シエルヴァンメールはさいたま芸術劇場近くにあるブーランジェリーだ。2人も入ればいっぱいになってしまうほど小さな店内には籠に盛られたパンやアジアン雑貨が並び、温かい雰囲気に包まれている。
初めて店を訪ねた時、開店時間が11時であることに気づいた。おやっと思った。青山や銀座あたりの店では見かけることもあるが、街のパン屋にしては遅い開店時間である。早速矢代秀希シェフに尋ねてみた。

   


「パン屋だからといって必ずしも早い必要はないと思うんです。無理をして体を壊してしまったら長く続けられないと思って。ただし週末は7時から開けていますよ(笑)」

意外な答えが返ってきた。パン屋といえば早朝から必死になって作っているイメージが強いからだ。しかし、矢代さんからはそんな力みが感じられない。普通と違う何かを予感させた。

パンのコンセプトについて伺ったときもそうだった。

「焼きたてのパンがおいしいのは当たり前。僕は冷めてもおいしいパンを作りたい」
「売れなくても、自分が好きなものを作っていたい」


個性的なポリシーを人懐っこい笑顔でさらりと話す。その奥には揺らぎない自信が見え隠れする。その確信はいったいどこからくるのだろう。話を進めていくうちに謎が解けてきた。

 

一番の理由として挙げられるのは、矢代さんはパンが好きで好きで仕方がないということだ。大学卒業後、製パンメーカー、個人店、ホテルなどを経て自店をオープン。キャリアはそれほど長くはなかったが、独立することに対して何の迷いも不安もなかったという。早く自分のパンを作りたいという思いが強かったからだ。

「僕の求める味は僕にしか作れないから」

と、パンの仕込みは全て独りで行っている(ただし、ヴィエノワズリに使うパティシエールやアーモンドクリームはパティシエ経験のあるスタッフにお願いしている)。例えば自信作の「バゲット」。先にあげたように「冷めてもおいしい」パンを作るにはどうしたらよいのか。粉を変え製法を変え、何度も何度も作り続けた。そしてようやく低温長時間発酵のバゲットが完成した。

「粉は千葉製粉の「エトワール」。この粉を使用している店はあまりないでしょう?ちょっと珍しいかもしれません。でも、粉の風味や香りがしっかり感じられるから好きなんです。そしてこの粉の旨みを引き出すために低温長時間発酵で作っています。夜の12時から12時間ほどかけてじっくり熟成させます。低温長時間発酵で作ったパンはおいしさが長持ちするのも特徴です。最後に220℃の高温でしっかりと焼きを入れることもポイント。焦げているとお客様に言われることもありますが、僕はこの焼き色がおいしそうな色だと思っているんです」

   

バゲットだけではなく、全てのパンに同じことがいえる。矢代さんの愛情と味覚に対する強い信念がひとつひとつのパンの表情に表われている。顧客の反応を聞くと、バゲット派やあんぱん派など、同じパンを続けて買う人が多いそうだ。きっと一度食べると病み付きになってしまうのだろう。

パンの話をするとき、矢代さんはとても嬉しそうな表情をする。まるで好きなおもちゃを与えられた子供みたいだ。そして厨房の中に足を踏み入れた時、「やっぱり」とうなずいてしまった。決して広くはない厨房はちょっと手を伸ばせば全てのものに届いてしまう。機材や道具の配置も本人にしかわからないこだわりがあるに違いない。独特の厨房は仕事場というより、子供部屋の延長である‘自分の基地’という言葉がしっくりくる。

「厨房にいるのが一番落ち着く」

と話す矢代さん。おもちゃに没頭する子供のようにひたすらパンを作り続ける姿が眼に浮かぶ。
ほぼ独りで作業を行っているため、当然のことながら矢代さんは忙しい。それでもお客が入店すると必ず自らが店頭に立ち、レジを打つ。

「お客様の反応が直に伝わってくるのがいいですね。それに作り手の顔が見えるとお客様も安心できると思うんです」

一見マイペースに仕事をこなしているようだが、お客とのコミュニケーションも欠かさない。最近では卵や乳製品アレルギーを持つ人からの注文が入るそうだが、なんと一つから受け付けているという。

「それが町のパン屋の良さかなと思って」

苦労を感じさせない笑顔に頭が下がる。


店を出た後、早速バゲットを食べてみた。気持ちの良いほど焼きこまれたクラストはとても香ばしく、お煎餅のようにバリバリと音を立てる。クラムは適度に水分を抱き込み、粉の旨みがしっかりある。トーストしなくても、何もつけなくても、充分おいしい。気がつくと1本平らげていた。






シエルヴァンメール
住所 埼玉県さいたま市中央区鈴谷8-9-10
TEL048-856-3997
営業時間11:00〜20:00(平日) 7:00〜19:00 (土・日・祝)
定休日毎週月曜・第二火曜日
アクセス埼京線 与野本町下車徒歩7分