手にした感触はスポンジケーキ?それともシフォンケーキ?けれどもひとたび口にすると、全く別物であることに気づかされる。ふわりとやわらかな口あたり。しっとり、それでいてさっくりとした歯切れの良さ。フランス菓子とは思えないほど軽やかな喉越し。

「ビスキュイ・ド・サヴォアといって、フランス・サヴォア地方の伝統菓子なんです。私にとって、とても思い出深いもの。基本に忠実に、古典的な配合を守って作りつつ、少しだけ変化をつけています」

シェフの阿部政樹さんがいう“変化”というのは、シトロン風味をつけたこと。卵、砂糖、薄力粉、コーンスターチという基本素材にレモンのゼストを忍ばせた。それも、ほんのりと自然に香る程度に。結果、爽やかで上品な後味が実現。また、決して焼き過ぎないよう火入れに注意を払うのも、しっとり仕上げるための大切なポイントという。派手すぎず、主張しすぎず。さりげないおいしさが心に響く。


14世紀から伝わるというビスキュイ・ド・サヴォア。ソースやジャムを添えて食べるのがフランス式



阿部さんは新潟市出身。和洋菓子店を営む両親のもとで育った。こう聞くと道は決まっていたように思える。しかし当の本人にその気はなく、いたって普通に大学まで進学しようと思っていた。それが、

「高校を卒業するときに、父から“手に職をつけてみたらどうだ?”と勧められて。業者さんの紹介で池袋のパティスリーで働くことになったんです」

この時、弱冠18歳。職人としてのスタートを切ったものの、とにかく大変だったと当時を振り返る。年齢的に余裕もなければ、初めての東京暮らしもままならない。結局、一旦新潟に戻り、市内のパティスリーで働きながら気持ちを立て直すことに。そして2年後に再び上京。世田谷区の「フカサワ」で再スタートすることになった。ここでパティシエとしての経験を積み、また東京生活にも慣れてきた頃、阿部さんの中である想いが強くなっていった。

“もっと深くフランス菓子を学びたい”


バタークリームを使ったクラシックなものや夏向けの色鮮やかなものなど様々なタイプのプティガトーが楽しい


「同じ世田谷区内にあるオーボンヴュータンを訪れたとき。その品揃えの多さにびっくりしましたね。アントルメにプティガトーはもちろん、ヴィエノワズリ、フールセック、ドゥミセック、グラスにコンフィチュールまで・・・。フランスそのものの姿に衝撃を受け、河田シェフのもとで働きたい、と」

25歳のときに飛び込みで入店し、結果は採用。とはいえ、決して甘くない現実が待っていた。

「掃除、片付け、洗い物。これが初めの1年間に任されたことでした。正直、つらかったですね。これまで7年間パティシエとしてやってきたことはどうなるんだろうって。でも辛抱してやり抜いて2年目にようやく仕事をもらえたとき、精神的に進歩した自分に気がつきました」



マカロンはショコラ、木苺、バニラ、レモン、カフェの5種類


1年間辛抱した後は、「ガトー・ピレネー」の担当に。ガトー・ピレネーといえば、オーボンヴュータンの顔ともいえる伝統菓子。

“いきなりこんな重要なポジションでいいの?!”

と恐れおののく阿部さんに、河田さんのひと言が効いた。

「『大切な菓子なんだから、しっかりやれよ!』って。叱咤激励されて、これはチャンスだからと必死でやりましたね。ガトー・ピレネーって、製法自体はとても簡単。卵、砂糖、粉、バターで作った生地を芯棒に少しずつつけて焼いていくだけですから。でも、だからこそちょっとした火加減や回転速度で食感や味わいが変わってしまう。素朴なようで奥が深いお菓子です」

その後も3年目にラミノワ(フィユタージュやパート類の伸ばし)、4年目にオーブン、5年目に生地の仕込みを任され、順調に技術を習得していった阿部さん。けれども、心の中にはある変化が芽生え始めていた。

「オーボンヴュータンでは担当制なので、じっくりと基本の仕事を学ぶことができました。作る量や種類も半端ではないので頭を使わないと仕事にならない。自分が一番成長した時期だと思います。でも、フランス菓子を目指すからにはやはりフランスへ行きたかった」


焼き菓子類は棚や籠にディスプレーして賑やかに


落ち着きある静かな口調で話を進める阿部さんだが、その言葉の端々から内に秘めた意志の強さが垣間見える。事実、フランス行きを決意したとき、120軒ものパティスリーに手紙を出したというのだから。

「人生一度しかないですからね(笑)。パリ以外の場所に行きたかったので、地方で気になるパティスリーに出しまくりました。その中から手ごたえのあった店のひとつが『ビロウデェ』だったんです」

ビロウデェはフランス・ノルマンディー地方にあるパティスリー・ショコラティエ。お菓子やショコラ以外にもパンや惣菜なども扱っている、いわば典型的な“地方のお菓子やさん”だ。そしてノルマンディーといえば、リンゴが特産。こうした土地のものを活かした菓子もたくさん並んでいた。

「例えばリンゴをざっくりとのせて焼き上げたタルトや、リンゴのお酒、カルヴァドスを使ったボンボン・ショコラみたいに、土地の特産物を使って表すのがフランスのスタイル。地方色が濃く残っているのも日本とは違って新鮮でした」


ショコラティエ モランのスペシャリテは、放牧させる牛につける鈴(左)をかたどったショコラ(右がショコラの型)


そうした傾向は、次の研修先であるサヴォア地方の「ショコラティエ・モラン」でも見られた。

「この地域で生まれた伝統菓子、ビスキュイ・ド・サヴォアを作っていたのがこのショコラティエ。凹凸のあるデザインは、アルプスの山々をイメージしていると言われています。シンプルですけれど、素朴なおいしさに惹かれましたね」

ショコラティエ・モランがあるのは、サヴォア地方の中でも人口わずか1500人という小さな町。スキーのリゾート地として知られ、ハイシーズンには各地からの観光客で賑わうものの、それ以外はいたって静かだ。都心にはないゆったりとした時の流れに共感を覚え、山あいにあるこの地で、主にショコラについての技術を習得していった。

「ガナッシュを作って、それを伸ばしてカットした後、コーティングする。ショコラって作業自体は単調ですよね。でも、そこには緻密なルールがあって、きちんと守ってあげないと良いものにはならない。そうやって完成した艶々のショコラを口にしたときに気づいたんです。シェフが手間暇かけて丁寧に作っていたわけはこれだったんだって」

それは同時に、“ショコラだけでなく、良い菓子を作るためには時間がかかる”と、阿部さんの中で確信した瞬間でもあった。


フランス産カマルクの塩を使ったキャラメルや季節のコンフィチュールなども




その後はシャモニーの2つ星レストラン「アルベール・プルミエ」、パリのレストラン「プティ・コロンビエ」でデセールを学んだ後、2004年に帰国。金沢のパティスリーを経て、2006年2月に自店をオープンした。その際に意識したのは、

「フランスらしい菓子屋でありたい、ということですね。小さくても、プティガトーからアントルメ、フールセック、ドゥミセック、ヴィエノワズリ、コンフィズリーまでひと通りのものを楽しんでもらえるような店にしたいと思っています」


ショーケースの上にはシェフの自信作の伝統菓子がずらりと並ぶ

アーモンド入りカステラ生地を、アーモンドペーストで包んで焼き上げた「パヴェ」

パン・ド・カンパーニュの形をした焼き菓子、「パン・コンプレ」



中でも欠かせないのが10数種類揃う伝統菓子だ。ビスキュイ・ド・サヴォア、カヌレ、コンベルサシオン、ポンヌフ、ミルリトン、ピティヴィエなど様々な地域のものがショーケースの上で肩を並べている。更にチョコレートのムースにリンゴのキャラメリゼを忍ばせた「ノルマンディーズ」や、紅茶風味のホワイトチョコレートムースにラズベリーとブルベリーを合わせた「メゾン・ド・サヴォア」など、阿部さんの修業先に思いを馳せたプティガトーも魅力。

「『ノルマンディーズ』はカルヴァドス入りボンボンショコラからヒントを得たお菓子。リンゴのキャラメリゼにカルヴァドスでフランベしたものと、フルーツの酸味に負けないビター系のチョコレートを合わせています。それから『メゾン・ド・サヴォア』。サヴォアはブルーベリーやラズベリーの産地なんですよ」

どちらもしっかりと主張がありながら、酒を控えめにするなど優しさを秘めた作りこみ。子供や年配の方が多い場所柄、こうした配慮も忘れない。


カカオのおいしさを堪能したい「ノルマンディーズ」

ホワイトチョコレートと紅茶、フルーツの組み合わせが夏にぴったりの「メゾン・ド・サヴォア」


最後に今後のことについて尋ねると、

「将来的にはショコラのケースも揃えたいし、イートインスペースも作りたい。今、厨房では私とサポート役の妻との2人体制でやっています。最近スタッフが1人増えましたが、あくまでも自分の手の届く範囲でやっていきたいですね」

落ち着ける環境の中、自分のペースで、できる限りのいい仕事をしたいと望む阿部さん。東京のベットタウンとして知られる町田市を選んだのもそのためだ。ゆったりとしたときの流れが似合うこの場所で、自由に菓子と向き合う。






オー・プティ・グルマン〜小さな食いしん坊たち〜は、人々の日常の中に静かに溶け込んでいる。




オー・プティ・グルマン
住所 東京都町田市南成瀬4-1-15 1F
TEL042-723-0019
営業時間10:00〜20:00
定休日火曜(祝、祭日の場合は翌日)
アクセスJR横浜線成瀬駅より徒歩5分