横浜市青葉区は若い世代の多い、活気あふれるエリア。新しいものを積極的に受け入れる風情を持ち、お洒落でおいしいお店が次々と登場しては町を賑わしている。そんな界隈に、昨年2月、「ナッシュカッツェ」はオープンした。店名の上に小さく“CAFE-KONDITOREI”と添えられていることからもわかるように、ここは、ウィーン菓子を扱う店。ウィーンと聞くと、日本では“伝統的”とか“王室御用達”とか、とかくお堅いイメージがついてまわるけれど、今井伸哉シェフが目指すのは、ちょっと違う。
「僕なりの新しいウィーン菓子を、できるだけたくさんの人に、気軽に食べていただきたいですね」



木の温もりが優しいカフェスペースで、今井さんは気さくな笑顔を向ける。
「暑いから冷たいものがいいですよね?ソーダ・ヒンベーレはいかがですか?それからソ−ダ・ホールンダーもお薦めですよ。せっかくだから両方飲んでみてください」
席に着くと、すかさず今井さん自らがドリンクを用意してくれた。シュワッと弾ける炭酸が、火照った体に気持ちよく染み込んでいく。ソーダ・ヒンベーレからはラズベリーの酸味が弾け、ソーダ・ホールンダーからはマスカットのような香りが広がる。外の暑さを忘れさせてくれるような、爽やかで清々しい午後のひとときとなった。

漆喰の壁や木枠の窓、手書きの黒板・・・優しさいっぱいの店内

自家製ラズベリーシロップを、キリッと冷えたソーダで割ったソーダ・ヒンベーレ


「お菓子の世界に入ったきっかけですか?そうですね・・・高3で進路を決めるときですね。大学に行くよりも何か違うことやりたいと思って考えて、甘いものが好きだなあと。高校は野球部で練習に明け暮れていましたが、いつもお菓子を隠していましたから」
向かった先は、日本菓子専門学校。実は、何の予備知識もなかった今井さんにとって、菓子は女性の世界。だから、“なんとなく”この世界に入ったという気持ちがどこかにあったようだ。ところが、いざ入ってみると、6割以上は男性陣が占めている。“ああ、ここは男社会なんだ”と実感したという。ちなみに、菓子作りの経験は、親と一緒にクッキーを作ったり、祖父と一緒にドーナツを作ったりといった程度。親はともかく、祖父といいうのは珍しいような・・・?
「僕が産まれる前の話ですが、祖父が和菓子屋をやっていたことがあるんです。あ、でも、だからといってお菓子に目覚めたとうわけではありませんよ」


イチゴのムースとイチゴを挟んだオリジナルのイチゴのカルディーナルは、ショートケーキ以上に人気の品




というわけで、実際に目覚めたのは専門学校に入ってから。2年間で菓子の基礎をひととおり習得し、卒業旅行ではヨーロッパ各地のお菓子を見てまわった。そして、卒業後はアンリシャルパンティエに就職。しかし、1年経つと、ここから離れることに。 「大きな所で大量に仕込むやり方を経験したので、今度は個人店でしっかり働いてみたいなと。そしてもちろん、働くからにはおいしい所がいい。随分、食べて回りましたね」
食べ歩きを20軒ほどこなした頃、ついに、理想の店が現れた。それが、八王子の名店、ア・ポワンだった。
「シュークリームやフレジエ(ショートケーキ)のおいしさに感動して、“ここしかいない!”って。早速電話をして挨拶に伺ったんですが、スーツの上に革ジャンを羽織ったまま店内に入ったら、“君、革ジャンは脱ぐものだよ”って岡田シェフにいきなり諭されました。今でも忘れられません(笑)」
もちろん、忘れられないのは礼儀作法だけではない。厨房内ではシェフの動きを間近に見ることができる。シンプルなお菓子でも、泡立て方や混ぜ方、焼き方や飾り方など、それぞれの作業にこだわることで、驚くほどおいしく個性的なものになるということを実感した。


シュークリーム。大ぶりでコロンとした姿が見るからにおいしそう!

生クリームプリン。昔ながらのなつかし系のプリンに生クリームの組合せが嬉しい


「本当にすごいですよね。ひとつのケーキや焼き菓子に、あんなにも魂を注げるなんて。とことん突き詰めて突き詰めて、100%の完全な状態になって初めてショーケースに並べているんです。決して種類は多くないけれど、こだわり抜いたお菓子だからこそ、その想いをお客様にも伝えることができる。そんな精神面での影響が大きかったですね」
ア・ポワンで過ごした約2年半の間に、焼き物全般に携わった今井さん。着々と経験を重ねていたが、次第にある想いが強くなっていった。
「ア・ポワンでは貴重な経験をさせていただきましたが、自分が本当にやりたかったのは、ウィーン菓子なのでは・・・?という気持ちがどんどん膨らんでいきました。というのも、卒業旅行のときにヨーロッパを6カ国まわったのですが、不思議とウィーンがしっくりきて。やっぱり、もう一度現地に行ってみようと決心しました」
この時、今井さんは22歳。そろそろ自分の方向を決めなくてはと改めて感じたのだという。自分で菓子の世界を選んだとはいえ、それまでは“なんとなく”フランス菓子に携わっていたのかもしれない。本当の意味でのスタートはここからとなったようだ。


本場の味を伝えるザッハトルテ。生クリームをたっぷり添えて、というのがウィーンスタイル

ドーム状のチョコレートムースにヘーゼルナッツクリームとピスタチオのムースを忍ばせた、モーツァルトクーゲル


ア・ポワンを辞めるとすぐに、今井さんは鞄ひとつでウィーンへ。3ヶ月の滞在中にいろいろな店をめぐり、ウィーン菓子の魅力を再確認。一旦帰国して知人をたどり、ウィーンの「オーバーラー」を紹介してもらえることになった。その後も、ウィーンの「フェルヒャー」、ザルツブルグの「フィンガーロス」、フライシュタットの「ルービンガー」で、続けてドイツにも足を伸ばしてウルムの「ツァイザー」でも修業。更に、その間にオーストリア国家公認マイスターの資格を取得と、充実した時期を過ごした。約7年もの長い時間をオーストリアとドイツで過ごした今井さんだが、その修業生活は少し変わっていた。
「実は、暫くむこうで生活しては一旦帰国する、という生活だったんです。7年の間に3往復ほどしていました」
続けて滞在できないという事情もあってのことだというが、何度も行き来するのは精神的にも体力的にもきつそうな気が・・・?
「確かに大変なのかもしれませんが、結果的には正解でした。何故って、帰国した時に、それまでの半年間を振り返ることができたんですよ。だから、ひと通り消化して、じっくり考えられたし、次に行った時に教えてもらうことがバンバン頭に入ってくるのが良かったですね。向こうに行き始めてからは、ぐっと歯車が噛み合ったような気がして、すごくスムーズに生活できました」

ヒンベーレ・モーン。ウィーンのフェルヒャーの名物菓子は、赤い実のジュレとムースとけしの実の生地の組合せ


帰国直前になると、店のシェフや友人たちと、“またすぐ来ますから!”“待っているよ”と挨拶を交わし、日本で少し過ごしてから、再び渡欧。これほどまでに今井さんを駆り立てたウィーン菓子の魅力とは何だろう。日本でメジャーなフランス菓子とどこが違うのだろうか。
「まず、国が違います(笑)。後は、例えばフランス菓子よりも焼き色が浅めで、粉の味を楽しむものが多いこととか、ムースよりもクリームと生地の組合せが好まれることとか。いろいろありますが、一番の違いは、とにかく素朴なんですよ。え、これでいいのっていうくらい。でも、お菓子屋はすごく身近な存在だし、皆が気軽に楽しんでいる。生地やクリームなどのパーツの仕込みは繊細で、組み立て方は大胆。そんなところが何より自分の肌に合っていました」

メロンが染み出したクリームがおいしい、メロンのエクレア


そう言い残して、一瞬席を立った今井さん。戻ってきた時に手にしていたのは、アーモンドと砂糖で作られたマジパンだった。
「彼らはマジパン細工も大好き。人形とか豚とかクローバーとか、いろいろなものが店に並んでいます。それらは飾るためではなくて、普段のおやつに食べるためのもの。だから、作り方もすごくシンプル。手なんて、指は5本なくてもいいんです。ほら、例えばこんな風に」
小さくちぎったマジパンをくるくるっと手で丸めて、指先で親指を作ったら、瞬く間に出来上がり。確かに、5本の指が綺麗に揃っているものよりずっと気軽で気さくな印象だ。そんなカジュアルさは、帰国して数年後に開いたナッシュカッツェにも活かされている。

黒い生地が珍しいけしの実ケーキ。けしの実は、ウィーンではポピュラーな素材

シュワッと溶ける食感が人気のメレンゲ菓子、ウィーンの風。プレーン、ココナツ、イチゴ、カフェオレの4種類


「高級なウィーン菓子は他のお店にお願いして、僕は自分が見てきた庶民的なお菓子を紹介していきたいですね」
というように、ショーケースに並ぶケーキからは堅苦しさは全く感じられない。アイテム数も20種程度で、決して多いとは言えないだろう。
「お客様に楽しんでもらう工夫はいろいろしていますが、切羽詰まるまでやらないのが秘訣です(笑)」
無理をしないこと。その気持ちがベースにあってこそ、仕事に打ち込める。そう言いながらも、実は徹夜で仕込んだり休日出勤していたり、日々研究を重ねていたりする。話を聞いていると、7年という歳月をかけて自身の日常になったウィーン菓子を、楽しみながら自分の形にしているように映る。



再びショーケースに目を戻せば、そこには、今井さんが行く先々で学んできた思い出深いウィーン菓子の他、プリンやシュークリームなどのフランス菓子の姿も。
「シューやプリンは、日本では定番ですから。自分が作りたい菓子はいろいろありますが、やっぱりお客様に喜んでもらえることも大事。お客様の反応を見て変えていくものもあるんです」
例えば、ヘーゼルナッツの生地にヘーゼルナッツのバタークリームを重ねたエスターハーツィー。当初はフィンガーロスで習った通りに8段の生地とクリームを重ねていた。ところが、イートインしているお客を見ていると、フォークが途中で止まってしまっているようす。これは食べにくいに違いないと5段に減らしたところ、今度は食べ応えがないように思え、結局、少し幅広くして6段に仕上げることで落ち着いた。
「もちろん自分で何度も試食しているんですが、お客様に納得してもらえるお菓子を作るのは難しいですね。」
と苦笑い。そういいながらも、今井さんの表情は晴れやかだ。自分のスタイルは変えずにさりげなくマイナーチェンジしてみたり、またはお客の好みに合った別の菓子を薦めてみたりする。そうした細かいやりとりを楽しんでいるようすが見て取れる。自身が積極的に店頭に出ていることも多いのが、何よりの証拠。
「この間食べた○○、すごくおいしくなってたよ」
「実は○○してみたんですよ」
「今日は○○な感じのものはあるかしら?」
「それなら、○○はいかがですか?」
こんな光景も、珍しいものではない。




シェフとお客の会話の中から生まれる、ナッシュカッツェのお菓子たち。気さくでおいしいお菓子の答えは、何気ない日常の中にある。(2008.09)




ウィーン菓子 ナッシュカッツェ
住所 横浜市青葉区荏田西2-15-1-102
TEL045-211-4533
営業時間10:00〜20:00
定休日月曜(月曜祝日の場合は火曜) 月末に不定で連休あり
アクセス東急田園都市線江田駅より徒歩6分
URLhttp://www.naschkatze.jp/






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