西日暮里の駅を出て、道灌山通りにそびえる開成学園を西側に望み、4分ほど歩く。車道の喧騒から一歩路地へ入ると、静かな下町風の家並みが広がっていた。道なりに現れた手書き風の店の看板が視界に入るその前に、芳ばしいパンの香りが鼻をくすぐった。ポケットの小銭を鳴らし、黒い学生服が軽快な足どりで店に入っていく。時は15時過ぎ、部活前の腹ごしらえというところだろうか。追うようにして、私も慌ててパン屋に入る。彼のポケットの小銭はカレーパンと、ロングウィンナーパンに消えたようだ。小さな子供を連れたお母さんはメロンパンと明日の朝ごはんに食パンを、お財布ひとつのOLは、カンパーニュとサンドウィッチを。それぞれに手馴れた手つきでパンを買い求めている。もうすっかりこの街に馴染んでいる、そんな様子が伺えた。


オレンジ色を基調とした明るい外観。手書きの看板は、開店当初アルバイトしていた芸大生の“作品”だとか



ロシア風とも北欧風ともとれる不思議な店名の“ianak!”は、シェフを務める“金井”さんを逆から呼んだもの。聞けば、なるほどである。今年の10月13日でオープンしてちょうど1年を迎えたばかり。自家製の天然酵母を使ったハード系のパンから、男子高校生のみならずとも食指が動く惣菜パンやおやつパンまで並ぶが、中でも一際輝いているのが、クロワッサン。バリッと厚めに浮き上がった層の間からは焼き立ての湯気と共に、バターの甘い香りが広がる。これは、いかにもおいしそうだ。

一番人気のクロワッサン(¥160)は、2種の粉でしっかりとした食感に。ルヴァンリキッドを使用した生地は、発酵バターのコクと共に熟成された粉の旨みが広がる。


さて、この魅力的なパンの数々を作った、金井孝幸さんはどのような経歴の持ち主なのだろうか?さっそくお話を伺ってみた。

「11年前、たまたまアルバイトで池袋東武のルノートルに入ったのが全ての始まり。はじめの1年は掃除などの雑用からで、徐々に生地や窯に触らせてもらえるようになったんです。“イーストでパンが膨らむ”っていうのをその時初めて知ったくらい、パンについては全く何にも知らなかったんです。とにかくすべてが新しいこと尽くし。夢中で働いていたら、あっという間に3年がたっていました」

その後、著書を読んだのがきっかけで、恵比寿にある「パンテコ」の松岡社長の元へ。求人はなく、全くの飛び込みだったが、「フランスパンをもっと深く学びたい」という意思が通じた。レストランへの卸が専門で、生産の9割がフランスパン。それから3年間、どっぷりフランスパン漬けの日々となった。


店内からはすぐそこにオーブンが臨める。窯出しの焼きたてパンが並ぶ臨場感もおいしさのひとつ


金井さんのパンへの探究心は、さらに深くなっていく。2002年、金井さんが門戸を叩いたのは「メゾンカイザー」。高輪店に続き、2号目となる三田店の募集に志願し、入社が決まった。そこで初めて出会ったのが、“天然酵母”だった。

「ハード系とクロワッサンがとにかく美味しくて、どうやったらこんな味になるのか、純粋に知りたいと思ったんです。ああ、味の違いはこれだったのかと。衝撃を受けたというよりは謎が解けたという感じで。天然酵母、低温発酵、長時間熟成・・・今となれば常識ですが、全て初めて出会い、体で覚えてきたもの。ヴィエノワズリ部門からスタートしたのですが、ブーム全盛時は1日に2000個ものクロワッサンを焼きました。焼いても焼いても注文が来て、一日の終わりは体中がバターの香りになるほど。でもそんな毎日の中で自然と全ての仕事が叩き込まれましたね」


今も店で使っているのはカイザー発案の「フェルメントルヴァン」。粉と水を入れて機械にかけることで安定したルヴァンリキッドを作ることができる



「メゾンカイザー」のコレド日本橋店への出店が決まり、金井さんはハード部門に配属され、チーフを担当。それから再び移動となり、高輪店の製造責任者になった。重責と共に、仕事はさらに忙しくなって行く。
最初はふとしたきっかけで入ったパンの道。気がつくと、どっぷり「パン職人」になっていた。その時、パン職人になってちょうど10年目と1ヶ月を数えていた。また、プライベートでも金井さんは4人目の子供が出来たばかりだった。

「独立しようかと思うんだ」

そう切り出した金井さんに、奥様は声を躍らせた。

「あなたのその言葉を待っていたわ」

独立の機は熟していた。だが、この10年間ずっと工場で働いていたので、個人店の経営や接客は無知に等しい。家族、親戚、同僚、そしてメゾンカイザーの木村社長。みんなのバックアップが無ければ、この店を開くことができなかったと、金井さんは言う。
開店場所として選んだのは、一家が住んでいた西日暮里。この物件を見つけてきたのも奥様。近所にある、子供を通わせている幼稚園からスタッフを募集したり、開店の宣伝をするなど精力的に動いた。元々レストランで働いた経験があるという奥様は、今も店の接客を担い、金井さんの仕事を支えている。

「開店にあたっては、もしかしたら、僕よりも妻のほうがはりきっていたかもしれないです(笑)」

子育てをしながらも店の為に駆け回る妻の姿に強く背中を押されるように、金井さんはカイザーの仕事もギリギリまで続けながらの開店準備をこなした。完全に辞めてから、イアナックの開店まではわずか2週間だった。


店内には約80種類のパンが並ぶ。新商品は、奥様はじめ接客の女性スタッフの意見は必ず取り入れるそうだ


「開店したばかりの時は、全部一人で作っていたので、種類も今より半分程度でした。パンは全て天然酵母で作りたいというのがあったのですが、初めはルヴァンリキッド一本。1年かけて、酵母の種類も増やし、一部国産小麦を使うなど材料も変えて元々のレシピに自分なりの改良を加えていきました」

いまでは、ルヴァンリキッドを初め、酒種、いちじくから起こした天然酵母の3種の酵母を使い分けている。少量のイーストも加え、安定性があり、過度の硬さやクセが出ないようなパンを目指している。


スペシャリテは低温長時間発酵のバゲット。フランス産の石臼挽き粉で旨みと香りを、ライ麦で甘みを出すなど、数種の粉をブレンドした奥行きのある味わいが特徴的



「始めたころは、どんな客層かもわからなかったので、カイザーの頃作っていたヴィエノワズリやハード系が中心でした。フタをあけてみると、開成学園の生徒さんや幼稚園のママ達が多い。メロンパンやチョココロネは、お客さんの声から出来た商品なんですが、実はいままで作ったことが無くて(笑)。柔らかい菓子パン生地も、それはそれで案外難しくて面白かった。酒種を使うなど、菓子パンや惣菜パンでも工夫しているんです」


パンドミ(¥300)は、酒種を用い、ふんわりしっとりとした食感が魅力。香りの良さと安定性から江別製粉の国産小麦「タイプER」を使用

酒種の原料は、神田明神下「天野屋」の生麹。麹にお粥を加え、発酵させた酒種からは爽やかな酸味のある香りが広がる


10月に行われた2日間の開店一周年記念の特別セール。なんと、食パン1斤、バゲット1本がそれぞれ100円で販売された。即完売状態になったのはいうまでも無い。

「でも、セールとは関係なく、毎日買っていただいている方が当日買えなかったりするのが申し訳なくて。そんなお客様には、次回に使えるように『バゲット1本無料券』を発行したんです」

せっかくの盛況も、お得意様に迷惑をかけては意味がないと、眉根を寄せる。毎日、この店で毎日パンを買う客の気持ちが、分かった気がした。

「めざすのは、“ちょっとおいしいパン屋さん”。気軽に入れて、素直においしいと言える、そんなパンを作って行きたいですね」

自家製の天然酵母が眠り、何種類もの粉が積み上げられた厨房の前で、金井さんはさらりといった。
11年前、“イーストでパンが膨らむことを初めて知った“青年は、今や立派なパン職人となり、この街のかけがえのない存在となっている。










ブーランジェリー・イアナック
住所 東京都荒川区西日暮里4-22-11
TEL&FAX03-3822-0015
営業時間8 :30〜19:00
定休日日曜・祝日
URLhttp://0015-ianak.com/contents/index_h.html