八王子市にある『ア・ポワン』はお菓子好きの間では良く知られている名店だ。初めてこの店のお菓子を口にしたとき、その優しい味わいに感動せずにはいられなかった。それからというもの何度も足を運ぶようになったが、いつ訪ねてもお客様が多くて品薄状態。どうやら、どんなにお客様が増えても大量生産しない方針らしい。そんなこだわりをもってお菓子を作り続けているのはどんな人なのかと、期待に胸を膨らませながら店までの道を歩いていた。  






「僕、自分をお菓子屋だと思っていないんです」

シェフの岡田吉之さんは切り出した。
今まで何人ものシェフに話を伺ってきたが、こう言われたのは初めてだ。いったいその言葉の裏にはどんな意味が含まれているんだろう。話を進めていくうちに、その謎は明らかになっていった。
岡田さんは経歴からして少し変わっている。祖父の代から法律事務所を営む厳格な家庭に育ち、大学は法学部に進んだ。六法全書を片手に勉学に勤しむ生活が一転したのは大学3年生の時。

「スキー場のレストランでバイトを始めました。何気なく始めた料理とお菓子作りでしたが、これがとても楽しかった。何故って料理やお菓子には人を喜ばせる力があるからです。スキーでお腹をすかしてやってくるお客様の顔が、食事をするとみるみる赤みを増して元気になっていく。これだ、と思いましたね」

そして下山するなり退学届を出してしまう。こうして岡田さんは調理の世界に足を踏み入れることになった。

退学してから向かった先は調理師学校。パティシエを目指していたにもかかわらず調理師学校を選んだのは、幅広い知識を習得するためだった。学校を卒業した後も菓子屋に就職せず、銀座のステーキハウスに入ったというからユニークだ。

「レシピに忠実に作業する菓子職人とそうではない料理人の考え方は、根本的に異なります。ともすれば菓子職人は機械的になってしまうが、僕は料理人のように自由な発想で臨みたかった。料理屋での経験が、結果的に菓子を作る上でも役立っているんです」

その後パリ『ジャンミエ』やアルザス『ジャック』などで修業を積み、92年、地元の八王子に自店をオープン。
法律の世界から一転、料理の世界を経てたどりついた菓子の世界。「菓子屋ではない」と思う岡田さん独自の発想が生まれるのは、このような経験を基にした強い個性によるものだ。





一例をあげるとすればマカロン。『ア・ポワン』の名物としても有名なこのお菓子は岡田さんの菓子作りの原点。岡田さん独自のアプローチはこうだ。

「マカロンは構造的に最中に似ています。最中は小豆を、マカロンはアーモンドをおいしく食べさせるお菓子。最中が美味しいのはさくっとした皮としっとりした餡との食感のコントラストがあるから。同様にマカロンも表面をカリッと仕上げ、中にアーモンドの旨みを封じ込めたい。そのためにはまず高温で回りを焼き固めます。中はレアの状態で。肉を焼く時もそのほうが美味しくなるでしょ」

そんなわけで、マカロン焼成のイメージはステーキだという。イメージが固まった後は理想の味に到達するまで何度も試作を繰り返す。試行錯誤を繰り返し、マカロンが完成するまでに6年の歳月を費やした。『ア・ポワン』のマカロンを食べた時、その繊細な食感に驚いたが、その裏にはマカロンに対する岡田さんの並々ならぬ想いが隠されていたのだ。  





マカロンに限らず『ア・ポワン』のお菓子にはここでしか味わうことの出来ない共通の味がある。それは「母親のような優しい味わい」。複雑化した多重構造の菓子とは違う。目指すのはシンプルな構成の中に深みをもたせたもの。シンプルといっても、単に素材を組み合わせただけの足し算的発想からは深みは生まれない。このことは『ア・ポワン』自慢のメレンゲ菓子やシュークリームなどを食べると納得する。素材のハーモニーや菓子作りのプロセスにかける手間がプラスされる相乗効果で、1+1=3になるような菓子が出来上がるのだ。

「口の中で咀嚼という行為があり食道を通って胃袋に入る。その間にドラマを作りたい。コクがあるけどキレがある、そんな味が理想」

と話す。
そしてもうひとつ、「材料にこだわらない」ことも岡田さんのこだわりである。

「大切なのは腕。普通に手に入る材料で平凡な菓子を非凡なものに変えるテクニックが職人に必要なことだと思うから」  





厨房でそんな話を聞いているうちに、調理台の上に次々とケーキが並べられた。

「さあ、どうぞ」

「おいしいですね!」素直に感動してしまう。バニラと卵の風味が豊かなシュー、そしてスッと口の中で消えていくようなメレンゲ。温かみのある味わいについつい頬が緩んでしまった。しかし、単にそれだけではなく、素材の力強さを感じさせる味わいだ。岡田さんの魔法にかかると、普通のお菓子がこんなにも印象深いものになるなんて。これが「テクニック」なのかもしれない、そんなふうに思った。  



開店から12年を経て、『ア・ポワン』はおしもおされもせぬ人気店となった。あこがれの店で働きたいとやってくる人も多いそうだ。若いスタッフを育てていく立場として感じているのはどんなことだろう。

「最近の人は自分の味覚に対する尺度が段々なくなってきているように思います。大切なのは自分の価値観をお菓子に反映させることなんです。配合と手順どおりに作っているだけではなく、なぜこのお菓子はおいしいんだろう、というアプローチがないと味覚は育ちません。それから、お菓子に対する愛情ももっと必要。給料の範囲内で作業をし、作業=仕事と考えているうちはおいしいお菓子は作れないでしょう」

と語り口も熱く、まるで先生のよう。若いスタッフに対し、岡田さんはとにかく自分の全てをぶつけているそうだ。自分がどれほどお菓子が好きで情熱を注いでいるか、毎日のように語りかける。今はわからなくても、ある年齢になれば気づくかもしれない。

今日もそんな熱い思いで岡田さんは厨房に立つ。

「僕が触媒になって彼らの中で何らかの化学変化がおきてくれればいい。菓子を通して自己形成できるようになれば未来は明るいから」。