専門学校に通っていました。骨董屋というのは、商談を通じて商売が成り立つもの。いいお客様がたくさんいらっしゃるので、お土産や茶菓子として自分のお菓子が出せたらいいんじゃないか・・・というのが始まりでした。蓋を開けてみたら、随分場所を取ってしまったのですが(笑)」

大学を卒業して、就職したのは狛江にある「セ・ジュール」。細部にこだわることの大切さ、素材の味をいかに活かすか、地元のお客様とのつながりを持つこと・・・藤田シェフからは、オーナーとして、職人としての心構えをとことん叩き込まれた。最初の店がセジュールで本当によかったと、足立さんはいう。1年間働いた後、かねての希望であったフランスへ。コルドンブルーで2年間のスタージュを終え、帰国した。その時点で、2年後に開店することが既に決まっていた。

「修業するにしても、期限付きですから。正直に事情を話して、理解していただけるシェフのもとで働きました。帰国してまず入ったのは、青山の「アニバーサリー」。本橋シェフには、店をやるんだったら厨房だけでなく販売も見たほうがいいだろうと、両方を経験させてもらいました。それから、つつじが丘の「ルミュー」でオープニングスタッフとして。こちらでは全て一から店を作り上げていく作業だったので、本当に勉強になりましたね」

ひろびろとした店内にはソファー席もあり、自宅でくつろぐように、ゆっくりとした時間を過ごすことが出来る

側面に木を貼り、店の内装と素材感を統一させたショウケース。座ったときに目の高さになるように設計している


オープンしたのは2003年12月。開店当時は、足立さんがココアが大好きだったことから「ショコラ・ショー」という店名でスタート。しかしある会社が同名で商標登録していたことが分かり、店名を現在の「ショコラ・シック」に変更。ちょうどその時期ご自身の結婚も重なり、新たな人生のスタートを切ることとなった。

「店名は変わるわ、私の苗字は変わるわで、他の店になったのではないかと一部には思われたみたいですけど・・・(笑)そうしたら今度は、妊娠が分かりまして。オープンしてまだ1年程だったので、どうしよう!って思ったのですが、ジタバタしていても来るべき日は来るもの。私がいなくても店が回るようにスタッフに教え込みました。子供が生まれたのが11月11日でしたが、結局10月31日まで働いていました。2月には復帰したのですが、クリスマスからバレンタインと、菓子屋が一番忙しい時期でしたから大変でしたね・・・(笑)」

オーナーパティシエールになると共に、母になった足立さん。サラリーマンとして働くご主人からは、違う職業だからこそ、精神的に支えられている部分も多いという。  

「夫は、お菓子がそんなに好きなわけではなくて、味のコメントなんかも全く(笑)。でも、私が行き詰った時に、全く異なった視点からアドバイスをしてくれるので、却ってそれに救われることが多いんです。本当に助けられていますね」


生菓子は常時約15種類。丁寧に仕上げられたケーキ達は、柔らかな光に浮かび上がるようにして、美しく並べられている


子供や家族の話題が出ると、ふわりと自然に笑顔が浮かぶ。柔らかな女性らしさを持ちながら、その芯にあるのは確固たるもの。それは、ショコラ・シックに並べられたお菓子の全てに表れている。バターのコク、砂糖の旨み、ショコラの香り・・・と、素材の力を十分に引き出し、くっきりと浮かび上がらせた味わいは、目が覚めるような力強さがある。

「お菓子はあくまで嗜好品。フランスで修業もしましたが、フランス菓子に固執することはなく、日本のショートケーキでもアメリカのシフォンケーキでも、おいしいものならばこだわらず作ります。何を作るかということよりも、最終的な味にどれだけこだわるかが重要。都心と23区外の両方で働いてみてわかったのは、受け入れられる味には地域差があるということ。私は、濃厚な味のものが好みだったので、それを受け入れてくださるお客様が多い今の立地はとてもありがたいですね。」




ショートケーキにモンブラン、チーズケーキ・・・と誰からも愛されるようなスタンダードな商品構成。シンプルだからこそ、味にごまかしは効かない。ひとつひとつのケーキにしっかりと向けられた眼差しは確かなもの。そのこだわりは、素材選びにも鋭く光る。

「卵ひとつでも、10種類以上の卵を仕入れて、全て生卵で食べ、一番臭みの無い相模原の地鶏卵を選びました。“高級”な素材よりも、“高品質”な素材を選んでいます。この辺りのお客様は、材料や包材の質を落とすと、すぐに分かってしまうんですよ。手を抜けないし、非常に励みになります」


シュー・ア・ラ・クレーム ¥300
しっかりと焼きこまれた皮には、地鶏卵を使った濃厚なパティシエールがたっぷり。作り手の意思を感じさせる、力強い味わいだ



「支店を持つ気はまったく無くて、目の届く範囲だけでやりたいと思っています。百貨店から声をかけていただくこともあるのですが、基本的にはお断りしているんです。こじんまりとやっているからこそ回転がいいので、焼き菓子でもフレッシュなものを提供できる。それは、うちの店の大きな強みだと思っています」


店の売り上げの中核を担うのは焼き菓子。地方発送のギフトの注文なども多い。ガレットやフィナンシェなど、焼きたてのフレッシュ感が伝わる。生命感あふれる焼き菓子はどれも魅力的だ


店内から見える厨房も、店内と同様に広々と清潔感がある。赤いサロンをキリリと巻いてきびきびと働くスタッフ達の姿が清々しい。ショコラ・シックのスタッフは全て女性。ここには足立さんの想いがこめられている。

「自分もいくつかの店で働いてきて実感したことですが、パティスリーの現場は、女性にとって本当に厳しい労働環境です。実際、体力的にきつくて辞めていった友人もいました。初めにそういう現実に直面してしまって、パティシエをやめようって思わせてしまったら、それはすごく重大なことだと思うのです。私は、そうはなりたくない。私自身、細く長くこの仕事を続けたいと考えているので、ここは他店に比べてかなり労働条件が恵まれていると思います。そういう意味では、新卒でくるにはふさわしいお店ではないかもしれません。店としても、まだ過渡期なので、面接に来た方には“教わる”のではなく、“一緒に店を作っていく”気持ちで働いてほしいと話しています。それでも、メリハリは必要なので、どこで厳しくして、どこで労わるかというのは、この3年間で学んだことでもあります。 “ポジションが人を作る”といいますが、スタッフあっての、今の私だと思っています」




「今やこの職業がブームになっていますけれど、パティシエールになるって店を持つことだけじゃないと思うんですよ。自分でお菓子教室をやることも、家庭で子供においしいケーキを作ってあげることも、それはそれで立派なパティシエールだと私は思います。いくら難しい技術を使ってケーキを店で作っても、自分の母親が作ってくれたケーキの味には及ばないんですよね。おいしさは技術や数値では測れないもの。なにも形にこだわることはないと思うんです」

店の中に入ったときに感じた凛とした空気は、外から入ってきた秋風のせいだけではなかったようだ。足立さんのしなやかな意思が、この店にはすみずみまでいきわたっている。

『将来の夢・・・?細く、長く続けたいですね。それだけです、はい』

微笑んで語ったその言葉がよみがえる。彼女は、一生“パティシエール”で居続けるのだろう。




ショコラ・シック
住所東京都港区南青山2-17-7
Tel03-5413-5400
Fax03-5413-5770
営業時間10 :00〜18:30
定休日水曜
アクセス地下鉄銀座線「外苑前」駅より 徒歩5分
URLhttp://www.chocolat-chic.com/