東京・向島。その響きだけで、あるイメージが膨らんでしまう。昔ながらの商店街、江戸っ子気質、人情味溢れる人々、 ・・・。いわゆる下町文化を育んできたディープなエリアだ。ここ「アビニヨン」も、そんな情緒たっぷりの場所にある。2007年10月、東向島駅近くの商店街の一角にそのパティスリーはオープンした。モノトーンでまとめられたシンプルでモダンなファサードには、ごく控えめに「Avignon」の文字。外側からは小さな飾り窓と目立たないたて看板が見えるだけだから、何の店かわからずに通り過ぎてしまいそうになる。下町らしからぬ一風変わった風情には、土地柄、賛否両論あったに違いない。

小さな飾り窓には小物をセンス良くディスプレイ。“中はどんな店?”と期待が膨らむ


「それはもう、皆さんはっきりしているので(笑)。『全然変わっちゃったわね』なんて言われることもあります」
とシェフの佐藤孝典さん。実はここアビニヨンは、佐藤さんの父親が始めた和菓子屋が前身。今から34年前に店を構え、その後洋菓子に転向、ショートケーキやチーズケーキなどがメインの“街のケーキ屋さん”として親しまれてきた。その店を譲り受けた佐藤さんが、場所と店名はそのままに、外観も商品もそれまでとは全く異なる店として再スタートを切ることに。アビニヨンの歴史を一新したその大胆で挑戦的ともとれる構想は、どんな風に膨らんでいったのだろうか。早速、店の奥の厨房内で取材がスタートした。

“ゆったりとした時間を過ごして欲しいから”と、店内は雑貨店をイメージしたインテリアに。温かみのある雰囲気が心地よい


「小さい頃はショーケースに入ったり、ケーキめがけてつっこんだりしてよく叱られました。もちろん、お菓子は大好きで。そのうち店を手伝うようになったのもごく自然なことでしたね」
家族皆で店を切り盛りするような、典型的な昔ながらの菓子屋の息子として育てられた佐藤さん。高校卒業後は父親に薦められるままにとりあえず菓子の道へ。紹介してもらった先は銀座の「ガトー・ド・パリ・ルショワ」。多くのシェフを輩出した名店で修業できるという、さい先のいいスタートを切った。
「実をいうとルショワを知らなかったんです。いつも家のケーキを食べていたからよその店で買う機会もなかったですし。そもそもルショワに決めたのも、家から通い安い場所だったからで・・・。今思えば、ずい分甘い考えでしたね」
甘く考えていたのは、なにも通勤のことだけにとどまらない。仕事内容についても同じ。これまでの経験が役に立つのでは、といった淡い期待は、一瞬にして打ち砕かれてしまった。それほどルショワの厨房内には別世界が広がっていた。
「まず驚かされたのが、コマ(業務用急速冷凍庫)。実家ではスポンジとクリームのケーキが主体だったから冷凍する必用もなかったんです。他にもわけのわからない機材だらけだしルセットはフランス語だしで、始めは“わかりません”“知りません”の連続。とにかくカルチャーショックでしたね」
タルトやムース、デセールなど、味の面でも初体験のものばかり。そのおいしさにもショックを受け、とにかく早く仕事を覚えたい一心で働いた。割り当てられた仕事が終わると他のセクションで手伝ったり、朝早くから出勤したり。その甲斐あってか、1年経った頃には窯の担当に。他にもグラスや生地のセクションなども経験し、武江 章シェフの下で徹底的に基本をたたきこまれた。
「シェフが各セクションにまわってくると空気がピリッと張り詰めるんです。少しでも焦がそうものなら怒鳴られるし、掃除の仕方まで細かく注意されるしで、とにかくこわかった。でも、それには当然わけがあって、シェフの仕事振りは綺麗で完璧だし、出来上がったお菓子もしみじみおいしい。決して奇をてらうことのないスタンダードなおいしさや丁寧に仕事をすることの大切さを教えてもらいました」

シューを手頃な価格で提供したり、コクと軽さを出したショートケーキを並べたりなど、定番にこそ力を注ぐ


ルショワに入って3年半ほど経った頃、佐藤さんが更なるカルチャーショックを受ける転機がやってきた。それが、川口行彦シェフとの出会いだった。
「『ショコラ・ド・パリ・ルショワ』で手伝う機会があった時に、チョコレートに興味を持つようになって。“是非ここで働かせてください!”って川口シェフにお願いしたら“ああ、来い来い”ってごく気軽に言ってくれたんですよ。でも、いざ始めてみるとそんな気軽なものではなく・・・」
気軽どころか、同じ菓子とは思えないほどの新世界。そこで待っていたのは徹底した理詰めのスタイルだった。室温や生地の温度、攪拌する速度や時間、生地の重さなどをデータ化することで安定した商品に仕上げる。新作を作るときにも、“こういうものを作りたい、それなら、どうすればいいか”と逆算していくアプローチ法。やることなすこと全てが違っていた。
「何が違うって、とにかく細かいんです。だいたい実家では温度計なんて見たこともなくて、いわゆる“職人は経験や勘が命”だと思っていました。ルショワ時代にも先輩の作り方にならって見よう見まねでやっていましたから。それでもおいしいものができるのがパティシエですが、ショコラティエは違う。自分のやり方にするのではなく、チョコレートの機嫌を伺いながらチョコレートに自分を合わせるような感覚、とでもいうのでしょうか。それが新鮮でしたね」

ミルクチョコレートとカシスクリームの「ディジョネ」やグリオットチェリー入りのチョコレートケーキ「フォレノワール」など。ショコラ系も馴染みやすい味わいに。


また、同じブランドのチョコレートといっても、ロットによってその質は全然異なる。味はもちろんだが、それ以外にも、例えば今回は粘りがあるとか、テンパリングの範囲が前回より1℃狭い、とか。毎日付き合ううちに、チョコレートも他の材料も、実は農産物の加工品なんだと実感するようになった。
「そのつど性質が変わる材料を、どのように解釈してどう仕上げていくのか。それを考えるのが僕たちの役目なんです。川口シェフもよく言っていました。肉も魚も野菜もフルーツも扱う料理人と違って、菓子屋の材料はほんのわずか。だから、もっと深いところまで追求しないと、って」

ショウケースの上には「マロンパイ」や「タルトコンベルサシオン」などの焼き菓子を


徹底的に掘り下げていく川口シェフのもと、職人として大切な五感を養う時期を過ごした3年半。やがて、佐藤さんにとってもうひとりの欠かせない人物が登場する。
「ヴァローナ社のフレデリック・ボウさん。講習会で独自のセンスやテクニックを目の当たりにしたら、とにかく感動してしまって。やることなすこと全てが個性的ですごいんです。おかげで、フランス人って皆ああなのかって勘違いしてしまいました(笑)」
ボウさんとの出会いをきっかけに、佐藤さんの中でフランスへの想いが加速。そして25歳のとき、渡仏の夢は現実のものとなる。“いろいろな規模の店をまわるといい”という川口シェフのアドバイスもあって、ノルマンディー地方やコンテ地方のパティスリー、パリのピエール・エルメ、そしてフランス以外にもルクセンブルクにある名店「オーバーワイス」など、様々なタイプの店でキャリアを重ねていく。中でも印象的だったのは、ボウさんが校長を務めるエコール・ヴァローナで過ごした数ヶ月だった。
「ボウさんの講習会でアシストするのが役目だったんですが、それ以外の時は自由にやれって言ってもらって。ちょうどオリジナルを作りたい時期だったので、自分に課題を出して試作しまくっていました。また、時にはボウさんから課題を与えられることがあると、皆であれこれ実験するんです。毎日が発見の連続でしたね」
ちなみに、この時期、晴れてデビューすることになった佐藤さんのお菓子がある。それが、キャラメル風味のミルクチョコレートのムース、プラリネクリーム、マンゴーのジュレにレモンのアルコールを効かせた「KEVAケヴァ」だ。ヴァローナが、ある洋酒メーカーからの依頼を受けたのがきっかけで、佐藤さんが出した企画が採用されたのだとか。地道な試作が実を結んだ瞬間だった。

フィナンシェやケークなどのドゥミセック類はスチール製の籠に並べて


帰国後は大阪の「メランジュ」を経て、東京・自由が丘の「オリジンーヌ・カカオ」のオープニングスタッフとして迎えられることに。再び川口シェフのもとで働く道を選んだ。渡仏前と比べて心境の変化は?と伺うと、
「ようやくここまできたなと言う感じでしたね」
感慨深げな表情を顔面一杯に浮かべた。
「当初から川口シェフが言っていたことの意味が、ようやくここにきて理解できるようになったんです。パティシエ部門を任されて、シェフに相談しながら自分の想いを形にしていました。それまで培ってきたことを活かせる貴重な体験でしたね」

自家製コンフィチュールやメレンゲ菓子などのコンフィズリーも幅広く揃う


そして、2007年。15年にわたる修業期間を経て、佐藤さんは実家へと戻る。機は熟したのだ。父親に“自分の店をやりたい”と告げると、“全てを任せるから”とバトンを渡された。築40年近く経っていた建物を全面的にリニューアル。まるで隠れ家レストランのような店構えで、雑貨屋のようにおしゃれな店内へと変貌をとげ、ムースやタルト、焼き菓子やコンフィチュールなど、フランスのパティスリーさながらの商品が並ぶ。生まれ変わったアビニヨンには昔の面影はどこにも見当たらない・・・ように思える。
「でも、僕の原点はあくまでも昔のままのアビニヨン。父の菓子を食べて育っているから、苦みや酸味を際立たせた主張の強い味のものを作ろうとは思わないんです。フランス菓子がベースだけれど、地元の人にもわかりやすい味、というのが理想。お客様も僕も、お互いが歩み寄れるような味作りをしていきたいですね」
そのため、定番菓子にはもっとも力を注ぐ。乳風味がありつつ食べやすいショートケーキ、脂っぽさを出さないようにしつつクッキー生地で軽さを出したシュークリーム、昔ながらの食感を残したプリン・・・。そして修業先で培ったショコラ系のものにもひと工夫。例えば「ピュアカライブ」なら、ヴァローナ社のピュアカライブを使って、ムースではなく生クリームと合わせた軽いクリームに仕上げ、そこに紅茶をプラス。紅茶の香りでさっぱり爽やかな後味を演出している。ネーミングやデザインはフランスよりになっても、そこには佐藤さんの記憶に刻みこまれた“懐かしい味”がしっかりと再現されているようだ。




「この間、年配のお客様に“ドアが重くて開けにくいわ”って言われてしまって。慌ててドアのところまで飛んでいきました。いつも皆さまにアドバイスしていただいています」
売り場で微笑むのは奥様の真紀子さん。来店する馴染みのお客さまを、明るい雰囲気で盛り上げるのは彼女の役目だ。ここには当たり前のように、人々が関わり合う姿がある。
「最近はこの辺の商店街も、昔に比べると活気がなくなってしまって。他でやるという選択肢もありましたが、この場所に固執したのは僕自身。他の場所で買ったケーキの袋を見かけると、やっぱり寂しくなりますから」
店を一新し、佐藤さんの手で活気を取り戻そうと意気込んでいるのかと思えば、
「いえいえ、決してそんな大げさなものでは・・・。自分のやれる範囲で、という意味ですよ」 と照れ笑い。
突風でも強風でもない。さりげなく優しく吹く新しい風。それはこの街の人々にとっても、きっと、心地よい。(2008.01)


アビニヨン
住所東京都墨田区墨田3-1-19
Tel&Fax03-3612-1763
営業時間10:00〜20:00
定休日火曜
アクセスJR東武伊勢崎線東向島駅より徒歩3分