下町の活気が溢れる、東武東上線 大山。威勢のいい呼び込みの声と買物客で賑わう商店街を1本入った静かな通りに、今年5月、1軒のパティスリーがオープンした。店名は「マテリエル」、シェフの林正明さんは、クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリーを始めとする輝かしい授賞歴の持ち主だ。


シンプルで落ち着きのある外観。外のテーブル席では
コーヒーや紅茶と一緒にケーキを楽しむこともできる



取材に伺ったのは、店がオープンする5分ほど前。少し早いかな、と思いながらそっと扉を開けると、出迎えてくれたのは、ショーケースの前で両腕を組む林さんの背中だった。
「あ、おはようございます。すみません、あと5分待っていただけますか?あと1品並べば、すべて揃いますので」
すでにショーケースのなかは完璧に見えるが・・・。林さんは、再びショーケースの前に立つと、いくつか指示をして再び厨房へと戻っていった。


ムース系、タルト、ヴェリーヌなどのプティガトーに、アントルメ、コフレ(ロールケーキ)など、アイテムは30種ほど。精緻な作りこみが感じられるケーキは、食感に楽しさがあるものが多い


「お待たせしました」
そして、再び林さんが現れる。
「さっきのですか?ショーケース内の色のバランスを見ていたんですよ。入ってきたお客様の目に、ショーケースがどう映るかって、とても大切なことでしょう? だから、オープン時にはすべてのケーキが揃うようにしているんです」
当然といえば当然だが、ここまで全体のバランスを気にかけるパティシエは珍しい。きっと、数々のコンクール経験と関係があるに違いない。さっそく、話を伺ってみることにした。


入った瞬間にケーキが出迎えてくれるように
ショーケースが配置されている



「といっても、最初からケーキが好きで、パティシエを目指したわけじゃないんです。子供の頃は、ケーキを食べるといっても年に一度位でしたし」
ちょっと意外だが、高校生になり、進路を意識するようになっても、林さんの頭に“パティシエ”という文字は存在しなかった。
「卒業してからは、特にやりたいことも見つからないまま、色々なアルバイトをしていました」
当時は、バブル景気に沸いていた日本。仕事はいくらでもあり、アルバイトの給料だけでも結構な額になる。気楽で自由なフリーターはちょっとした流行でもあった。
そんな生活を送るなか、あるアルバイトの募集が林さんの目にとまる。
「たまたま、洋菓子屋さんでのアルバイトを見つけたんです。クリスマスだけの短期間だし、ちょっと面白そうだと思って」
気軽な気持ではじめたアルバイト。これが運命をガラリと変えるきっかけになるとは、林さんも想像だにしていなかった。
「ケーキを作る様子を見て、とにかくびっくりしました。それまでは、お菓子のことなんてまったく知らなかったので、何もかもが不思議で。なかでも一番驚いたのはシュー生地。ドロドロとした生地がオーブンの中でプクッと膨らんで、おいしいシューになる。ホントに衝撃的でした」
今の林さんからは想像できないが、当時は、デコレーションした生クリームが、液体を泡立てたものだということさえ驚きだったそうだ。お菓子の三大素材ともいえる、“卵、小麦粉、砂糖”。その、ある意味形のないものが、合わさり、姿を変え、そして、ジェノワーズやタルト生地、シュー生地ができあがる。「これ、面白い!」。気が付けば、林さんはすっかりお菓子作りのとりこになっていた。


店内に飾られた手書きのレシピ。
菓子作りへの想いが感じられる



当初は2週間の予定だったアルバイトを、3ヶ月に延ばしてもらった林さん。誰もが予想しなかった成り行きだが、林さんの心の中は、すでに「パティシエになる」と決まっていた。
「4月を待って、東京製菓専門学校に入りました。今まで知らなかったことばかりで、とても楽しかったですね」
学校で知識を吸収したあとは、都内の某洋菓子店に就職。決め手となったのは、生ケーキを始め、焼菓子、喫茶、チョコレート、そしてアイスクリームまでと、アイテム数が多かったこと。ここでならたくさんの種類を学べる、という理由が大きかった。
「種類も量もたくさん作ったので、めきめき腕が上がるのがわかりました」


セック、ドゥミセックに大きなパウンドなど焼菓子も充実


そして、4年半が過ぎた頃、新たな出会いが待ち受けていた。そう、コンクールの世界だ。
「『ジャパンケーキショー』の会場で、初めてピエスモンテを見たんです。お菓子の材料でこんなものができるのか、というのに驚いて。自分もやってみたい、と思いました」
“卵、小麦粉、砂糖”から、こんなものまで作り出せるとは! そんな感動が林さんの心を強く揺さぶる。だが、挑戦したいと思ったものの、当時の職場はコンクールと無縁の世界。教えてくれる人はもちろん、協力してくれる環境にもなかった。


店舗と厨房をつなぐ窓。一生懸命
作業するパティシエの姿が見える



しかし、こうと決めたら実行するのが林さん。
「『ガトー』という雑誌に作り方が載っていて。そういうのを見ながら、家で練習をしたんです」
もちろん、本を見て作るくらいは誰にでもできることかもしれない。すごいのは、その後、初めてエントリーした「ジャパンケーキショー」のコンクールで、銅賞をとってしまったことだ。
「このときは、本当にすごく嬉しかったですね」
そして、これが林さんの“コンクール時代”の幕開けとなる。

「欲が出るんですよね。もっと違う部門で違う賞をとりたい、と思うようになって」
そして、翌年。林さんは同じくジャパンケーキショーの別部門、“小型工芸菓子部門”にエントリー。今度はランクをひとつ上げ、見事、銀賞に輝いた。
「次は、飴やショコラといった世界のコンクールでも通用することをやってみたい、と思うようになりました」
自分の可能性を試してみたいと、国内から世界へと目を向けはじめた林さん。だが・・・。
「ずっと自宅で練習してきましたが、飴となるとやはり難しい。家ではもう限界かな、と思うようになりました」
マジパンなどとは違い、飴やショコラのピエスモンテを作るためには、それ相当の場所や設備が必要になる。もっと大きなコンクールで自分の力を試すため、林さんは職場を移ることになった。


ツヤと発色が美しい小さな飴細工の
バラの花が、通りを見つめる



新しい職場は、オープンしたばかりの「お台場 メリディアンホテル」。ホテルなら環境が整っているし、練習をさせてもらえると考えてのことだった。
「夜中も場所を使わせてもらえるので、営業外の時間を使って飴細工の練習をしました」
飴のピエスモンテとは、簡単に言えば、砂糖を加熱し、色粉などでカラーリングした飴でパーツを作り、ひとつの作品として組み立てていくもの。だが、これがなかなか難しい。
「飴のツヤや発色などは、砂糖の特性をよく勉強していないとうまく出せないものなんです」
コンクール授賞歴のあるところならともかく、「お台場 メリディアンホテル」は出来たばかり。当然ながら指導してくれる先輩はいない。自力で勉強と試行錯誤を繰り返し、林さんは着実に飴の技術を積み上げていった。

そして、1年後。同じく、コンクールができる環境だからと、結婚式場「氷川会館」のパティスリー「フロワベール」へ移る。
「この頃から、書類選考型のコンクールにエントリーするようになりました」
これまでのコンクールは、作品を会場に持ち込んで審査してもらうスタイルだったが、大きいコンクールになるほど、まずは書類選考で振り分けられる。そのせいだろうか、今までの快進撃がウソのようにストップしてしまったのだ。

「結構、落ちましたね。今までのようにはいかなくて、かなり悩みました」
落ちたのは1回や2回ではなかったが、林さんはひるまない。
「何が足りないのか、どうしてダメだったのかを考えながら、とにかく挑戦し続けました。3年くらい経った頃でしょうか、年に2,3回の割合で予選を通るようになったんですよ」 一度コツをつかめばこっちのもの。ルクサンド、マンダリン・ナポレオン、カリフォルニア・レーズン協会・・・と、様々なコンクールで実力を発揮していく。
「でも、結果はことごとく2位なんです。順位ではひとつ違うだけでも、優勝と2位との間には、実際ものすごく差があるんですよね」
優勝するために、自分に足りないものはなんだろう?そう自問自答する日々。スランプになりかけたそのとき、「フロワベール」のスーシェフからシェフに昇進することが決まった。
「シェフとしての仕事で忙しくなってしまい、コンクールから離れることに」
そして、結果的には、これが良かったと思えるようになる。


壁に飾られた数々の賞状


シェフとして1年が経ち、余裕ができると、やはり思うのはコンクールのこと。そこで、アメリカで2年に一度開催される世界大会WPTC(World Pastry Team Championship)の日本代表を決めるコンクールに挑戦することにした。
「しばらくコンクールから離れたことが良かったのか、初めて1位をとったんです。そして、これをきっかけにすべてがガラッと変わりました」
直後から、林さんを取り巻く環境は180度変わった。同業者や業者の反応はもちろん、バックアップ体勢もグッと広がった。チームメンバーもでき、今まではほとんどいなかったパティシエの知り合いも増えていった。
「情報もたくさん入ってくるし、とにかく、今までとは別の世界という感じ。2位と1位とではここまで違うのかと驚きました」


アンティークの量りは、パシティエ仲間たちが
オープンのお祝いにとプレゼントしてくれたもの



日本代表のチームメンバーは、当時「スリジェ」のシェフだった和泉光一さんと、「ザ・リッツ・カールトン東京」でエグゼクティブ ペストリーシェフを務める武藤修司さん。
「師匠的存在の武藤さんと、年齢も近く兄貴分の和泉さん。2人とも、本当に知識が豊富で色々なことを教えていただきました。それから、チームで戦うというスタイルも初めてでしたが、3人が力を合せてはじめてできることもあって、本当に面白かったです」
基本的に個々の作業は異なるが、3人のチームワークは重要。歴代の出場者や事務局のメンバーなど、新たなバックアップ体勢のもと、林さんは順調に練習を重ねていった。


大会での林さん。繊細な飴細工は、
扱いにも細心の注意が必要とされる



そして、最高の状態で望んだWPTC。1位の実力があると言われていたが、結果は、残念ながら2位となった。
「実は、最後に飴が壊れてしまったんです・・・」
飴の担当は、林さん。だが、誰も林さんを責めず、「よくやった!」と称えてくれたそうだ。 「本当はこのコンクールを最後にしよう、と考えていました。でも、この失敗でそれができなくなってしまって・・・」
悔やんでも悔やみ切れない思いと、みんなに迷惑をかけてしまったという気持。それが、林さんを新たな挑戦へと向かわせる。そして、転んでもただでは起きないのが、林さんだ。
「そうなんです。せっかくだから、新しいものやろうをと思って。今度はチョコレートに挑戦することにしたんです」
いくら器用でコンクール慣れしているといっても、新たなジャンルで予選を勝ち抜くのは難しい。だが、そんな心配をよそに林さんは国内予選で優勝。見事、クープ・デュ・モンド行きの切符を手に入れた。


繊細さと力強さを併せ持つ迫力の
ピエス。店内に飾られている



「今度はチーム内で最年長でした。メンバーは若林繁さん(ル・ショコラ・ド・アッシュ)と、山本健さん(名古屋マリオットアソシアホテル)。個性が強い2人なので、それをいかせばいい武器になると思いました。2人の先輩に追いつこうと、がむしゃらだった前回に比べ、すごく楽しんで大会にのぞめましたね」
結果は4位。WPTCの時よりも、順位を下げた。
「結果は4位でしたが、すごく満足感があったんです。チームのモチベーションも高く、やり切った感じで、まったく悔いはありませんでした」
全力を出し尽くし、完全燃焼。清々しい気持で、林さんのコンクール時代は幕を閉じた。


コンクール時代を語るメダルたち。中央が「クープ・
デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」のもの



そして、いよいよ林さんの「マテリエル」時代が始まる。
「お店はずっとやりたいと思っていたので、コンクールが終るとすぐに開業準備に入りました」
洒落た都会ではなく、下町の地元密着型にしたかったという林さん。神様からのクリスマスプレゼントだろうか。昨年のクリスマスイブの日に、偶然、物件が見つかったそうだ。


「この街で挑戦してみたい」と林さん。取材時にも常連のお客様が次々に訪れ、すでに地元では評判になっている様子がうかがえる


ところで、華やかなイメージの強いコンクールから離れて、物足りなさを感じたりはしなかったのだろうか。
「そんなことはありませんよ。自分の中では、コンクールに望むのも、新作を作り出すのも気持は同じです。評価するのが、審査員から、お客様に変わっただけの違いだと思っています。それに、お客様がおいしかったと言って何度も足を運んでくれるのが、本当に嬉しいんです」
コンクールは、あくまでも日々の菓子作りの延長上と林さん。そして、逆に、コンクールでの経験が「マテリエル」には欠かせないものになっているという。


自分らしいロールケーキを作りたかったという「コフレ」。存在感のある生地とたっぷりのクリーム、そして中央に忍ばせたジュレが、パティシエならではの技を感じさせる


「コンクールも今やっていることも、すべてがつながっているんです。例えば、コンクールでは、完成形を頭の中でイメージして、ゼロからアイデアを積み上げて完成まで持っていきますが、それは店作りでもケーキでも同じこと」
その言葉通り、店作りでは、デザインから図面まですべて自分で書き上げたという林さん。大きな意味で見れば、「マテリエル」自体がひとつ作品となっているのだ。店舗、ケーキ、人、そこから生まれる雰囲気・・・、そのすべてがパーツとなっている。


漆喰壁につけられた模様は林さんによるもの


実は、棚のなかにも、“木”“鉄”“石”
という3つの素材が組合せられている



「それから、コンクールでは、味だけでなく“見せ方”も重要になりますが、それはケーキも店舗も同じこと。色や形のきれいなものをどこに配置するかで、見る人の印象はまったく変わってきます。それに、ケーキのパーツひとつひとつが」
ふと、朝、林さんが真剣な表情でショーケースを見つめていたことを思い出す。どこよりもケーキが輝いて見えたのには、そんな技も一役買っていそうだ。そんな、数々のコンクールを勝ち抜いてきた“コツ”が「マテリエル」には、散りばめられている。


夏向けに登場したアイスクリームを皮切りに、今後はショコラやヴィエノワズリーなどもと、林さん。頭にはアイデアがぎっしり詰まっている


「『マテリエル』は広い意味での素材から。自分の原点となっている“卵、小麦粉、砂糖”が生みだす感動を忘れないように、という気持もあるんです」


素材であり原点。それは3つの点
として店名にデザインされている



“卵、小麦粉、砂糖”。
それは、3つの素材であり、パティシエ林正明の原点。
「マテリエル」には、そこから生みだされる無限の可能性が秘められている。
(2010.07) 






マテリエル
住所 東京都板橋区大山町21-6 白樹館壱番館1F
TEL03-5917-3206
営業時間10:00〜19:00
定休日水曜
アクセス 東武東上線大山駅より徒歩7分   




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