町田市の閑静な住宅街に佇む楽庵。蕎麦屋を思わせるすっきりとした外観、白い暖簾に毛筆体で書かれた「パンやけました」の文字、石に植え付けられた野草や生け花・・・。 店のそこかしこに凛とした和の空気が流れている。そんな雰囲気の中、2坪という小さな空間にパンが並ぶ。
「パイナップルノア」「缶焼きコンプレ」「ふくさ」「やみつきラスク」
ひとつひとつじっくり眺めていくと、ここには普通の店に見られるものがないように思える。それ程、パンのネーミングも表情も個性的なのだ。更にシェフ直筆によるパンのコメントが書かれている。
「机に置きっぱなしにしていると誰かに食べられてしまう可能性がございます」「岩塩の序説、香ばしいゴマとミソの終演、小さなストーリーをお楽しみください」
ユニークなコメントに、自然とシェフへの期待が高まっていく。

  

楽庵の尾関純シェフは以前は電気工事会社で働く普通のサラリーマンだった。その尾関さんをパンの世界に導いた友人がいた。

「パン通の友人が、ある時、代々木上原のルヴァンというパン屋に連れて行ってくれたんです。この時、天然酵母パンというものを始めて食べました。衝撃でしたね。ああ、こんなパンがあるんだって。僕がそれまで食べていたパンといえば"ヤマザキ"のパン。"ヤマザキ"のパリジャンを食べながら、自分をパン通だと思っていましたから(笑)」

尾関さんの実家が小田急線沿線だということもあり、ルヴァンは行きつけのパン屋になった。更に友人と評判のパンを食べ歩くことも始めた。パンへの興味がますます膨らんでいった。

会社勤めを始めて6年、ついに尾関さんは一念発起。約1年後にはルヴァンで働くことになる。でも、実は辞めた理由は他にあった。

「少年時代からログビルダーに憧れていたんです。将来はカナダで働くことを夢見ていて、その第一段階として長野に行きました。ところが、現実は厳しくて。バブルも弾けた頃でしたしニーズがなかった。とりあえず他の仕事をしながらチャンスを待とうと考えていました」

とりあえず、と向かった先はレストランだった。学生時代、尾関さんは調理師学校で調理技術を学んだ経験がある。結果的にそのことが役に立った。そしてレストランでパンと関わるうちにパンへの興味が再燃する。パンを食べるだけでなく作る楽しみも見つけた尾関さんは、パン職人として再出発しようと長野を後にした。 ちょうどその頃、ルヴァンから声が掛かった。「うちでやってみないか?」「是非お願いします!」 二つ返事で引き受けた。

「ご存知のように、ルヴァンって特有の世界があるんです。ルヴァンで作るのは国産小麦と天然酵母で作るパン。できるだけパンの原点に近いものを目指している。例えば捏ね上げ温度をチェックするときも五感を働かせる。温度計は使わないんです。そして何より大切なのは安心で健康な生活を送ること。この店でいろいろなことを学びました」




しかし、尾関さんはそれだけでは終われなかった。ルヴァンのパンをきっかけに、他のパンを知りたくなった。イーストのパンを焼いてみたい、製パン理論を学びたい、その想いがつのり、「パンは外国からきたもの。だから一からしっかり理論をたたきこまないと」と自身の方向性を定めた。そして思い込んだら一直線、ほぼ独学で技術や知識を習得していった。

「まずは講習会や本から得たレシピどおりに作ってみる。そして次に粉を変えて作る。更に配合や製法も変えてみる。すると、皮の厚さや香ばしさ、粉の旨みなどが全然変わってくるんです。それなら、この粉でこの配合、製法で作る意味はなんなのだろう。次から次へと知りたいことが増えていく。研究していく過程が何より面白いですね」

こうしてできあがったのが試作メモだ。そこには試作したパンの写真と共に、配合、作り方、条件、疑問点などがびっしりと書き込まれている。既に独立開業した今でも、試作は続いている。その試作メモの多さに目を見張った。




「店を始めて4年。徐々に自分のやりたいことが見えてきました。でも、最初の5年は基礎を固める時期だと思っています。だからまだまだやるべきことはたくさんあります」

つきつめてつきつめてできあがる楽庵のパン。そこには時間をかけて練り上げた尾関さんの感性がプラスされていく。例えば先に挙げたミルクスティックもそうだ。

「ミルククリームにどんな生地が合うのかいろいろ考えたんです。そしてリュスティック生地にたどり着いたとき、これだ!って思いましたね。水分が多くてもっちりとしたあの独特の食感がぴったりくる。僕の大好きなパンなんです」

ミルクスティックといえばふつうはソフトな生地を合わせることが多い。ところが、尾関さんはハード系のリュスティック生地を選んだ。これが支持された。今では予約で埋まってしまうほど人気が高い。

  

他にも、店をオープンしてから独学で作り始めたというクロワソン。

「クロワッサンに使われる折込みパイ生地って一般的に3つ折りを何回とか4つ折りを何回とかいわれますよね。でもそれはどうしてなんだろうって、まずそこから考えました。そして納得のいく生地ができるまで何度も何度も試作を重ねました。のす時の生地の固さや厚みはどの状態がベストなのか、成型によって仕上がりがどう変わるのか、などやりだしたらきりがないんです。結局、完成まで4年もかかっちゃった(笑)」

パイ生地は15℃〜20℃の室温で作業することが望ましい。楽庵の厨房はわずか7.5坪。そこにオーブンが置いてあるためどうしても室温が高くなってしまう。それならばと、尾関さんは自らの手で2階の和室を改造してパイルームを作ってしまった。パイ専用に作られた冷たい部屋でよりよい生地作りに励む。


「お客様が涙を流して喜ぶようなパン」が理想だという尾関さん。

「あまりのおいしさに感動して泣き崩れるくらいのパンを作ってみたいんです。残念ながらまだそういうお客様に出会っていないんですよ(笑)。そのためには命がけで作っていかないと。想いを込めて作り続ければ必ずできる、そう信じています」

尾関さんは努力することを楽しんでいるように見える。「涙を流すパン」ができあがる日を、お客様だけではなく本人も心待ちにしているに違いない。




楽庵
住所 東京都町田市成瀬が丘3-1742-51
TEL/FAX042-732-0770
営業時間10:00〜19:00(パンが売り切れ次第終了)
定休日月・火
アクセスJR横浜線成瀬駅 徒歩10分