小田急多摩線の黒川駅を降り、5分ほど歩く。あいにくの灰色の空に、アスファルトが長く延びる鶴川街道。やや殺風景なその景色の中で、ぽとりと赤いインクを落としたように、苺色のパティスリーが現れる。
赤い外壁と、真っ白のドア。それはまるで「ショートケーキ」のようだ。真っ赤な苺の乗ったショートケーキは、そこにあるだけで平凡な日常に彩りを添える。

赤い看板が目印の、黒川街道沿いに佇む小さなパティスリー


「パティスリー マナ」のショートケーキを初めて食べた時、まずその心地よさに驚いた。するすると、身体の中を流れるような感覚。しかし、気持ちよく忘れ去られるような味ではない。生クリームと同時に舌の上で蕩けるジェノワーズ。まろやかな卵と乳のコクが、苺の持つ明るい甘さと酸味をいっそう際立てる。

苺のショートケーキ \300

「ショートケーキは、僕が一番好きなケーキ。シンプルなだけに、すごく気を使うケーキでもあります。まず、普通のジェノワーズをおいしく作るというのは、案外難しいんです。でも、ジェノワーズだけおいしすぎてもいけない。大切にしているのは全体のバランス。2層ではなく、1層でサンドして、厚さをもたせて苺をまるごと食べさせたい。夏場に苺が硬くなってしまう場合は、粉糖をまぶして軽くマリネしたりと、工夫しています」

シェフの松原将人さんが目指すものは、「日本人のからだと口に合うケーキ」。それも、「素材の味がしっかり引き出されたもの」。その為に、どこまで火を入れ、どのくらい空気を含ませるか。糖分をどこまで控え、酒をどう活かすかを考える。


赤を基調とした店内は、グレーの壁面が落ち着いた印象を受ける。アンティークのステンドグラスが、インテリアのアクセントに


日本菓子専門学校を卒業し、パティシエを志していた松原さん。多くの若い職人がそうであるように、鮮烈で濃厚な味わいのフランス菓子や、個性的なケーキに憧れていた時代もあった。

「色々食べ歩いていた時、ある有名なフランス菓子店のケーキを買って帰ったら、家族がおいしいって言わなかったんです。改めて食べてみると、“作りたいケーキ”ではあっても、“食べたいケーキ”ではないかもしれないと思ったんです」


ぽってりと柔らかなフォルムのケーキ達は、仕上げの美しさに作り手の愛情が伝わる


そんな中で出会ったのが、たまプラーザの「ル・クレアンス」。当時のシェフであった吉田邦夫シェフの作るケーキは、まさに“食べたいケーキ”であった。

「2年程働いた頃、シェフが突然、茨城に150坪の土地を買ってそこで店を出したいと。土地の半分を店にして、半分を畑にし、そこでフルーツやハーブを自分の手で育てて、本当に手作りのコンフィチュールやケーキを作りたいというわけです。そして出来たのが、鹿島にあるパティスリー『トゥールビヨン』なんです。シェフと先輩と僕の、3人で店を作り上げていきました。たまの休みの日には、必ず農家に話を聞きにいったり、アーモンドプードルも全て店の石臼ローラーで挽いて作ったり・・・。それは、実際とても手間がかかることでした。でもシェフの目指していたのは、売ることよりも作ることだったんです」

ビジネスよりも、ものづくりを大切にしよう、とシェフの原点回帰からスタートした「トゥールビヨン」は、結果的に地元の繁盛店となった。そこで8年間学び、35歳で独立した今も、胸に守るのは吉田シェフの言葉。
----『忠実に、良いものを』
そのために、松原さんが一番にこだわるのは、素材選びだ。


「マナロール」 ¥850 


一番の人気商品「マナロール」は、1日2回に分けて焼きあげ、出来たてを提供する。しっとりふんわりの生地に、甘さ控えめの生クリームがたっぷり。リピーターも多く、休日は早いもの勝ちだ。やはり感じるのは素材使いとバランスの良さ。その秘密を聞くと・・・

「生地作りからずいぶん悩みました。転化糖を入れたり、蜂蜜を入れたり、試行錯誤をしている時、友人が九州にある『リモージュ タケヤ』という店のロールケーキを持ってきてくれて。それが卵と粉と砂糖と・・・余計なものは一切入らないシンプルな材料で作られていたんです。味わいは、まるでカステラのよう。そうか、じゃあ原点に返って、基本の材料で作ってみようと。そうしたら、本当においしいなあ、と自分でも思えるようなものができたんです。日本人の心に染みる、カステラの味です。それからも、何度も配合を変えながら、今の味にたどり着きました」

マナロール始め、全ての菓子を焼くのは久電舎のセラミックマイクロオーブン。密閉性が高いため、火通りが良い。ボリュームがあり、しっとりふんわりとした生地に焼きあがるのが特徴


「そして、クリーム。これには、砂糖を一切使っていないんです。生地は、普通のジェノワーズよりも砂糖を減らしていて、本当はもっと減らしたかったのですが、その分クリームの甘さを控えようと。砂糖の代わりに、シタデールのメープルシロップを使うことにしました。味が濃く、焼いても風味が残るのでマドレーヌにも使っています。それと、クリームは食感を軽くするために普通のシャンティよりも乳脂肪の低いものを使っています」

シタデールのメープルシロップ


そこで、まだほんのり熱の残る、焼き立てのマドレーヌを戴いた。齧った後にメープルの香りがふわっと広がり、甘さの余韻が実に優しい。メープルの味をあえて前面に出さず、あくまで砂糖のかわり・・・という使い方だ。しっとりふんわりと蜜を含んだ生地は黄味が強く、卵のコクが心地よい。


「マドレーヌも、奥が深いんです。いまは、ローマッセを入れたタイプも作りたくて、配合違いで2種類出したいくらい。軽いのにコクがあるものを作りたくて、これも随分考えました。ポイントは、空気の含ませ方と、バターの量、そしてやっぱりメープルですね。メープルはクセがあるので、そのクセを上手に使うようにしています。お酒も、あくまで他の素材のクセをなくすために使っています」

素材選びのポイントは、やはり日本人の口に合うもの。チョコレートは、リンツや、カルマなどスイス系を使用。さらに苦みを出したい時は、ヴァローナのパートドカカオを合わせて、カカオ分のパーセンテージをあげる。チョコレートで合わせるのではなく、あくまでベースのスイス系チョコレートの味を残し、カカオの苦みだけを足していくという考えだ。

「御養卵シュー」¥120 
栃木県那須高原産の“御養卵”は、黄味の濃さとコクが特徴。海藻やヨモギ・漢方など厳選された飼料で育った鶏からとれる



試作したものは必ず人に食べてもらうというのが、松原さんの信条。家族、スタッフの意見は、どんな小さなことでも受け止め、なるべく取り入れる。完成品でも、レシピはこまめに変えるという。ゼラチン1%、焼き時間の1分で食べた感じは全く変わるという。

「たとえば、マナチーズに使用しているKIRIのクリームチーズ。同ロットでも底と上では水分量が変わってくるので、出来上がりに影響が出ます。チーズは、長時間火を入れていると硬くなる。形はキレイでも、水分量が抜けてしまうので食感が悪くなってしまうんです。それをできるだけ短く、20分以下で仕上げているのですが、これも1分縮めたり延ばしたり、その日によって加減が必要です」

「マナチーズ」(5個¥600〜)


2007年5月にオープンして、もうすぐ1年になる。半年間かけて、やっと見つけた物件も、オープンギリギリまで使用電力の交渉の折り合いがつかず、随分苦労したという。開店してからは、地域紙の掲載などの反響もあって、人が人を呼び、3月のホワイトデーでは、200人近くの客数を迎えた。焼き菓子よりも、生ケーキが売れたというのも、郊外の住宅地らしい。神奈川に住む松原さんのご両親も手伝いに来て、家族総出でイベントを乗り越えた。

「夫婦ケンカ?今でもしょっちゅうです(笑)」

店頭を任されている奥様とは連携プレーで細かく商品を補充。常に出来たての商品がケースに並ぶように心がけている。たまプラーザの「ル・クレアンス」時代から、傍らで接客を行っていた奥様に、全面的な信頼を寄せる。大きなボウルを抱え、力強く生地をかき混ぜながら、松原さんは少し声を潜めて言った。

「・・・彼女の存在無しでは、この店はありえないです」


可愛らしくラッピングされた焼き菓子が窓辺を飾り、プライスカードには丁寧な説明が書かれている。松原さんの作ったお菓子が、彼女の手によって「商品」になる。

奥様は、雑貨屋で働いていたこともあるのだそう。動物のペンでアレンジするなど楽しいラッピングも人気


インタビューしたその日、ご両親が見えていた。帰り際、厨房に顔を見せたお父様が、忙しそうに働く松原さんの背中を見ながら、ぽつりと言った。

「僕は定年までサラリーマンで過ごしてきたから、この世界のことは分からないけど・・・こんなに夢中で一生懸命になれるってね、すごいと思いますよ。・・・甘いもの?いや、苦手です(笑)」


「店名はラテン語で、“神から授かった食べ物”という意味なんです。イニシャルの“M”を使った店名がいいと思って辞書で調べていたら、偶然見つけた言葉なのですが、なんだか気に入ってしまって」

「manna」――この店にぴったりの名前だ。いつかルーヴル美術館で見た、ニコラ・プッサンの「マナの収集」の絵画。天から降る神の食べ物〈マナ〉に、荒野を進む人々が救われる話だ。

この小さなパティスリーのオーブンで、今日も卵色のスポンジが膨らんでいる。新鮮なクリームがたっぷりとサンドされ、甘いイチゴがチョンと乗る。ピカピカに磨かれたショウケースに並べられ、手から手へ。記念日を、あるいは日常を、明るく灯す存在になる。ただ、それを思うだけで、幸せな気持ちになれる。それが、「パティスリー マナ」のショートケーキだ。(2008.4)







パティスリー マナ
住所 神奈川県川崎市麻生区黒川37-1-1F
TEL044-988-2531
営業時間9:30〜20:00
定休日水曜
アクセス 小田急多摩線黒川駅より徒歩5分
※駐車場あり

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