店頭を飾るスイーツ類は、まるで客ひとりひとりに話しかけているような表情だ。黒いファサードにアルミ枠とガラスのドア、白い壁やむき出しの配管などの無機質な空間の中で、それらは優しく心に響いてくる。チョコレートを多用したケーキ類は洗練されたシンプルなフォルムだし、パウンドやクッキーなどの焼き菓子類もしっかりと焼きこんであり力強い。それでも不思議と温かいのはどうしてだろう。

「とびきり愛情込めて作っていますから」

石井ヴァンソン敬子さんは静かに笑う。


生ケーキは15〜20種類を用意。エクレア、バルケット・オ・マロン、サヴァランなど、フランスの定番菓子も並ぶ



学生時代からキュイジニエを目指していたという石井さん。大学を卒業して普通の会社に就職した後も、その夢は石井さんの中で大きくふくらんでいった。そしてある時、コルドン・ブルー東京校の門をたたく。仕事を続ける傍らで夜間クラスに通学するようになり、フランス料理のテクニックを身に付けた。卒業後は料理の世界へと意気込んでいたところ、両親や知人から反対されてしまう。“好きなことは趣味としてやったほうがいい”“業務用の機材は鍋だけでも20kgもあるほど。体力勝負の仕事だから大変”そんな周囲からのアドバイスに納得しつつ、それでも断ち切れない想い。
“料理は難しいかもしれない。でも、お菓子だったら・・・”

「とにかく物を作ることが好きだったので、フランス菓子も習ってみようかと。そしてフランス菓子を学ぶならフランスに行かなくちゃと自然に思っていました」

コルドン・ブルーの東京校にてフランス菓子の基礎クラスを受講した後、‘96にフランス校へ。中級・上級クラスを無事に卒業し、先生の紹介でスタージュ(研修)をうけることになった。3店舗の候補の中から石井さんが選んだのは、15区にある「ドゥース・エ・パティスリー」。決め手は、

「一番厳しそうなところだったから。自分に試練を与えてみようと思ったんです。それに初めに苦労してしまえば後が楽になるだろうし」

その予想通り、シェフはとても厳しかった。その当時弱冠24歳のシェフだったから血気盛ん。“○○して”との指示に“?”言葉が聞き取れないため反応できずにいると、即座に物が飛んでくる。わけもなく怒り出すこともしばしば。それでも、

「楽しかった!粉、卵、砂糖、バターといった基本素材からいろいろなお菓子が出来上がるのが面白くて嬉しくて」

と当時を振り返る。


ミルクチョコレートを使った「ガトータミナ」

タルト・オ・フリュイ。サクサクの生地に季節のフルーツをたっぷりのせて



夏休みには1ヶ月間アルザスに滞在した。

「アルザス地方や、それ以外にも近くなのでドイツやスイスなどのパティスリーをまわっていました」

といっても、その目的はただ“見る”だけではない。

「気に入った店に飛び込みでお願いして働かせてもらうんです。コックコート持参で。まるでバックパッカーみたいですね(笑)」

そうしてスタージュさせてもらった店は1ヶ月の間に7件にものぼるそうだ。ここで補足しておくと、石井さんは決して積極的でも好奇心旺盛なタイプでもない。むしろ、控えめでおっとりとした印象を受ける。

「学生時代は引っ込み思案だったし、ぼおっとしていました(笑)」

と自身も語っているほど。その石井さんを駆り立てたのは、ひとえに“今しかない”という想い。

「なにごとも自分から動かなければ受け入れてもらえない世界。だから自然と積極的になったのかもしれません。とにかく覚えるだけ覚えて、たくさんのことを吸収できるのが楽しかった。そのためには1日だって無駄にしたくないって思っていましたから」


スペシャリテはミルフィーユ・ショコラ



その後も、石井さんの“知ることが楽しい”という信念と果敢な行動力は、足掛け7年にわたる在仏期間中ひとときも休まることはなかった。「ドゥース・エ・パティスリー」からホテル「ジョルジュ・サンク」へと研修先を移し、更にそこのシェフの紹介でショコラティエ「ジャン=ポール・エヴァン」へ。’99に一時帰国してからは「キハチ」で働き、続けて「東京全日空ホテル」に就職した。そして’01には再度渡仏。四つ星ホテル「ロワイヤル・モルソー」でスー・シェフとして活躍し、その後「ジャン=ポール・エヴァン」で3年間勤務、という輝かしい経歴を残す。その間、パティスリーの菓子に始まり、ホテルで提供するデセールやウエディング&パーティー用のアントルメにピエスモンテ、ショコラなどのテクニックを吸収していった。更に、フランス人男性との結婚、出産をも経験した。女性として大きな転機を迎えながら、それでも石井さんが次々と修業を重ねていくことができたのは、シェフとのコミュニケーションを大切にしていたからに他ならない。 




例えば、「ジャン=ポール・エヴァン」での研修が決まったときのこと。通常、日曜日は休日のため、他のパティシエたちは出勤しない。そこで石井さんはあえて名乗りを上げた。

「実は、日曜日にはエヴァン氏が独りで仕込みをしていたんです。だから間近でシェフの作業を見られるチャンスだと思って」

厨房内でのエヴァン氏は厳しかった。何度となく怒鳴られもした。しかし、それはひとつひとつにきちんと意味があること。

「例えば、厨房内の器具は効率を考えて配置されているから、少しでも違う場所にあると気になってしまうほど。それほど繊細な感性の持ち主だからおいしいショコラが作れるのでしょう」

素材にかける情熱も人一倍強かった。材料を無駄にしたするとエヴァン氏は厳しく注意。徹底的に使い切ることの大切さを実践した。また、いいカカオがあると聞けば時間をいとわず現地まで赴いた。そんなエヴァン氏の姿勢に刺激を受け、着々とレベルを上げていった石井さん。初めはショコラティエとパティシエのアシストをする程度だった仕事内容も、最終的にはパティスリーで提供する全ての生地を任されるまでに至った。




「エヴァンさんは素材の活かし方も独特。初めてお店のトリュフを食べたとき、チョコレートのおいしさと口溶けの良さに圧倒されました。シンプルな組み合わせと手を加えすぎない作り方で素材の良さを引き出しているんです。その考え方が、今の私の原点になっています」

カー・ヴァンソンをオープンするにあたって考えたのは、“心も体も幸せになれるお菓子”。チョコレートを主体としたケーキはいっけん濃厚そうだ。けれども、口にすればすぐに気づくことがある。

「日本人が食べておいしいと感じるように、甘さは控えめ。それに、砂糖の種類によっても甘さは随分違うんです。今、店では7種類の砂糖を使い分けています。例えば果糖なら甘さがすっきりと感じられるし、洗双糖ならまろやかだから素材を引き立ててくれる。洗双糖はミネラルが豊富なのも嬉しいですね」

“体に優しいものを”との考えは、子供を持つ石井さんならでは。果糖のみで作られたショコラのキャラメルは、口に含むと清涼感のある甘みとチョコレートの素直な風味が心地よい。果糖と洗双糖を使ったフォンダンも、砂糖の甘ったるさを感じさせない。そんな素材に対する思い入れはエヴァン氏譲りなのだろう。砂糖だけではなく、小麦もバターも卵もそう。たくさん試作した中から、数種類のものを使い分けている。購入するときには業者を通さず直接店にかけ合うことが多いことからもその熱意がみてとれる。



自家製パートダマンドで仕込んだケークや和三盆を使ったクッキーなどの焼き菓子類も魅力的



良い素材を手に入れたら、それらを最大限に引き出してあげるのも石井さんの役目。例えば、

「クレーム・パティシエールを作るときには、牛乳とバニラをゆっくりと煮だしてから二晩熟成させたものを3日目に炊き上げます。こうするとすごく香りが立つんです。パートダマンドだって、生のアーモンドを煮込んで卵白と砂糖を合わせて粉砕すると、全然香りが違いますよ」

と目を輝かせる。一番人気のミルフィーユ・ショコラ用のフィユタージュ・ショコラについては、店を閉めてスタッフが帰宅した後で仕込むのだという。

「実は、パイルームがないんです。売り場と厨房合わせても14坪程度しかないので作れなくて。日中はオーブンを使っているから室温がどうしても高くなってしまう。だから、閉店後にできるだけ冷やして、独りでひっそりと夜鍋しています(笑)」 

できる限りの最適な環境で作られたフィユタージュは、サクハラとした繊細で崩れるような口当たり。甘さ控えめのショコラのクリームとの相性も良く、後味がさらりと気持ちよいのも特徴だ。






ゆっくりと丁寧に手間隙をかけて作られるカー・ヴァンソンのお菓子たち。素材ひとつひとつに込める石井さんの愛情が優しいエッセンスとなってお菓子に宿る。(2007.06)




パティスリー K.ViNCENT(カー・ヴァンソン)
住所 東京都新宿区筑土八幡町1-2
TEL&FAX03-5228-3931
営業時間11:00〜19:00
定休日水・木曜
アクセスJR飯田橋駅東口より徒歩8分、地下鉄飯田橋駅・神楽坂駅・牛込神楽坂駅より徒歩5分
URLhttp://www.k-vincent.com/