店を訪れたのは、記録的な真夏日が続いていた8月のある日。炎天下の昼下がり、等々力駅からまっすぐに続くバス道を歩く。閑静な住宅街が続く深沢近郊は、駅前でも緑が多い。木陰から木陰へと日差しを避け、やがてその先に小さな木のドアが現れた。
「ブーランジェリーコシュカ」。レンガ造りの建物に馴染む、組み木風の外観。軒先のスペースと古材を使ったドアが、強い日差しを和らげ、来る人を優しく受け入れる影を作る。オープンからまだ1年程の新店だが、手にすっと馴染むような懐かしさを感じさせる。

緑多い深沢に構える、落ち着いた外観のブーランジェリー。近隣に住む客が中心で子供連れでパンを選ぶ姿が微笑ましい


「いらっしゃいませ」

笑顔で対応するのは、シェフのお母さま。奥様と交替で、この店の接客を担う。カウンターでは、窯から出てきたばかりのフォカッチャが湯気を上げ、ハードトーストは黄金色のクラストをまとい、凛とした様子で肩を並べていた。シャッターを切る側から、思わず手が出てしまいそうになる。

カウンターは木の家具を利用し、引き出しと台で高さを造り立体的にパンを配置。店内から続く奥の厨房には、ドア越しにシェフの姿が窺える


厨房から、シェフの秋元英樹さんが現れた。店名は、3人のお子さんの名前から頭文字をとって「コ・シュ・カ」とつけたのだそう。

「夏休みだから、海にね。店にくることもあるけど、子どもと会うのはやっぱり店の外がいい」

こんがりと日に焼けた顔は、もうひとつのパパの顔。定休日が日曜日というのも、いかにも子煩悩の秋元さんらしい。ハード系のパンと肩を並べ、かごに盛られたキャラクターのパンを指差すと照れくさそうに笑った。





若干31歳にして、パン職人歴は14年。知人の紹介で、とある有名店の門戸を叩いたのが17歳。そこから、秋元さんのパン職人の道がスタートした。

「職人としての意識も覚悟もないまま飛び込んでしまったから、当時の自分には地獄の日々でした。仕事は、シェフと一対一だけど、実際はほとんどシェフ一人で作っているようなもの。それで一日20万〜30万円売っていたから、尋常じゃないスピードに尋常ではない量のパンだった。自分は窯と、クレームパティシエールを少しやらせてもらっていたくらいで、生地にはほとんど触ってなくて。混ぜ方など、ひとつひとつの作業に独特のやり方があった。それがどういう意味だったか、どんなに貴重な経験だったかは後になって気が付いたことでしたが」

工房にあったのは、ミキサーと窯と、モルダーのみ。ホイロも、機械式のものは無く、お湯を炊いて下から蒸気をあて、毎日の温度と湿度によってその都度扉を開閉するというものだったという。

『こんなに温度が高くて、何故扉を開けないんだ?』 『火が強すぎる!』

容赦なく檄が飛んだが、感覚がつかめない。シェフの言っていることを理解するには、経験が足りなすぎた。1年弱で辞めることになり、次に紹介で入ったのは大手のパン屋だった。


店内にはサバトンのジャムやオリーヴオイル、バルサミコ酢など、パンに合わせるグロッサリーも充実している


「初めて工場に入った時、ここは機械屋だ!と思った。人も多いし、昨日入ったバイトでも生地を触れるように、全てがマニュアル化されている。大きいところでもちゃんとやっているところはあるから、どちらが良くてどちらが悪い・・・という話ではないけど、その時初めて、前のシェフがやっていたことの凄さが分かって、後になって謝りに行きました」

17歳の秋元さんにとってパン職人の礎となった店。厳しくも自分を導いてくれた人への感謝の気持ち、尊敬の気持ちを忘れない。“つながり”を重んじる。この姿勢が、その後も秋元さんの仕事を大きく前進させていった。

「2軒目の店で働きながら、改めてパンの勉強をしたいという思いが強くなってきました。休みの日となると殆ど講習会に出かけたりして。たいして配合が変わらないはずなのに、あの職人のパンは何が違うのか・・・とにかく色んなことを知りたかった。その中で、最も衝撃的だったのがJPB(ジャパンプロフェッショナルベーカーズ)の講習会で知り合った明石さんの存在でした」


石臼挽き食パン ¥340 ※週末限定
石臼挽き粉「グリストミル」を使用。しっかりと厚めのクラストが香ばしい。薄くグレーがかったクラムは弾力のあるもちもちとした食感が魅力



ひとつひとつの生地に対して、どう接するか。添加物をなるべく使わず、普通の材料でパンを作るということ。あくまでも生地に合わせ、時間をかけるべきところは決して省かない。 工場でのシステマティックなパン作りが中心となっていた秋元さんにとって、明石さんの仕事こそ“パン職人”だと思えた。そして、自分の店を持ちながら業界の為にも動き回り、後輩の面倒にも心を砕く懐の深さにも尊敬の念が増していった。パン屋に必要なのは技術だけではない、それを身を以って教えてくれた、かけがえのない存在だ。  そして、大きな転機をもたらしたのが、もうひとりの職人との出会い。それが、当時アルトファゴスでシェフと務めていた志賀勝栄さんだった。

「当時、志賀さんのバゲットがテレビに出ていたんです。ボコボコと大きな気泡が入っていたのが、すごく珍しくて。その硬さとおいしさが、新鮮な衝撃でしたね。それから講習会で何度か志賀さんに会ったり、研修に行かせてもらったりしていました。その時、志賀さんに職場を替えるけど一緒にやらないか?といわれて」

『ペルティエ』・・・思わぬ店名に正直驚いたという。今でこそ、本格フランスパンが並ぶ有名店だが、当時のペルティエのパンはいわゆる昔風のもので、ケーキが中心の店。しかし、志賀さんの言葉に、秋元さんは決意を固めた。

秋元さんがペルティエ時代からずっと作り続けてきたクロアソン、そして大納言も人気の定番商品


志賀さんの片腕となり、赤坂ペルティエの立ち上げを1年間。その後、銀座三越店、そしてユーハイム・ディー・マイスター丸の内店の立ち上げに関わった。丸ビルがメディアに出だすと、志賀さんの知名度も、パンの生産量もうなぎのぼりに上がっていった。しかし、秋元さんは冷静だった。

「長時間発酵では甘みもでるし、経験の浅い人間でも志賀さんのルセットなら確実にうまいパンが作れる。それは、ものすごいことです。でも大切なのは、ルセットよりも今日の生地。目の前の生地がどんな状態にあるのかを見ること。経験も技術もさまざまな大所帯でパンを作っていく場合、それを理解しないまま、人のルセットでなんとか出来た気になってしまうのは怖いと思ったんです」

そんな時、脳裏に浮んだのが、ブロートハイムのパンだった。普通にストレート法で、香りと味を作りながらおいしいパンを作ること。今の自分にそれができるのだろうか?そんな疑問が沸いてきた。無論、志賀さんの長時間発酵が独特な製法であることは理解していたが、そのやり方が染み付いていた秋元さんにとっては、明石さんがやっている“普通のパンを作ること”こそ、難しいように思えてならなかったという。

「カンパーニュブラン」、「ベリー」などハード系のパンも魅力。カンパーニュにはルヴァン種、粉はスローブレッドクラシックを使用


ユーハイムを辞め、フランス、ドイツ、デンマークを渡る3ヶ月間の旅をして帰国。その後はミクニに入社し、働きながら徐々に自身の独立への意思が高まっていった。

「地元が自由が丘だったので、近辺で不動産を探していました。この場所は偶然見つけて、広さも条件も丁度良かったんです。本格的に準備を始めたのはそこから。展示会で新古品の機材を集めたり、イメージも色々拡げて、新しいルセットを書いたりしていたんですが・・・いざ、開店を目の前にして行き詰まってしまって」

作っても作っても、自分の求める味ではない。窯も思うように動かない。しかし、開店の日は刻々と近づき、ジレンマが高まるばかり。秋元さんは、明石さんに相談をしにいった。

「まだ開店もしてないのに、『店を閉めます』なんて。でも、その時は本気だった。それくらい悩んでいたんです。そうしたら明石さんが、『そんな格好つけてないで、普通のパンを普通にやりなさい。そのほうが一番難しいかもしれないけど』って」

食パンをはじめ、コシュカには卵不使用のパンが多い。卵アレルギーの子どもも食べられるようにという配慮から。「あげぱん」はそんなこどもたちの人気商品のひとつ


ハード系の本格的なパンを作りたい、売りたいという固執があったのかもしれない。明石さんの言葉を胸に、秋元さんは必死に“普通のパン”を表現した。 しかしオープン後も試行錯誤は続いた。疲労により腕を痛め、数日間の閉店という苦渋も経験した。そんな時、いつも相談相手となり、支えになっていたのは、明石さんはじめ、今までお世話になってきた諸先輩の存在だった。

「オープンの時から、常に明石さんに言われてきたのは『どんなに売れなくても、焼きたてを出せ』と。それだけは、ずっと守っています。開店したての頃、夏場でほとんどパンが売れていない日でも、午後仕込まなくちゃ・・・というのは本当に辛かった。でも、焼いて7〜8時間経ったバゲットと、2〜3時間のバゲットは、全くの別物だというのはよくわかる。硬いパンを売ってしまったら、フランスパンってそういうもんだと思われてしまう」

朝夕2回焼きあげるバゲットは、長時間発酵の「トラディショナル」とスタンダードの「バゲット」の2種類。トラディショナルには、リスドオルに全粒粉のスーパーファイン(メールダンケル)を加え、口どけの中にコクをプラス。イメージは、フランスで食べた旨みの濃いバゲットだ
(※今後バゲットの焼きあげは3回に変更の予定)



オープンから2年目を迎えた今、秋元さんの表情は晴れやかだ。

「少し太ったんですよ。実は、はじめはとにかく不安で、とても自分のパンが喉に通らなかった。自分で食べてうまいと思えないのは一番辛い。志賀さん流のフランスパンの影響があまりに大きかったから、急に、普通の菓子パンや食パンの生地作りというのに戸惑ってしまったんでしょうね。菓子パン生地だってそれはそれで難しいもの。一番大事なのは口どけ。丸め方ひとつ、イーストの量、水質などで全く変わってきます。いまでは、毎日試食ばかり(笑)」

徐々にお客さんからもっとハード系の種類を増やして欲しいという声があがっている。試作を進めていた、長時間発酵のリュスティックも完成し、最近販売をはじめた。

工房では、秋元さんとスタッフの2名で全てのパンを作る


「ひとつひとつのパンを直して、自分の納得いくものに仕上げることが優先です。人数も少ないから、ひとつの生地でどうやって展開していくかとか色々考えていますが、結局仕込み数も増えてしまっていますね。その中で、新しいものも常に試作しているんですよ。やっぱり、ハード系がやりたい、自分だって作れる、その気持ちはずっと持っていますから」

おもむろに、冷蔵庫から試作中のライサワーをそっと見せてくれた。

「ドイツパンはずっと作りたくて、オープンの時は出していたけど、出来にブレがあってやめてしまったんです。今は、本当に納得行くまで出したくない。妥協したくないんです。・・・判断基準?自分で食べてうまいか、それだけです」

パタンと、冷蔵庫のドアを閉め、また慌てて窯の前に戻った。パチパチと湯気を上げ、夕方のバゲットが焼きあがった。
“普通のパンを作りなさい”
師匠に言われた言葉を胸に、自らに課したハードルをひとつひとつ越えながら、確実に、コシュカは進化していく。
冷蔵庫に眠るライサワーには、パン職人の可能性が詰まっている。カウンターの隅っこに、秋元流ドイツパンが並ぶ日はいつのことだろう。いまから楽しみでならない。(2008.9)





ブーランジェリー コシュカ
住所 東京都世田谷区深沢5-23-1
TEL03-3703-5771
営業時間10 :00〜19 :00
定休日日曜・不定休
アクセス東急大井町線等々力駅より徒歩13分




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