「1994年9月4日 OPEN以来13年間 
皆様には大変ご愛顧いただき、本当にありがとうございました。
6月4日、閉店します。
 今秋、あきる野市へ移転します・・・」

世田谷・梅ヶ丘の「ラ・フーガス」の店頭に告知が貼られたのは、昨年5月のこと。駅から連なる小さな商店街には、この13年間、いつもパンの香りが漂っていた。その香りが、パンが、見慣れた緑色のファザードが、無くなる・・・。この街の人間にとって、いつしかかけがえの無い存在となっていた「ラ・フーガス」の閉店は寂しく、ショックな出来事だった。

「想像以上に反響が大きくて・・・。お客さんみんなになんで?って言われて。中には、怒る人もいました。移転の理由はいろいろあったので、皆さんにうまく説明できなくて。感謝と申し訳なさで口ごもってしまって、ただただ『ごめんなさい』としか言えなかったですね」

閉店の日、店に伺った。18時には、ほぼ完売。パンはもうなかったが、それでもお客さんが訪れ、「ありがとう」と、それだけを言いに来ていた姿が印象的だった。

仁礼シェフの第2ステージとなる、川沿いにたたずむ大きな一軒家。外観は、アルザスやドイツの木組みの家をイメージ

そして、半年後の2007年12月17日。あきる野市に、新生「ラ・フーガス」はオープンした。
秋川駅からバスで15分程、都心の人間にとっては"わざわざ行く"郊外店となった。

「移転は、3年ほど前から何となく考えていたんです。お客さんがパンを食べながらのんびりできるスペースを作りたかったし、家を建てて自宅兼店舗という形にいつかしたいと思っていて。鎌倉とか、郊外で探していたのですが、初めてこの場所に来たとき、春で緑がとてもきれいだったんです。小川が流れていて、ああ、こんな川のほとりでカフェが出来たらいいなぁと」

ゆったりしたカフェスペースは、木のぬくもりを感じる
心地よい空間。窓越しに川を眺めながらパンを食べて
いると、つい時間が経つのを忘れてしまいそう

ここに移転すれば、環境は大きく変わる。「いまさらゼロからやる必要は無いんじゃないの?」と、当初は奥様も不安だったという。この土地で認められるか、客は本当にくるのか・・・。もちろん仁礼さんにも、不安はあった。しかし、あえて梅ヶ丘から移転する意味を考えた時、この場所ならば、もう一度ゼロからのスタートになっても、本当に自分がやりたい店を作れるんじゃないかと思った。

「ハナコウジから独立して、梅ヶ丘にラ・フーガスをオープンした当初は、繁盛店を作りたいと思っていました。お客さんがひっきりなしで、空気が淀んでいなくて、活気のある店にしたかった。でもそういう店にするために、自分の生活を犠牲にした部分も多かった。でも、今は自分のペースで本当においしいものを作りながら、"人間的な生活"がしたいなって」


店内のタイル画は、準備期間に家族3人で一枚一枚
手描きした。外壁を飾る麦の穂のモザイク画も、
余った屋根瓦を割って作った仁礼一家の合作だ

6月に梅ヶ丘の店を閉めて半年間。仁礼さんにとっては、久々に訪れた長い長い夏休みだった。小学生の息子さんとゆっくりと遊ぶ時間ができたり、知人である「キィニョン」の立川エキュート店オープンを手伝ったり。ブノワトンの高橋シェフが立ち上げた製粉会社「ミルパワージャパン」の見学もしたそうだ。

「こんなにのんびりできたのは本当に久しぶりで。おかげで半年で5kgも太ってしまって(笑)」

オープンの告知は、開店1週間前に店の前に貼り紙をした程度。いまも、特に大きな広告を出してはいないというが、一人帰ると、また一人・・・とお客さんは途切れない。開店して1ヶ月。少しづつ固定客がつきつつあるが、未だに「何屋なの?」と入ってくる人も少なくないそうだ。

「こういう感じでぽつぽつと入って、店で1時間でも2時間でものんびりしてくれたらいいなと。日曜日は家族で来て、お父さんはここで新聞読みながらパンを食べて、子供は絵本を読んで。そんな光景を見て、こういうのやりたかったんだな・・・って実感しました」



セルフ式から、カウンター式へ。
パン棚を挟んで、接客を務める奥様と
お客さんの楽しげな会話がはずむ

「梅ヶ丘の頃と比べて、カンパーニュやベルリーナラントブロートのような大型の食事パンはあまり売れません。でもそれはある程度予想していましたし、長いスパンでうちのパンを理解してもらい、この土地に浸透していけたらと。以前は人を雇って3人で焼いていましたが、今は厨房は私一人。アイテム数は以前の半分程になりましたが、その分、効率を考えながら今まで以上においしいものを作っていきたいと考えています」

一人でやっているからといって、出来合いのものは使いたくない。そこで、新しく取り入れたのは"あん練り機"。以前は、あんこ屋から買っていたが、今はこの機械で自家製のあんを炊いている。これで、クリームパン用のカスタードや、カレーパン用のカレーも作れるという便利な機械だ。

これが"あん練り機"。
厨房はオール電化で、こちらも電熱式。
将来的には、手作りのジャムも作りたいとのこと

移転して、新しく増えた商品は、フォッカッチャやハード系のオレンジライなど。ニーズに応えてではなく、あくまでやりたいと思っていたパンを作っているという。店の名前にもなっているフーガスが見当たらないが・・・

「よく聞かれるんですけど、以前とは少し違う形にしたいと思っていて、今はまだ試作中なんですよ。カンパーニュやノアカレンズに使っている天然酵母も、ここに来て、また種起こしからやっているんですが、それもまだ安定していなくて。やはり場所が変わると、同じ配合でも、同じパンは出来ませんから。まあ、これから少しづつやっていきます」

新商品の「フォッカッチャ」。ふんわりと食べやすく、
プレーンタイプはサンドイッチにして販売もしている

「驚いたのは、この半年間での小麦粉とバターの高騰。以前は、できるだけ安くみんなに食べてもらいたいという思いがあったのですが、今は、少し強気の価格設定でも、その分手間隙をかけて値段に見合ったおいしいものを食べてもらおうという考えです。食べて、その値段の価値があればまた買ってくれる。パンが高いか安いかは、お客さんが判断してくれるものだと思っています」

「ジャポネ(\360)」は、昭和産業の国産小麦を100%使用。
冷蔵で一晩寝かせ、じっくりと粉のうまみを引き出している

「週末には、遠くから電車を乗り継いで来てくださるお客様もいて、本当にありがたいです。パンを買うためだけに来るには、不便な場所ですから。この間、梅ヶ丘の時のお客さんが来てくれたんですが、カフェでパンを食べた帰り、『あなた達が何をやりたかったか、ここに来てやっとわかりました』って。嬉しかった」

言葉少なだが、ふっと笑顔がもれた。売り場の方から、接客をする奥様の明るい声が響いた。仁礼さんは指折り数える。

「今、45歳だから・・・これからあと、また13年やるとしたら、58歳。それより更に上の年齢でも現役で頑張っている先輩はたくさんいます。もっとおいしいパンを作りたいし、カフェを充実させたり、やりたいことはまだ沢山ある。昔は無理してでも夜遅くまで作ったりしていましたが、いまは違う。これから先もずっとパン職人でいたいから、急ぎません。やりたいことは、これから先にとっておこうかって」

以前は店内から厨房の様子を見ることができなかったが、
新しい店では仁礼さんの作業姿や窯が見られる

石臼を置いて、自分の店で粉を挽いてみたら・・・。高橋さんのように、地元の粉や産物を使ってパンやジャムを作るのもいいかもしれないな・・・。少し余裕ができた仁礼さんの心には、新しい風が吹き込んでいるようだ。

「目指すのは、あきる野の、知る人ぞ知るパン屋です」

カフェからは、店の裏側に流れる河原が望める。
春には一面、緑の野原になる
バスを待ちながら、半年ぶりに食べたクロワッサンは、以前よりどこか優しい味わいになったような気がした。
春が来て、野原一面に花が咲き、夏になれば緑が萌え、すすきが茂りそして冬になる。その川辺の景色に、「ラ・フーガス」がかけがえのない存在になる日も、遠い未来ではなさそうだ。
(2008.02)


ラ・フーガス
住所 東京都あきる野市草花3492-183
TEL&FAX042-569-6369
営業時間8:30〜18:00
定休日火曜
アクセス 圏央道日の出ICから車で3分
JR青梅線福生駅西口よりバスで西草花バス停下車
JR五日市線秋川駅より福生駅行バスで西草花バス停下車