近ごろ、ベーカリーカフェが熱い。居心地の良い空間で、モーニング、ランチ、ディナーと異なるシーンごとにパンを楽しんでもらう・・・そんな店。もちろん、パンは手作り、メニューにもひと手間。気軽においしく楽しめるスタイルが人気だ。パン屋がカフェを始めたケースもあれば、カフェがパンに特化したケースもあるけれど、ここ、ファクトリーは後者のケースだという。
「この店の前身は、『麹町カフェ』。オーナーの松浦が2006年にオープンしたところ、パンの評判がとても良かったんです。そこで、ベーカリー部門を独立させたのが、このファクトリー。僕は麹町カフェでパンメニューを出すようになった時からパンを焼いています」
と、シェフブーランジェの三浦隆広さん。白いTシャツに黒のベレー帽で登場した三浦さんは、優しい眼差しが印象的な30歳。ふんわりとした語り口が、場の雰囲気を和らげてくれる。


靖国通りに面したガラス張りのお店(写真左)。
パンの陳列棚は外からも見えるようなつくりに(写真右)



「子供の頃から、料理にはすごく興味がありました。叔父が中華料理店をやっていて、よく現場を覗いていたので・・・。知らない調味料がたくさん並んでいたり、家ではありえないような大きな中華包丁を使っていたり。とにかく刺激的でしたね」
“将来は料理人に!”少年の頃はそう決めていたという。ところが、実際に選んだのはパン職人。というのも、
「パンって、いろいろな形に表現ができそうだなと興味がわいてきて。自分でも作ってみたいと思うようになりました」


レジ横の棚にはオーガニックの粉や蜂蜜、調味料などがぎっしり。無造作に並んでいる姿がおしゃれ

東京・小平市の国際製菓専門学校(現在は立川に移転)で製パンと製菓を学び、卒業後は小平市のエミューへ。さあ、いよいよ憧れの職人生活がスタート!・・・のはずだった。 「はい、たしかに嬉しかったです。でも、そんなに甘い世界ではなかった(笑)。だって、あまりにも環境が違いすぎましたから」
学校では純粋にパン作りを楽しんでいた。大切なのは、いかに美しくおいしく作るかということ。“できるだけ生地が乾燥しないように”“手粉はできるだけ使わないように”ことあるごとに言われてきた。けれども、
「現場ではとてもそんなこと考えている余裕はないです。いかに早くたくさん作れるかにかかっていますから。その上、朝早くて労働時間も長い。学校では“パンの気持ちになれ”とか“パンに合わせろ”って言われていたんですが、とても無理で・・・。初めのうちは、完全に自分の都合で作っている状況でした」
“パンのためにいいこと”はわかる。でも、時間がない。ならば、方法はひとつ。
「パンのことを思うなら、作業スピードを上げて余裕を作ればいい。結局、自分の腕を高めるしかないんですね」
パンへの愛情と、物理的な制約と。相反するもののおかげで、三浦さんは一番大切なことに気づいたようだ。


すっきりとした心地よい旨みが広がる「バゲットファクトリー」。焼き色と風味の良さが気に入り、第一製粉のモンブランをセレクト。


レーズン酵母で仕込んだ「自家製天然酵母のカンパーニュ」。爽やかな香りともっちりしつつハギレのいい生地が魅力


蜂蜜入りの「ベーグル」は飽きのこないおいしさ


さて、エミューで2年ほど学んだ三浦さん。次なるステージは他のパン屋で・・・とはならなかった。
「渋谷のビオカフェに行きました。マクロビオテックを取り入れている人や、ヘルシー系を好む女性などに人気の店です」
これはちょっと予想外。がらりと方向転換したのはなぜだろう?
「エミューでは、子供からお年寄りまで、誰もが好きなふわふわしたパンを作っていました。それも悪くはないけれど、自分がやりたいこととは何か違うなあと感じていたのも事実。そこで興味が沸いてきたのが、ビオ系のものだったんです。いろいろな店のパンを食べるうちに、添加物を入れないヘルシーなパンがおいしいと思うようになっていました」
ビオカフェという名の通り、お店に並べているのはビオを意識したパン。ドイツから取り寄せたビオのイーストやビオの小麦を使うなど素材にこだわるのはもちろんだが、制約も多い。例えば、動物性の素材。卵や牛乳、バターなどは使わないのが大前提だ。
「でもそのお陰でいろいろなことが見えてきました。卵やバターって風味が強いんですよね。だから逆にそれらを入れないパンはすごく優しい味になる。メインは粉の味。ごく自然に、粉の味を意識するようになるわけです」


「スティッキーバンズ 胡桃&チョコレート」(写真左)と「ブリオッシュあんぱん(写真右)」。オープン当初はハード系が中心だったが、お客の要望で菓子パンも多く揃える


そしてもうひとつ、三浦さんのポテンシャルを高めてくれたこと。
「“月に一度、新作を”という決まりごとがありまして。毎回必死に考えては試作していました。ベーグルが人気の店だったので、ベーグルの種類をかなり増やしたんですよ」 そのひとつ「ファイバーベーグル」は、ゴボウをメインに、小豆を入れてコクとやわらかさをプラスした一品。ヘルシー嗜好の人なら思わず手が伸びてしまいそう。
「女性に人気が高かったです。ビオカフェらしいパンを作るにはどうしたらいいだろうっていろいろ考えましたから」
“ビオの素材を使ったパン”“ヘルシーなパン”“カフェの料理に合うパン”様々なテーマに対して、自分のアイデアやテクニックを総動員する。結果はすぐに、食べ手の反応という形で現れる。それはさぞかし刺激的だったに違いない。カフェで作るパンの魅力はそんなところにもあるのかも、とも思う。


バゲットに切り込みを入れれば、
カードスタンドに早変わり!



「そうですね。ビオカフェの時もですが、その後働いた麹町カフェでもまた、刺激を受けました」
2006年、三浦さんは麹町カフェに入った。人気が高かったのはサンドイッチ。初めはパンを取り寄せて作っていたのだが、自家製パンができれば理想的。オーナーの松浦さんはそう考えた。三浦さんはパン職人としての腕を期待されたのだった。
「でも、実はパンの仕事は午前中だけ。残りの時間はというと、料理するんです。肉をさばいたり野菜やフルーツを使って調理したり。パン職人も菓子職人も皆が料理人になる。“ここでは全部できないとダメだよ”って、松浦オーナーにも言われましたから」
そのおかげで、三浦さんには様々な感性が身についていった。サンドイッチに向くパンの味や食感、スパイスの使い方、フルーツとハーブの合わせ方など・・・。どれもパンを作るだけではわからなかったことだ。


十勝しんむら牧場のミルクジャム(写真左)と、ミルクジャムをはさんだ「ミルクスティック」。“おいしいものは取り寄せて紹介していきたい”とのこと


2009年6月、松浦オーナーがベーカリーカフェ「ファクトリー」をオープンさせた。麹町カフェで評判だったパン部門を独立させ、新しいパン屋のあり方を提案するために。パンを作りやすい環境に厨房を整え、パン売り場も併設。パンの量も種類も格段に多くなった。三浦さんは、ここでシェフブーランジェとして腕をふるう。
「朝はクロワッサンなどのパンやフルーツ、卵料理などをブッフェスタイルで、昼はパンとデリのプレートや天然酵母生地のピッツアなどを、そして夜はワインやおつまみとパン、というスタイルでシーン別に提供しています。もちろん、パンのテイクアウトだけでも大丈夫」
カフェでモーニングやランチを楽しんで、帰りにパンを買って帰る・・・そんな人も多いそうだ。


カフェスペースは、コンクリートの壁などの無機質なデザインでファクトリー(工場)らしいイメージに


バゲットがすっぽり入るサイズのエコバッグ


「窯も新しくなったので、以前は出来なかったバゲットも焼けるようになりました。実は尊敬する『ブノワトン』さんと同じものなんですよ!」
ブノワトン・・・その言葉を口にするだけで、三浦さんの表情がパッと明るくなった。そういえば、棚に並んでいるハード系の「RTB」プライスタグには“湘南小麦をブレンド”と書いてあるけれど・・・?
「そう、ブノワトンの高橋シェフが始めた神奈川県産の小麦です。是非使ってみたい粉だったんです」
湘南小麦は生産量の少ない貴重な粉で、扱いも難しいと言われる。そうした粉の性質をきちんと理解している人むけに、高橋シェフが粉を広めていた。
「僕が連絡したときには残念ながら高橋シェフは亡くなってしまった後だったのですが、奥様にお会いして許可をいただきました。RTBには湘南小麦が2割ほど入っているのですが、それだけで香りが全然違うんですよ。初めて食べたときには本当にびっくりしました」


湘南小麦をブレンドして長時間発酵で仕上げた「RTB」は、香りが豊かで深みのある味わい


スライスしたオレンジをトップに被せてコテージをイメージした、その名も「コテージ」



他にも、吸水90%!という水分量の多いリュスティックに挑戦したり、季節のフルーツで酵母を起こしてみたり。新作の開発にも余念がない。
「リュスティックは志賀シェフの本を見たときに、是非やってみたいなあと。とても扱いづらいデロデロの生地なのですが、試行錯誤しながら自分なりの解釈で作れるようになりました。それから、酵母作りは独学です。レーズンはもちろん、バナナ、オレンジ、イチゴ、トマト・・・いろいろなもので作っています。今の季節ならオレンジ酵母で作った『コテージ』がお勧めですよ」
カリット焼けたハード系の生地はもっちりとして弾力ある食感が魅力。フルーティーな甘みとローズマリーの爽やかな香りの中に、時々、ピリリとした酸味が交わる。なんだろう?きっと知っている味なんだけれど・・・?
「隠し味に粒マスタードが入っています。料理で経験済みなのですが、柑橘類とマスタードって相性がいいんですよ。“面白そう”“どんな味がするんだろう?”なんて、お客様の反応があると嬉しいですね」


棚に並ぶレーズンとバナナの酵母。他にもオレンジ、イチゴ、トマト、桃、洋梨、リンゴ・・・など季節ごとに様々な酵母が登場する


いろいろな世界を吸収して、この厨房から新しいものを発信していきたいと夢見る三浦さん。いわゆる"パン屋"での修業経験は少ないかもしれない。けれども、パンだけにとどまらなかった経験は、かえって強みだ。"ベーカリーカフェのパン"の魅力をどうとらえ、表現していくのか―まだまだ未知の可能性が広がっている。
(2010.07) 






ファクトリー
住所 東京都千代田区九段南3-7-10 アーバンキューブ九段南1F
TEL03-5212-8375
営業時間8:00〜22:00(月〜金)、9:00〜18:00(土)
定休日日曜
アクセス 東京メトロ東西線・半蔵門線、都営新宿線 九段下駅より徒歩7分、 JR中央線、東京メトロ有楽町線・南北線、都営新宿線 市ヶ谷駅より徒歩7分
URL http://www.factory-kudan.com




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