今年7月、美しい小麦畑が広がる北海道・美瑛で、志賀勝栄シェフの講習会が開催された。その中で、有能な右腕として参加者の記憶に残る若いパン職人の姿があった。
その人とは、池尻大橋「ブーランジェリー ラ・テール」のシェフ、栄徳剛さん。小麦視察のため、昨年は北海道に4回訪れたという筋金入りの“小麦”好きだ。


ロッジ風の落ち着いた外観。通りを挟んだ向かいには、「ラ・テール」のパティスリーとレストランがある



「祖父の代から、実家がパン屋だったんです」

店の場所は、文明開化の香り漂う横浜・石川町。パン職人を親に持ち、パンに囲まれて生活する中で、パン職人の道を選んだのは半ば当然のことだったといえる。そして、高校を卒業すると、東京製菓学校へと進学した。

「本当のことを言うと、それまでは特にパンを意識していた訳じゃなかったんです。だから、進路を選ぶ時期にはかなり迷いました」

代々パン職人を継ぐ、栄徳家。今までは口を挟まなかった両親も、その決断を聞いて内心は喜んだに違いない。 栄徳さんは、順調に職人への道を進み、卒業すると横浜・本牧にあるブーランジェリー「ラ・ミ・デュパン」に就職した。

「オーナーもシェフもフランス人なので、店の小さな窓から、パンを作っているフランス人の姿が見えるんですよね。その瞬間に、“もうここしかない!”と思ってしまって」

当時はシェフの他にも2人ほどフランス人の職人を抱え、バゲットは1日に300本も売れるほど。ハード系が人気のブーランジェリーだったそうだ。


南部小麦を低温長時間発酵させた“フルート”など、ハード系も充実



フランスへの憧れを胸に入った職人の世界。だが、現実は想像以上に厳しいものだった。栄徳さんは、フランス流の職人魂をここで叩き込まれることになる。

「3ヶ月単位でポジションを変えるのですが、できない人は取り残されてしまうので、いかに早く仕事を覚えるかが死活問題。いわゆる能力主義なので、仕事ができるとしっかりと評価してもらえるのですが、その分とにかく仕事への姿勢には厳しかったですね。特に休むのは絶対にだめ。ある時、調子が悪くて、下の倉庫で倒れてしまったことがあったんですよ。その時に先輩に言われたセリフが、『パン屋に風邪はない』。さらにオーナーには、『次やったら、もうないよ』と言われてしまって・・・」

ちょっと冷たいようにも聞こえるが、もっと若いうちから職人意識をもつフランス人には、新米日本人の考えが甘く映ったのかもしれない。

「確かに、その頃は毎晩遅くまで遊んでいたんです。周りは普通に企業に就職した友達ばかりだったので、誘われるとつい・・・」

そんな、若き栄徳さんの心を見抜いてか、オーナーから厳しい一言が突きつけられた。

「夜遊ぶか、パン屋かどちらかを選べ」

そして、栄徳さんは心を決めたのだった。

「それから、少しずつ友達が減っていきました。気が付くと、周りは業界の人ばっかりで(笑)」

パン屋の息子として生まれ、自然の流れのままに就職を決めた栄徳さん。だが、もしかしたら、この時が、自分の意志でパン職人になることを選んだ瞬間だったのかもしれない。そして、ここから本当の意味でのパン職人への道がスタートした。

店内奥に設置された石窯。パンの内側から熱が入るため、ふっくら焼き上がるのが特徴



3年ほど修業を積み、オーナーがフランスへ戻るのを機に、栄徳さんは中華街にほど近い「ホリディイン横浜」のシェフとして迎えられることになった。

「商品数も量もそれほど多くはなかったので、自分の好きなことを試せました。当時は、ちょっと変わったものが受ける風潮だったので、中華街で珍しいお茶やスパイスを見つけてはパン生地に練り込んだりしていたんです。このときには、本当に失敗をたくさんしましたね。こんなにまずいものが出来るんだ、と驚いたりして(笑)。でも、時間や余裕がないと失敗もそうそう出来ないでしょう?だから、とても貴重な体験だったと思っているんです」

ちなみに当時の人気商品は“芝麻醤(チーマージャン)”を巻き込んだクロワッサン。あらゆる物を試した結果、栄徳さんは“スタンダードが一番”ということを体得したそうだ。
そして、この頃から彼を夢中にさせていたのが“小麦粉”。当時はまだ珍しかった国産小麦の“ハルユタカ”や“甲斐小麦”など、様々な小麦粉を取り寄せては試作していたという。パン生地に他の味を加えるのではなく、小麦粉そのものの旨みを出したい、栄徳さんの中でパンへの考え方が変わっていったのもこの時期だった。

小麦粉の味わいをいかした食事パンは、栄徳さんの得意とするところ



さらに、フランス・パリの「フルートガナ」やアメリカ・ナッシュビルの「アルファ・ベーカリー」など、海外での研修にも積極的に参加した。

「海外の店で驚いたのは、日本よりも細かいルールがしっかりあること。捏ね上げや発酵の温度など、その都度しっかり計ってデータとして記録しているんです。フランスやアメリカというと、アバウトなイメージがありますが、こういう点は日本が一番できていないかもしれませんね」

いわゆる職人の勘に頼らず、データを取り、理論的に作る。そのスタイルは、栄徳さんにとってカルチャーショックでもあった。

「仕事に慣れて職人らしくなるほど、当たり前の作業や確認を省きがちになってしまうんですよね。でも、たったひとつでもダメだったら良いものはできません。今のスタッフにもそこだけは厳しく言っているんですよ。結果的にお客さんを裏切ることになってしまいますから」

温度管理など生地の扱いはもちろん、手洗いから道具の取り扱いなど、目には見えない細かい作業に手を抜かないようにする。言うは易し、行うは難し。簡単なようで、なかなか実現できないことなのかもしれない。

朝、焼き立てのパンをかじる幸せ・・・。これがパン屋の正しい姿!



そして、ホテルでは人との貴重な出会いもあった。 パンだけでは知りえなかった味覚の世界を教えてくれたのが、パティシエのシェフ近藤康和氏(現在、横浜元町「エクセレント・コースト」のシェフパティシエ)だった。

「とにかく、味覚が優れているし、素材を組合せる独自のセンスや発想力にも刺激を受けました。ある時、前のシェフが残していった改良剤があったので、ほんの0.01%を入れてバゲットを作り、試食してもらったんです。そうしたらひと口食べて、『フランスで売っている安いパン屋の味がする』と言われてしまって。自分ではわからなかったので、信じられない思いでした」

ちなみに、「ブーランジェリー ラ・テール」の人気商品“木いちごの薄皮あんぱん”の組合せも、近藤さんから着想を得たものだそうだ。

木いちごの薄皮あんぱん \158



そしてもう一人、心に残る人物の存在があった。

「料理長が僕の作ったパンを見て言うんです。女性や子供に受けないパンはダメだよって。本物は大切だけど、お客様のことを忘れちゃいけない、職人になってはダメだってよく言われました」

ここが職人の難しいところでもある。お客様の喜ぶものを作ることと、職人として自分の道を追求することは、必ずしも一致しない部分があるからだ。栄徳さんの中に、葛藤はなかったのだろうか?

「個人的には、志賀さん(『シニフィアン・シニフィエ』)や井出さん(『ポワン・エ・リーニュ』)をすごく尊敬しているんです。誰が見てもすぐにそれとわかるような個性がありますよね。でも、僕はあえて八方美人を追及しようと思ってるんです」

と屈託のない笑顔を見せた。それが決して皮肉でないことは、パンを見ればおわかりいただけるだろう。

しあわせを呼ぶクリームパン \168。味、見た目ともに、女性や子供から人気の一品



心身ともに充実した5年間の歳月を経た栄徳さん。今度は一流のフランス料理人の仕事を見てみたいとの思いから、三國シェフの「グランカフェ 新橋」に入り、その後、満を持して「ブーランジェリー ラ・テール」のシェフとなった。
「ブーランジェリー ラ・テール」の棚に並ぶのは、北海道産小麦のもちもちパン、ユキノチカラのハードトーストに、有機野菜たっぷりのサンドイッチ・・・ 体に良い自然素材を厳選し、石窯でパリッと焼き上げたパンは、見ているだけで楽しくなる。商品タグには、“石臼挽き小麦”や“富士山の天然水”などこだわりの素材がずらりと並んでいるが、そのさりげなさが心地よい。

散歩途中や、ランチを買いに・・・。小さな子供を連れた女性の姿も多い



「身近でいたいんです。パンが人を選ぶのでなく、お客様が望むもの、喜んでもらえるものじゃないと意味がないと思うんですよ」

“八方美人を極めます”、という栄徳さんの言葉がふと甦る。これは“八方美人”の部分だろう。では、“極める”の方はどうだろうか?

「小麦粉が好きですね。今20種類以上の小麦粉を置いているのですが、どの粉も個性があって、その代わりになるものはないから、結局どんどん増えてしまうんですよ。今一番気に入っているのが、チクゴイズミの全粒粉。すごくおいしいんですよ」

と、瞳を輝かせる。もちろん、小麦粉の味をより活かすための“水”、“塩”など、他の素材にも情熱を注ぐ。

「10年くらい前からは、まず小麦粉の味をみて、それを活かせるようなパン作りが考えられるようになりました。水にも違いがあって、例えば国産小麦に富士山の天然水を使うと、粉の風味や甘みがより出るんですよね」

そして、栄徳さんの熱い想いは、まっすぐ生産地へと直結している。

「小麦粉が育つ環境や生産者の想いを知ると、下手なものは作れないなと痛感します。だから、スタッフにも小麦や牛乳など、店で扱う商品が生産されている場所を見せたいんですよ」

ついこの間も、ジャージー牛乳の牧場を見に阿蘇へ行ってきたそうだ。ひと口に有機、無農薬と言っても、素性が不確かなものも少なくない。だからこそ、自分たちの目と足で確かめたい、ひとつひとつに、メッセージが込められたものを作っていきたいと、熱く話してくれた。

こだわりの素材やアレルギー食材が明記された商品タグ。ひと目でわかるような配慮が嬉しい



「『ラ・テール』に入って約4年になりました。ベースも整ったので、これからは色々な意味でワンランク上げたいと思っています。スタッフも増えてきたので、今まで出来なかった細かいことにも手をかけていきたいですね。例えば、素材の枝豆ひとつ取っても、毎日茹でて、皮を剥いたものを使うとか。冷凍したり、簡単な方法をとったりしがちな部分に目を向けて、おいしさを深めていきたいですね」

厨房スペースも拡張し、準備は万全。これからの「ブーランジェリー ラ・テール」から、目が離せなくなりそうだ。



「そうだ。粉の部屋を見てみますか?」

取材を終えた後、栄徳さんが自慢の粉が並ぶ貯蔵室と、新しく増築された厨房を見せてくれた。
積み上げられた粉の袋は、ほとんどが違うメーカーのもの。「ラ・テール専用」から、まだ品名のシールがつかないサンプル的なものまでが高く積み上げられ、どのパンにどの粉を使うのか、わからなくなってしまいそうだ。

粉置き場には、フランス産小麦や「ラ・テール」専用ブレンドの北海道産小麦など、製粉会社も産地も異なる様々な粉がずらりと並ぶ



「粉に埋もれて死にたいですね」

そう笑う栄徳さんの言葉は、まんざら冗談でもなさそうだった。





パン職人の遺伝子を受け継ぎ、その原点となる小麦に魅せられた栄徳さん。
個性を越え、八方美人を追求する旅は、これからも続いていきそうだ。






ブーランジェリー ラ・テール
住所 東京都世田谷区三宿1-4-24
Tel&Fax03-3422-1935
営業時間7:00〜19:00
定休日無休
アクセス東急田園都市線池尻大橋駅より徒歩15分