昨年の7月、東京のベッドタウン、葛西に一軒のパン屋がオープンした。
人気があると聞いて、朝8時のオープンを目指して伺うと、すでに店内は人で溢れていた。週末だったこともあり、男性の姿もチラホラ。皆、トレイいっぱいにパンを乗せている。
“カレーパン焼立てでーす!”
すぐ目の前の窯から焼立てパンが出てくると、並べるそばから消えていく・・・。閑静な住宅街にポツリと出来たこの店には、まるで不思議な磁場があるようだ。

シェフブーランジェを務めるのは、間々田雄一さん。なんと、かつて東日本の新人王にも輝いたことのある元プロボクサーだ。パン職人にはいろいろな経歴の持ち主がいるが、そんななかでも、プロボクサーの過去を持つというパン職人はなかなか珍しいのではないだろうか。言われてみれば、店名の「ジョー」にもなにやらボクシングの匂いが・・・。

「そうなんですよ。幼稚園の頃から、『明日のジョー』に憧れていて」



窓辺にさりげなく飾られた「明日のジョー」のフィギュア



そう聞くと、無骨な店を想像するかもしれない。だが、鮮やかなオレンジのファサード、そしてウッドデッキに並べたテーブル・・・、といった洒落た佇まいからは、まったくオトコ臭さを感じない。本人の間々田さんはというと、目深にかぶったニットの帽子からのぞく黒目がちな瞳は、どこか可愛らしい印象さえ与える。燃える魂は、今やパンのやわらかなヴェールに隠されているようだ。



交通量の多い大通りから一本入った、
緑豊かな並木道沿いにひっそりと佇む




間々田さんは、埼玉県出身の37歳。高校卒業前から本格的にボクサーを目指し、約6年間プロボクサーとして活躍した。体力勝負のボクシングだけに、24歳という若さで引退したが、新しいことを始めるには、充分に体力も気力もあった。
「引退して、さてこれから何をしようかと考えたときに、パン屋になりたかったことを思い出したんですよ」
ところで、なぜパン職人だったのだろうか。

「小さい頃、近所のパン屋さんがパンを配達してくれていたんですよね。焼立てのフワフワした食パンを奪い合うようにちぎって、むしゃむしゃ食べるんですけど、それが本当においしくて。その頃、パン職人になりたいなと感じていたのを思い出したんです」
幼少期の憧れの職業は、次第にパン職人からボクサーへと変わっていったわけだが、その後もずっとどこかにパンへの想いがあったという。



“ご自由にお読みください”という雑誌の中にも、
もちろん「明日のジョー」が




心機一転、パンの道へ。やるからには、基礎からパン作りを勉強したい。ホテルだったら、しっかりとしたパンを学べるだろうという思いから、期待に胸を膨らませて「ホテル オークラ」へ入社した。
だが、鍛えぬいたプロボクサーにとっても、パン職人の世界は甘くなかったようだ。

「パン職人ってのんびりした仕事だと思っていたんですよ。入ってみてわかったのは、とにかく時間に追われる仕事だっていうこと。時間だけでなく、温度や湿度にも追われて・・・。想像と全然違うと思いました」
だが、そこは不屈の闘志を持つ間々田さん。まったくの畑違いの仕事に戸惑いながらも、5年間かけて様々なポジションでパン作りを学んでいった。
「大変だけど、パン作りが楽しいからやめないでこられた。それが、自分の中では大きいと思います」



カンパーニュは大小の2種類。粉の甘みがしっかり感じられる生地は全部で10種類ほど。バゲットやリュスティックなど長時間発酵タイプも



最初から独立することを考えていたという間々田さんは、ホテル以外の場所も知っておきたいと、今度は町のパン屋へ。そこに、待ち受けていたのは、ホテルとはまったく異なる環境〜店舗ありきというスタイルの店〜だった。

「特に雰囲気作りを大切にする店でした。店内から石窯でパンを焼く様子が見えて、商品のヴァリエーションも豊富。イベントなんかもあって、いらっしゃるお客さまも、パンの味そのものというよりは雰囲気を楽しみに来ている感じがありました」
そんな、町で評判の店で人気の秘訣を目の当たりにする一方で、間々田さんには何か違和感があった。パン屋には、おいしさを感じさせる雰囲気作りも必要だと知ったとはいえ、自分の目指すパンはそこにはなかったのだ。
味を追求するホテルパンと、雰囲気を重視する庶民的なパン・・・。間々田さんは、心の中にズレを感じながらも、約6年間そこでパンを作った。

その後約1年間、九州や大阪などの店をまわり、「ブーランジェリー ジョー」をオープン。駅から歩くには少し離れた場所だが、若い頃に住んでいたことがあり、緑豊かな雰囲気が気に入っていたそうだ。



天気のいい日には、気持の良さそうなウッドデッキ



では、間々田さんが目指したのはどんな店だったのだろうか。
「一見、この辺にはないお洒落な雰囲気だけど、中に入るとアットホーム・・そんな店をイメージしていました。そして、あくまでも地域密着のスタイル。パンもできるだけ焼立てを並べたいと考えていました」
扉を開けると、すぐ目に飛び込んでくるパン窯も、“焼立て”を肌で感じさせてくれる演出。次々に窯から出てくるパンの香りに包まれて、棚に目をやると、バゲットやカンパーニュなどのハード系と、あんパンやクリームパンといったお馴染みのパンが、程よいバランスで並べられ、つい、あれもこれもと手が伸びてしまう。さすがに雰囲気作りがうまい。



窯から出たばかりの焼立てのパンは、並べるそばから売れていく



では、パンについてはどうだろう。
「子供の頃に食べていたそのパン屋さんは、食パンとレーズンパン、そしてチーズ入りのパンくらいしか作っていなかったんです。そういうシンプルなパンだけというスタイルには憧れますね。その気持があるので、ベーシックなものは常に大切にしたいと考えているんです」
角食にイギリス、レーズンパンにクッペ、ロールパンにクロワッサン・・・。確かに、シンプルに生地のおいしさを楽しめるパンが充実している。



フワフワやわらかなレーズンパン。厚切りを
トーストしても、そのまま食べてもおいしい




「場所柄、ハード系ばかりというラインナップは無理ですが、おいしいハード系のある店にはしたいと思っていました。普段ハード系を食べなれない人にも食べてもらおうと、ハード系の生地にドライフルーツやチーズ、ナッツを中に入れるなどの工夫をしています」
その努力が実り、ハード系の人気も徐々に上がってきた。平日16コ、休日23コと数はまだ少ないが、作った分はきれいになくなるという。

とはいえ、甘いパンや惣菜系もこの店の魅力のひとつ。クリームチーズにうっすらとカスタードクリームを敷いた“クリームチーズ”や、クルミがぎっしりと詰まった“クルミのバゲット”などの定番ものにもちょっとしたひねりがある。
素材や粉にもなにか秘密があるのだろうか?
「当然ですが、どこの店にでもあるものを、どこよりもおいしく、という気持で作っています」
粉は、フランス産、国産、アメリカ産など、11、12種類。もちろん、良い素材を選んでいるが、オーガニックや特別に高い素材にこだわるという訳ではない。だが、揚げたてアツアツのコロッケをサンドしたパンや、手間をかけて炊いたクリームをたっぷり詰めたクリームパンを口にすれば、誰でも幸せな気持になる。



人気のクロワッサン(¥160)はパリッと食感がいい。
バターのコクと甘みもしっかり




もうすぐ1年目を迎える「ブーランジェリー ジョー」。今後はどんな店になっていくのだろうか。
「少しずつハード系を増やしたいし、今は1種類しか作れていないサンドイッチも増やしたい。本当は焼菓子もやりたいし、大好きなプリンも出したいと思っているんですよ」
実は、知り合いのシェフの店で、スタッフにプリンを学ばせる計画もあるという。まだまだ間々田さんの引出しは尽きない。



パン棚の横には、ゲランドの塩やハチミツなども。
いずれは、ここに焼菓子が仲間入りする予定だ




昼前にパンがなくなってしまうことが多い「ブーランジェリー ジョー」では、現在も朝8時からと夕方16:30からの2部制のスタイルで営業をしている。ここまでの人気は、間々田さんにとっても予想外のことだ。
「そうですね。結構、びっくりしました。売上目標としては今と同じくらいの額を予想はしていたんですが、こんなに勢いよく来てくれるとは思わなくて・・・」
ということは、当初の予定以上にパンを作れば、もっと売上が良くなるということになる。
「人を入れたりして、もっとたくさん作ればいいのかもしれません。でも、丁寧に作った生地の味を大切にしたいんです。1つのパンにかける時間が減ると、どうしても雑になる。忙しくても、そこには越えちゃいけない一線があると思うんです。ブレないように、丁寧に。やっぱり気持が出てしまうものなので、自分が納得できるように作りたいと思っています」
自分が納得できるように・・・。元ボクサーとして自分に厳しく、ストイックに人生を歩んできた間々田さんの言葉には説得力があった。



窯の向かいの壁にかけられた書。
パンへの真摯な気持が伝わってくる




ところで、そんなストイックな気質はパンに影響しないのだろうか?
「そうなんですよね、実は。結構、考えすぎちゃうんですけど、そうするとあんまりいいパンってできないんですよ。考えるけど、考えすぎないようにしています」
そう言って笑う間々田さんは、正真正銘、パン職人の顔をしていた。



朝8時。今朝も「ブーランジェリー ジョー」のパンを楽しみに店を目指す人がいる。
待ちきれない思いで焼立てパンをほうばれば、思わず幸せの笑みがこぼれる。 そう、子供の頃の間々田さんのように・・・。






ブーランジェリー ジョー
住所 東京都江戸川区南葛西2-23-10 カーサデエスペランサ1F
TEL03-5667-5490
営業時間8:00〜12:00(売り切れ終了)、16:30〜18:30(売り切れ終了)
定休日月・火曜
アクセス 東京メトロ東西線葛西駅より徒歩15分




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