危機に瀕している神奈川県の小麦を救いたい、そんな想いのもと、神奈川県主催で小麦のイベントが開催された。参加者は、生産者、パン職人、そして消費者。
種まきや麦踏みを実際に体験し、意見交換が行われたほか、パン職人による神奈川県産の小麦粉を使ったパンも並んだ。その中に、特に注目を集めたパンがあった。
「これ、同じ小麦粉なの?しっとりして、おいしい!」
横浜・弥生台「ラ・ピニヨン」の松井繁樹さんが作ったそのパンは、人によっては食べにくいと感じる独特の風味が、豊かな味わいに変わっていた。
聞けば、10年以上前から国産小麦のパン作りに取り組んできたという。
いったい、その裏にはどんな想いが・・・?
そこで、改めて取材にうかがうことにした。

小麦イベントで登場した松井さんのパン。まろやかさの秘訣は、小麦とライ麦で作る自家製のルヴァンリキッドだそう



弥生時代の遺跡が発掘されたという弥生台は、のどかな空気が流れる住宅地。「ラ・ピニヨン」は、なだらかな丘を10分ほど上がったところにある。
ガラス越しに見えるのは、こぼれんばかりに並べられたパン、パン、パン!子供はもちろん、大人でもついつい立ち寄りたくなる楽しさに溢れている。

「パンを始めたきっかけですか?実は、パンではなく、ピザなんですよ」
松井さんとパンとの出会いは、レストランでアルバイトをしていた10代の頃に遡る。メニューのひとつ、ピザを作るときに、生地をイーストで発酵させるというのが面白かったという。
当時、洋食屋になることも考えていた松井さんだが、料理とは一味違う、発酵の世界に魅せられ、お金を貯めて20歳で東京製菓学校へ入学。ゼロからパン作りを学んだ。

常に買い物客で賑わう「ラ・ピニヨン」。明るく開放的な雰囲気に溢れている


卒業後は横浜の「ポンパドウル」へ入社。ここで3年間、パン職人としての下地を築いた。
「『ポンパドウル』では、とにかく色々な種類のパンを作りました。楽しかったですよ。でも、そのうち、だんだんと食事パンに興味を持つようになったんです」
そして、「磯子プリンスホテル」へ。残念ながら今はなくなってしまったが、当時はバブル全盛期で、ホテルはその好景気の影響にあやかっていたという。
「すごかったですよ。とにかく、色々な職人が引き抜かれて集まっていました。時間的にも余裕があったので、とにかく試作、試作の日々。社内コンクールも多かったですね」
恵まれた環境に、豊富な食材。そこに、優秀な人材が集まるのだから、面白くないわけがない。
「勉強好きな人が多くて、本当に楽しかったですね。講習会に出たり、コンクールに参加したりと、休みの日も必ずどこかでパンの勉強をしていました」
刺激がやる気となり、それが成果として返ってくる。本当にパン作りを楽しいと思い始めたのは、この頃だそうだ。

とにかくパンの多さに圧倒!対面式だが、自分でパンを取ることもできる自由なスタイル


そして、6年後。独立の想いを胸に秘め、松井さんが入ったのは横浜・反町にある「フランセ」だった。
「自分の中で“フランス”が気になり出していたんですよね。『フランセ』はパリの『ジャン・ミエ』と提携していて、フランス人のシェフがいた。それで、入ることにしたんです」
今や「ブーランジェリー」が溢れ、本場フランス顔負けのパンも珍しくないが、それもここ10年くらいのこと。当時はまだ、フランスを真似た日本風のパンが主流の時代だった。
ホテルで築いた腕に、本場の技術をプラスして、さらに磨きをかける、そんな気持ちで「フランセ」に入った松井さん。ところが、その自信は見事に打ち砕かれることになる。

「ジャン・ミエ氏が来日した際、全否定されたんです。『これはクロワッサンじゃない!今すぐやめなさい!』って」
松井さんは、落ち込んだ。もちろん、フランス人シェフの指導のもとで作っていたし、商品として人気もあった。だが、それは“ジャン・ミエ氏のクロワッサン”ではなかったのだ。

「ミエ氏が言うクロワッサンの条件は、端っこはカリカリ(クロッカン)だけれど、喉越しはあくまでパン。そして、最後にバターが鼻に抜けること。店のクロワッサンは、『これは、クロワッサンではなく、フィユタージュ(パイ生地)だ!』と言われました」
日本では、サクサク感が身上のように言われがちなクロワッサン。たしかに、パンというよりも、お菓子に近いものも少なくない。
だが、フランスではそうとは限らない。サクサク、ハラハラのクロワッサンを夢見て本場フランスへ行き、違和感を感じた人もいるのではないだろうか?周りこそパリパリだが、内側の層はしっとりとして、ひきがある。ミエ氏の言うとおり、確かにパンだと思わせる食感のものが多い。
「ミエ氏のクロワッサンは、味的にもバターがかなり強かった。でも、ミエ氏のクロワッサンザマンドを食べたとき、ああ、こういう方向性なのかとそのとき納得がいきました」


カリッとしたフォンダンに、ジュワッと溢れるバターとアーモンドの香り。ミエ氏仕込みのクロワッサンザマンドは、今も人気商品


バターや粉、その力強い味わい。日本で言えば、「イル・プル・シュル・ラ・セーヌ」の味作りに近いんじゃないかな、と松井さんは言う。そこで、シェフと相談して、配合から作り方までを大幅に変更した。
「そして翌々年にミエ氏が来日した時、やっとクロワッサンを褒めてくれたんですよ。嬉しかったですね」
今まで知らなかったフランスの味に開眼した松井さんは、当初3年ほどの予定だった「フランセ」に5年間籍を置いた。今でも、ミエ氏仕込みのクロワッサンとクロワッサンザマンドは「ラ・ピニヨン」の看板商品になっている。

多少改良を加えた現在のクロワッサン。バターとの相性が良い、自家製のルヴァンリキッドを使用している


ところで、パン作りへの探究心とともに、ホテル時代から松井さんの中に芽生えていたあるものへの想いがある。それは、粉だった。

「今から十数年前のことなんですが、何気なくテレビを見ていたら、何かの特集でオーストラリアの小麦栽培の様子が紹介されていて。製粉した小麦を貯蔵するサイロに、溶け切れない農薬の白い塊がゴロゴロ転がっている様子が映っていたんです」 
まさか、自分の使っている小麦も・・・?!自分の子供が小さかったことも重なり、松井さんの中で急速に問題意識が高まっていったという。
「その当時は、ポストハーベストはまだそれほど問題になっていませんでした。だから、ショックでしたね。そこから、農薬や粉に関心を持ち始めました」
とはいえ、十数年前といえば、国産小麦でパンを作るという発想はごく限られた人にしかなかった時代。何とかしたいと思いつつも、なかなか解決方法は見つからなかった。

「とにかく、外皮を使う全粒粉だけは気をつけようと思い、『フランセ』では全粒粉をすべて国産に切り替えました」
当然ながら、散布された農薬は皮の部分に付着する。つまり外側に近いほど、農薬の害を受けやすい。
その点、麦粒の中心部だけを製粉する小麦粉は心配が少ない。だが、ポストハーベスト問題は別だ。製粉した粉に撒かれるため、避けようがない。
自分の店を持った暁には・・・、そんな想いを秘めつつ、2001年12月、生まれ育った横浜の地に松井さんは「ラ・ピニヨン」をオープンさせた。

「『ラ・ピニヨン』では、オープン当初から国産小麦のパンを並べています。農薬問題をきっかけに小麦にも非常に興味持つようになり、これまでも北海道や群馬など、様々な国産小麦粉を試しました。今使っているのは8種類。本当は、粉全部を国産小麦に切り替えたいという気持ちもあるんですが、ここ最近の小麦不足で、業者にも国産小麦を確保するのが難しいと言われてしまって」

国産小麦100%のパン。サツマイモや金時、チーズなどと合わせ、食べやすい味わいに


いくら安全だからといっても、すべてを国産小麦に変えるのはそう簡単なことではない。定番のパンの味や食感が変わってしまったら、お客様が離れてしまうことだってある。
だが、輸入食材への不安や、外国産小麦の高騰といった最近の流れを受け、今がそのチャンスかも知れないと感じているという。

なんとかして、もっと国産小麦を使いたい。そんな時期に知ったのが、神奈川県産小麦のイベント。毎日粉に触れるパン職人といっても、生産者から粉を直接買うわけではない。が、松井さんは、そこに活路を見出している。
「実は、石臼を買ったんです。神奈川産小麦の原麦(粒の状態の麦)を送ってもらって、それを自家製粉して使っています。挽き立てだと、すごく甘みがありますね。モチッとした食感もあって好評なんですよ」

神奈川県産小麦「農林61号」の麦粒。これを、製粉して使っている

かわいらしい小型の石臼機。フランス製で、1日約800〜1000gの粉を製粉することができる


「ラ・ピニヨン」には場所がら、家族連れが多く訪れる。土曜日ともなると、家族分のパンを買いに来る男性でいっぱいになるそうだ。
「男性の方でも、小麦はもちろん、フィリングに使う野菜の産地まで聞いて購入する方が多いです。とにかく、素材に対して関心がものすごく高くなっているのを実感しています。これからは量より質になってくる。ですから、もっと素材を突きつめてきたいですね」

食事パンから惣菜パン、デニッシュ類までとヴァリエーション豊か!鎌倉ハムのベーコンなど、県の素材を使用したパンも並ぶ


ふと店内に目をやると、幼稚園の帰りだろうか、小さな子供を連れて「ラ・ピニヨン」に立ち寄る若い母親の姿が見える。
「ぼく、いつものクロワッサンね!」
米を食べてきた日本人とはいえ、もはやパンなしの生活は考えられないだろう。
だからこそ、安全性など、おいしさ以外の部分も重要になってくる。


「100%神奈川産。そんな店にできたら良いですね」
松井さんは神奈川県出身。地元で生まれ、地元のためにパンを作る。
そんな、松井さんの静かなる挑戦は、これからも続いていく。



ラ・ピニヨン
住所 横浜市泉区弥生台28-1 104号
TEL045-811-8871
営業時間9:00〜18:00
定休日 日曜(祝祭日休まず営業)
アクセス相鉄いずみ野線弥生台駅より徒歩7分
URLhttp://la-pignon.com



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