東急東横線大倉山駅で下車、地元の人々が行き交う商店街の一画を曲がると、1軒のパン屋さんが目に入ります。それが2002年10月に開店したアンソレイユ。フランス語で「日の当たる、晴れやかな」を意味する店名にふさわしく、オレンジがかった暖かい木の看板、そして描かれた太陽のマーク。店内に入る前から、どこかスペインの田舎町を思い起こすような、ラテンの明るさ、元気のよさを感じます。カフェスペースも併設された、広々とした開放的な店内で働く店員さんは、小人数ではあるけれどみな若くてはつらつとした印象。そしてこのお店をまとめているのが、シェフの矢ケ崎正愛(まさちか)さん。笑うと目が無くなってしまうほどの、クシャとした屈託のない笑顔は、初対面の私の緊張を解きほどいてくれました。

矢ケ崎さんの実家は、東京墨田区のパン屋さん。特にパン職人になるつもりもなく大学に進学したものの、いざ就職という時に、企業への就職という道に疑問を感じてしまったという。

「自分で何かものを作るほうが楽しいんじゃないか?」

そう思い、パン作りの道へと。そして、ドイツパンで有名な神戸の老舗ベーカリー「フロインドリーブ」で4年半、しっかり基礎を学んだ。

「そこでの非常に厳しい恩師との出会いで、僕は生まれ変ったんですよ」

とかつての修業の日々を思い返す。仕事は夜中の12時半に始まる毎日。しばらくして始業時間は遅くなったものの、それでも3時スタートだったというからその厳しさがしのばれる。なんと、この間に3人の同僚が逃亡したそうだ。


その後、悲劇の阪神淡路大震災にみまわれ、店を営業することができなくなってしまった。そして、東京に半年帰った後、再び神戸フロインドリーブに呼び戻されることに。そのときは、22時間労働の日々が2週間も続いたという。それでも、

「再開のめどが立たない他店のことを思えば、お店をやらせてもらえるだけでもありがたかった」

と目を細める矢ケ崎さん。

その後、本場ドイツを始め、ヨーロッパ諸国を周遊する機会に恵まれ、パンを食べ歩く日々が続いた。

「私がその旅で分かったことは、現在のドイツには、フロインドリーブ氏が日本に持ってきた頃のものは何一つ残っていないということ。私が「フロインドリーブ」で学んだものを見つけることはできませんでした。でもその代わり、冷凍技術などパンに関する技術革新が進んでいてびっくりしました。自分ももっと勉強しなければ、と触発されました。」

また、その旅行中に運命的な出会いがあった。

「ちょうどヨーロッパで開催されていたピュラトス社の講習会に参加した際、当時の社長である小坂氏と、冷凍技術の研究で有名な荻堂氏と出会ったんです。今思えば、まさに“運命の出会い”でしたね」

そう、このアンソレイユは、冷凍生地をうまく活用しているパン屋である。もともと店のコンセプトは、少人数、短時間労働、多品種。製造は矢ケ崎さんともう一人のスタッフだけ、販売は2人で対応している。その体制で、調理パンを含め100種類もの商品が棚に並ぶというから驚く。

「職人肌の考え方で全てのパンを凝り固めてしまっても、多くのお客様には満足していただけません。お店が成り立っていくためにもお客様に喜んでもらわなければならない。もちろん、凝るところは凝って、それを一所懸命やる。それ以外のものは安定してできるやり方でやっていけばいいと思っているんです」


そして、アンソレイユのもう一つの特徴は、フランスパン職人の最高名誉であるMOF(最優秀職人)の一人、ムニエ氏の粉を使っていること。

「バゲットにおいては通常のバゲットとムニエ粉を使ったバゲット・ドゥ・ティエリー・ムニエの二本立てにしています。外皮のクリスピーさが特徴のバゲット・ムニエに関しては、基本レシピにアレンジを加え、よりとんがった印象のものに。反対に通常のバゲットは、より軽く、より食べやすくなるように心がけているのですが、麩のような味のないものにはしたくない。そこで、乳酸菌種を使ったり、ムニエ粉を3割入れるなどして、旨みがでるようにしています」

と、こだわるべきところには、しっかりとこだわる矢ケ崎さん。ムニエ粉を使用したクロワッサン、クロアソン・ドゥ・ティエリー・ムニエについては、ゼロから作り上げたという。 また、使用している窯は日本に初導入されたもの。前例がないため、水分量から何まで全て自分で調整していかなければならなかったそう。


「お客様あっての店」と繰り返す矢ケ崎さん、それでもやはり、消費者の需要と自分が作りたいパンの間での葛藤はある様子。

「自分自身が好きなものなので、もっとヨーロッパ寄りのパンを作りたいんです。でも今の需要を考えるとそれは難しい。徐々に受け入れられるように、ヨーロッパのものを発想のベースに、日本のノスタルジックな部分をくすぐるようなものを作っていけたらと思っています。例えばマジパン。本来ビターアーモンドの製品を使用するところを、通常のアーモンドの製品やローストアーモンドに置き換えたり、あるいはミルクとバニラのフレーバーにしてしまったり・・・」

自分のやりたい事と消費者が望むものをうまく融合させる。きっと、一人よがりのパン作りでは、みなに愛されるパンは作れないのだろう。


「パンだけではないでしょうが、食べ物というのは作り手の気分なんかが全て出てしまう。気分がのっていないと、それだけのパンができてしまうんです。パンを見れば、その時のスタッフの調子も分かってしまいますから。本当に怖いですよ」

消費者の評価というものは、たった1度の悪い印象が、後々まで嫌な思い出として残ってしまうものです。1度の失敗が命取りになることもある。そのことを充分に分かっている矢ケ崎さんは、

「毎日、胸がはりさけそうな思いなんですよ」

と苦笑い。



今後のお店の展開については?との質問に、

「ようやく雑穀類などの健康志向のパンが浸透してきたので、それを定着させていきたいですね。年に4回、イベント的なことをやりながら、プレゼンしていく予定です。このイートインスペースを利用して、毎年クリスマスパーティーもやっているんですよ」

と実に楽しそうに語ってくれた。



お客様との交流を第一に考えているアンソレイユだからこそ、今後は今以上に矢ケ崎さんが作りたいパンも増えてくることだろう。お客様の需要と矢ケ崎さんの作りたいものがぴったり一致する日は、そう遠くない気がする。


アンソレイユ
住所 神奈川県横浜市港北区太尾町252-1 グランドメゾン大倉山1F
TEL045-546-1884
営業時間10:00〜20:00
定休日水曜日
アクセス東急東横線「大倉山」駅より徒歩3分