今回ご紹介するブーランジュリー『イグレクテ』は、一見街にある普通のパン屋のようだ。ところがそこにいる職人は一風変わった経歴の持ち主だった・・・。



東武東上線大山駅を下車して、下町風情の商店街を5分ほど歩くと赤いファサードの小さな店がある。それがイグレクテだ。店内に足を踏み入れてざっと見渡してみる。食パンやフランスパン、クリームパンにカレーパンなど慣れ親しんだ商品が並んでいる。さて、どれを選ぼうか・・・。ここでパンの名前が普通と違うことに気づいた。「スルド(太鼓)」「ショカーリョ(マラカスに似たもの)」「タンボリン」など、パン屋らしからぬネーミングだ。更にスピーカーから軽快なサンバ音楽が聞こえてくる。そしてレジ奥の厨房に目を向けると、なんとサッカーワールドカップ時代のロナウド選手のような髪型(大五郎カット?)のシェフがパンを作っている!

サンバ音楽に大五郎風カットのパン職人。明らかに今までの職人とはタイプが違うようだ。果たしてどんな話が聞けるんだろう。早速取材を開始した。





「服飾関係に興味があったので、大学卒業後は洋服店へ就職。そこで妻と知り合い結婚しました。その後、義父が経営している志村三丁目の魚屋を手伝うことになりました。この髪型はそのときの名残。魚屋では結構多いんですよ(笑)。実はサンバ音楽に目覚めたのもそのときなんです。地元の商店街で開催されるサンバパレードを見ているうちに、自分で太鼓を演奏するようになりました。魚屋では8年間働いて仕事に愛着もありましたし、そのまま行けば店を継ぐことになっていたかもしれません。でも、あることがきっかけで魚屋を辞めることになったんです」

そのきっかけはテレビ出演だった。義父の魚屋が紹介され、武村さんは「2代目として魚屋を引き継ぐ」ことを宣言。ところが、いざ義父から正式に依頼されたときに考え込んでしまった。

「引き継ぐことを断言したことで、逆に考えさせられたことがあるんです。自分は本当に魚屋としての資質があるのか、そして本当にやりたいことは何なのかって。何日も悩みました。もちろんお客様においしい魚をお届けしたいという気持ちもありました。でも、私は自分で何かを作り上げたかった。残念ながら魚を作ることは不可能でしょう?だから、作る仕事につきたいという熱い想いを必死で義父に伝えたんです。潔く理解を示してくれた義父の懐の深さに感謝しています」

義父の引退に伴って、2001年4月に魚屋を閉店。悩んだ末にパン作りに興味を持つようになる。武村さんはこの時既に41歳。一からパン職人を志すには遅すぎるスタートだった。



「自店を持つためには、普通何年もパン屋で修業を積む必要があります。でも、僕にはそんな猶予がなかった。一刻も早く自店を開きたかった。だから、1年以内には開業しようと決めてしまったんです。当然周囲には大反対されましたよ。知識も技術もないのに無理だって。もし早く開業したいのなら、冷凍生地を仕入れて焼いたらいいと進めてくれた業者もいました。でも、僕はどうしても自力で粉から作りたかった」

どうすれば開業にこぎつけるのか、武村さんは徹底的に情報収集を行った。飛び込みでパン職人に話を聞いたりもした。そして目黒区にある『パン焼き人』で石窯を目にした時のことだ。

「これだ!と思いましたね。自分もこんな石窯でパンを焼いてみたいという想いが膨らんでいきました。そこで、シェフの安井さんに窯を扱っている櫛澤電機を紹介してもらったんです。早速、社長の澤畑さんに事情を説明したところ、「石窯は普通の窯よりも難しいから」と反対されました。でも、普通の窯を扱った経験のない僕にとってはどちらも難しいという点は変わりません。そのように説得して、石窯を使ってみたいとお願いしたんです。すると、横浜にあるパン屋『ピグロ』の足立シェフのもとで研修するように勧められました」

こうして2001年8月にパン屋修業がスタート。しかし、武村さんはここでも常識からかけ離れた行動に出た。
なんとたったの1ヶ月で修業を終わらせてしまったのだ。

「魚屋を辞めてからというもの、パン屋になるための情報収集と同時に自店の土地探しも始めていたんです。いい場所が見つかったので契約もすぐに済ませてしまいました。だから早く店を始めたくって」

しかし、全くの初心者が1ヶ月の修業で技術を習得できるものなのだろうか。

「熱い想いで始めたパン作りですが、初めは生地が思い通りにならず苦労しました。僕、子供っぽい性格なんですよ。子供って、与えられたおもちゃでうまく遊べないと嫌になっちゃうでしょう。あれと同じ(笑)。足立シェフはいとも簡単に成形しているのに、どうして隣でやっている自分はできないんだろうって。でも、パンを作ることは決してアクロバティックなことではないんですよね。大事なのは、おいしいパンを作ろうと思う気持ち。愛情を持って毎日こつこつ努力すれば必ずできるようになる。そう気づいたんです」

修業中はひたすら足立シェフの手の動きを観察したそうだ。成形の仕方や力加減などをじっくりチェックし、成形後のパンの感触を触って確認した。五感を働かせ、見たり聞いたり触れたりしながら徹底的に頭に叩き込んだ。1ヶ月の修業が終了すると、既に完成していた自分の厨房で試行錯誤が始まった。頭にインプットしたイメージに近づくように、1ヶ月間ひたすら作りこんだという。


そして2001年10月に念願の自店をオープン。パン屋になる決意を固めてからたったの半年、粉を扱い始めてから2ヶ月で開業という異例の早さである。店の特徴は富士山の溶岩窯で焼き上げるパンだ。ふっくらとして香ばしい。






「初めはなかなかお客様に受け入れてもらえませんでした。気泡が多いフランスパンを見て「中に穴が開いている」とか、焼きこんだものを「焦げている」とか言われて。でも、自分の作ったパンには自信がありましたから、きっと理解してもらえるだろうと努力し続けました。半年ほど経つと反応が良くなってきたんです。大事なのは自分が常に成長しようとする気持ちなのではないでしょうか?
「これで完成」と決めてしまったら成長も止まってしまい、それ以上のものは作れません。だからよりおいしいパンを作るために、今でも配合や作り方を工夫しています。
その気持ちはきっとお客様にも伝わっているはずです」





武村さんと話していると、パン作りを初めて3年足らずの人とは思えない雰囲気が漂っている。「僕なんてまだまだ」と言いながら、どこかに自信のようなものが潜んでいる。それは何故なんだろう。

「僕は魚屋時代の経験を無駄にせずにパン屋を営んでいるから。魚屋もパン屋も「口に入るもの」という点は同じなんです」


技術面だけで言えばまだ発展途上の部分もあるだろう。だが、おいしいものを提供したいという強い気持ちは魚屋時代から培ってきたもの。その想いが自信につながっているのかもしれない。



最後にどうしても聞いておきたいことがあった。魚屋を辞めた今でも、何故当時の髪型を続けているのかということだ。思い切って訪ねると、武村さんの表情がキリッと引き締まった。

「魚屋時代に多くのことを学んできたから今の僕があるんです。その証をどこかに残しておきたかったから」




住所 東京都板橋区大山町40-17
TEL03-3972-8383
営業時間9:00〜20:00(祝は〜19:00)
定休日日曜日
アクセス東武東上線大山駅より徒歩5分