大岡山駅から、まっすぐ延びる北本商店街の一歩外れた場所に佇むパン屋。昼時ともなると、こじんまりとした店内は、あっという間に近所の人で埋まってしまう。
真っ白な外壁に真っ白な文字が浮かぶ。イ・ト・キ・ト。まるで何かのおまじないのような不思議な名前。一度聞いたら、忘れられないのは、店名だけではない。カスクルートには塩ブタとキャベツ。またはチキンにタプナード。自家製あんのデニッシュに、たっぷりの夏野菜のラタトゥイユがのったフォッカッチャ。小さなカウンターの上のパンに、片端から「食べたい!」と食指が刺激される。道すがら、我慢できずにパンにかぶりつくと、想像以上の骨太な味わいに驚かされる。濃厚な肉の旨みに対峙するセーグルの薫り。歯切れのいいクラストと柔らかなクラムが、素材の食感と味を際立たせる。

真っ白に塗られたシンプルな外観は“フランスのアパート”の写真からイメージして



itokitoのシェフ、勝野真一さんが作るパン。特筆すべきは、オリジナリティあふれるサンドイッチ、そしてフィリングから手作りにこだわる惣菜パンだ。食べ手を刺激する惣菜パンは、既存のベーカリーで売っているものとは一線を画す。この勝野流惣菜パンが生まれるまでには、ちょっとした回り道が必要だった。おいしさとオリジナリティーを生み出した“必要不可欠”な回り道とは――

美大で建築を学び、卒業後は建築事務所に入社。しばらく設計をやっていたが、やがてグラフィックに関心を持つようになり、広告デザインの仕事へ。しかし、広告業界の仕事も年月を重ねるに連れ、業務は複雑になり、人を使うディレクター職が中心になる。中間管理職となると、自分の手を動かしてデザインすることもできなくなっていった。

「もっと自分の手を動かして物を作りたい。そして、自分で作ったものを、自分の店で売りたいと思うようになったんです。以前から食に関心があったので、今までの設計やデザインと離れて、カフェかレストランをやろうと考えていたんですが、業界も成熟しているし、今から自分が入り込む隙は無いなと。パン屋だったら、今からでも自分の理想の店が築けるんじゃないかと思ったんです」

ショップカードは勝野さんご自身でデザインしたもの


当時、勝野さんは30歳。結婚をしたばかりだったが、“休養期間”と割り切って会社を辞め、半年間修業先の店を探した。その時、たまたま雑誌で見て訪れた一軒のパン屋。それが、中目黒の「ナイーフ」だった。

「衝撃的でした。日本で、こんなにオシャレでかっこいいパン屋があったのかと。しかも、見た目だけじゃなくて、ものすごくおいしい。もうここに入るしかないと、シェフに直接お願いしたんです。そうしたら、『とりあえず、1年やってみれば。何かが生まれてくるかもしれないし』と。よく僕みたいな未経験者をいれてくれたな、と感謝してもしきれません。この一言がなかったら、今の自分は無いですから」

アイルランドの伝統パン「ソーダブレッド」(\150)。イーストは使わず、ベーキングソーダで焼きあげ、さっくりとした食感が特徴


ほとんど予備知識もないまっさらな状態で、人気店の厨房に飛び込んだ。しかも、その当時、代官山店のオープンと重なり、とにかく人が足りないという状況。谷上シェフは代官山店に常駐していたので、中目黒店は勝野さんを含むわずか3人。人も、時間もない中、一気に仕事を覚えるにはもってこいの環境だった。この時、中目黒店の責任者をしていたのが、いまや中村橋「ブーランジェリーnukumuku」のシェフである与儀高志さんだ。

「パン職人の第一歩は、すべて与儀さんから。僕よりも若かったけど、職人としては先輩。僕みたいな初心者でも、面倒見がよく、忙しい中でも色々なことを教えてもらいました」

勝野さんが11月に入り、翌年の1月に与儀さんが辞めたため、一緒に働いたのは3ヶ月に満たない。何も知らない一番吸収のいい時。だから、その濃密な時間に与儀さんに教わったことは今でも忘れられない。

「『厨房にいるときの動作ひとつ、仕事ひとつをおろそかにしない』・・・これは、目からウロコでした。例えば、“いらっしゃいませ”の声。いくら作っても、パンは売らなければ成り立たないということを、言葉ではなく教わりました。」


小豆の風味を活かしてふっくらと炊き上げた自家製あんが人気「くるみとオレンジピールの自家製あんぱん」(\210)


はじめての仕事。始発で来て、終電で帰る生活。デスクワークをしていた生活から、一転しての体力仕事だ。
『あと5歳若かったら、とっくに辞めていた』というが、それでも続けられたのは、自分の店を持ちたいという気持ちと、この店にしがみつきたいと思わせる魅力が、ナイーフにあったからだ。

「谷上シェフの存在というのは、ものすごく強烈でした。何年修業しても、この人には追いつけないと思わせるような、持って生まれた個性とセンスがある。そしてとにかくまじめで、パンに対する真摯な態度が伝わる。どんなに製造量が増えようが、時間が無かろうが、パンは絶対的なもので、パンにあわせて人が動かなくちゃならない。そういうところへの徹底と妥協の無さはすごかった」


谷上シェフのスペシャリテ「パン・ド・ナイーフ」は、敬意を表しそのままの商品名で。生地にライ麦を使ったのが、itokitoのオリジナル。


ナイーフで働いて3年半が経っていた。そろそろ違う店に移って、もう少し勉強がしたい。その頃、勝野さんは京都の「ル・プチメック」を訪れた。

「コムシノワにしても、タケウチにしても、関西の店はプレゼンテーションがものすごく上手いんですよね。食べたいと思わせるパンがある。「ル・プチメック」の西山さんはフレンチ出身なんですが、料理人が作るパンというのは全く違う。西山さんは『おいしくなければ意味が無い』と。そこは、非常に単純明快でした。こだわりにこだわって、お客さんにどれだけ伝わるのか?複雑な工程で複雑なパンを作っても、ひとくち齧って、まずい!と捨てられたら、その時点で“無”になる。職人のエゴだけが残ってしまう・・・確かにそうだと思いました」

明るく丁寧な奥様の接客もitokitoの魅力のひとつ。バギーのお客様も多く、子育て話に花をさかせることも多いのだそう。


勝野さんの中に、次第にはっきりと、自分の店の理想像が見えてきた。
「食べたい」と思わせるパン、「料理」のようなパンが並ぶ店・・・。

『本気でやりたいならば、ビストロで直接勉強すればいい。そっちのほうが近道だよ』

西山さんの一言が背中を押した。不安もあったが、もう時間も無い。働けるビストロを探し、そんな中で出会ったのが中目黒の「ビストロミカミ」だった。

「三上シェフには、『将来、パン屋をやりたい、その上で料理の勉強をしたい』と、正直に伝えました。それを理解した上で、パン職人ではなく、一料理人としてスタートさせてもらいました。」

フォッカッチャの上に乗るのは、夏野菜のラタトゥイユや、茄子とひき肉のジンジャーソテー。まるで一皿の料理のような具材が魅力だ


ナイーフだと夜中の2時に出勤していたこともあったが、ミカミは店を出るのが夜中の2時。生活は大きく変わった。何よりも、ビストロミカミで得たのは“舌の勉強”、つまりは味覚の訓練だった。

「料理人は、食に関する執念が違うと感じました。とにかく味作りに対して貪欲で、労力を惜しまない。三上シェフは職人気質ですが、味見をお願いしたり、何か質問すると、こちらが心苦しくなるほど何度でも丁寧に対応してくれる。そういうところもすごく尊敬できました。味には一切妥協しない人で、例えばサラダのヴィネグレットソースは、何回作ってもシェフのOKが出ない。繰り返しやっていく上でやっと覚えて、それでも一発でOKが出たのは数えるほど。でも、その時はすごく嬉しかったですね。舌を鍛えるということが一番勉強になったと思います。そこで、一気に考え方が変わりました」

夏の新作デニッシュは「アプリコットとソルダム」(\270)ソルダムの酸味と、アプリコットの甘みを効かせた夏らしい味わいッカッチャの上に乗るのは、夏野菜のラタトゥイユや、茄子とひき肉のジンジャーソテー。まるで一皿の料理のような具材が魅力だ


そして、現在の勝野さんのパン作りに大きく影響しているのが、ビストロミカミでの“食材使い”だ。

「魚はウロコを取るところから。肉は、もちろん塊できます。パン屋では到底扱わないような食材ですから、こういう食材に慣れることができたのは、大きな収穫。おかげで、今サンドイッチの塩豚を作る時もバラをブロックで買ってきて塩漬けするのも何の抵抗もなくできますから」

ビストロミカミで働いて1年半が経った頃、ちょうど奥様に赤ちゃんができた。期は熟し、いよいよ自らのパン屋開業へ踏み出す。




「妻は、美大生の頃に知り合って、長いんですよ。版画家だったので、店に飾ってある額絵はすべて彼女の作品です。僕がパン屋をやるにあたって、接客をしてもらう約束だったのですが、販売の経験もなければ、パン屋を営むというイメージも無いから、なかなか理解できないんですよね。僕がどれくらい作れるのかもわからなくて、本当にパン屋なんてできるのかと、不安にさせてしまったようです」

2007年8月、長男の「以都(いと)」くんが誕生。奥様の実家の奥沢からも程近い大岡山に物件も決まり、いよいよ準備が本格化し始めた。中古でオーブンを探していた頃、谷上シェフから電話がかかってきた。

「『今度店を閉めることになったから、機材をもらってくれないか?』と。ナイーフの閉店には、複雑な思いもありましたが、ありがたく譲り受けました。今、厨房や店頭にある機材はほとんど谷上シェフから頂いたものです」






2008年1月13日、Itokitoはオープンの日を迎えた。

「やはりこだわっているのは、バゲット。『バゲット48』は、西山さんのバゲットを参考にしています。0℃の状態で、48時間発酵を取ります。イーストの量は通常のバゲットの約10分の1。ゆっくり発酵を取って、粉の旨みをじっくり引き出します。とにかく、薫りがものすごく強い。焼いて2.3日経っても、置いておくと部屋中が『48』の薫りになるくらい。ロングディスタンスなので、多少時間のブレがあっても、コントロールしやすいというのもメリット。例えば2時間発酵のパンは10分パンチが遅れるだけで、生地に影響が出やすいですが、48時間発酵ならば、そんなに影響しません。安定したパンが作れます」


バゲットは、2種類を販売。長時間発酵の「バゲット48」、「バゲット」にはいずれもリスドオルを使用。沖縄産の塩を使い、飽きの来ない味わいはどんな料理とも相性が良い


そして、ビストロで学んできた料理の技術、“舌の勉強”は、itokitoのサンドイッチに結実する。

「サンドイッチに入れているものは、自家製で作っています。サンドイッチ用のパンも、具材に合うように歯切れのよさと、ある程度の柔らかさを出すように焼き方に気をつけています。肉など濃厚な味付けのものには、セーグルのパンを、エビや野菜など淡白な味のものにはプレーンなバゲットを、と具材とパンの相性も意識しています。口の中が切れるようなハードなカスクルートもおいしいけれど、万人受けするものではない。お客様が喜んで、且つおいしいものを作りたいと考えています。冬になったら、鴨や牛の煮込みなんかも仕込みたいですね。いたずらに品数を増やすのではなく、おいしさの為に手をかけたものをひとつひとつ作っていきたいです」

季節ごとに具材が変わるサンドイッチは、店を覗く楽しみのひとつになりそう


思わず、唾をごくんと飲み込む。話を聞いているだけで、食欲を刺激されてしまうのだ。店頭に目をやると、笑顔でパンを選ぶ親子の姿があった。おいしいものを前にすると、人は自然に笑顔になれる。

「必要以上に原材料に神経質になるよりは、食べておいしい!っていう時に出るアドレナリンやセロトニンのほうが、どんなに健康につながるだろう、と僕は思うんです」

“itokito” 
店名は、愛息子「以都(いと)」くんの名前と、いつまでも元気な店であってほしいという想いをこめ、“新鮮な魚”を意味する「キトキト」という方言をあわせて。夫婦で考えたオリジナルのコトバだ。 イ・ト・キ・ト。不思議なおまじないのように、人々はその店のパンを見れば笑顔になる。
サンドイッチの魔法はさらにその笑顔を10倍にも100倍にもする。(2008.7)




itokitoイトキト
住所 東京都大田区北千束1-54-10佐野ビル1F
TEL&FAX03-3725-7115
営業時間月曜〜金曜 11:00〜21:00
土曜・祝日 11:00〜19:00
定休日 日曜・第2月曜
アクセス東急大井町線 大岡山駅より徒歩3分
地図




※このページの情報は掲載当時のものです。現時点の情報とは異なる可能性がございますのでご了承ください。