スイーツ好きでも、この名を聞いてピンと来るのは、ごく限られた人かもしれない。

成田一世氏。
彼の経歴を追うと、その活動範囲は国境を超えている。ヨーロッパから、NY、そしてアジアへ。
大げさにいうのならば、“神出鬼没”。彼の創る味わいを再び口にしたいのならば、世界レベルで彼の動きに注目していなければならないようだ。
結論からいうと、成田氏は現在、日本にいる。
シェフ・パティシエ、及びシェフ・ブーランジェを兼任していた「ラトリエ ドゥ ジョエルロブションNY」にて“NYタイムズ2007年度デザート・パン部門総合1位”の受賞という快挙を成し、帰国。今は、「ラトリエ ドゥ ジョエルロブション」の次なる海外展開の準備に向け、日本で充電中、という状態だ。

2008年、6月23日。
株式会社東京めいらく主催による、成田一世氏のデセール講習会「Heritage〜劣化を意識しない味の組み立て〜」が行われた。仕上げの段になると、受講者はまわりを取り囲み、間近で息を呑むように成田氏の手元を見つめていた。会場の空気はピンと張り詰め、動き、発する言葉のひとつひとつに神経を研ぎ澄ませていた。全ての作業を終えた後、成田氏にインタビューを行った。



成田氏の実績は、以下の通りだ。
国内パティスリーにて勤務後、1995年に渡仏し「パリ ステラマリス」へ。その後、イタリアへ渡り、「フィレンツエ エノテカピンキオーリ」にて、シェフ・パティシエを務める。
2000年に帰国。「パティスリーピエール・エルメ」、「レストラン タテルヨシノ東京」のシェフ・パティシエを経て、2005年、「恵比寿シャトー・レストラン ジョエルロブション」のリニューアルオープンを任される。その後、「ラトリエ ドゥ ジョエルロブションNY」へ・・・。と、ここまで見て、成田氏のパティシエとしての仕事は、一貫して“レストラン”を舞台にしていることがわかる。

「日本のパティシエは、レストランを嫌いな人達が多い。でも、フランスのパティシエは、ほとんどの人間がレストランで働いて来ているんです。例えば、ピエール・エルメ氏が『アラン・デュカス』で、ジャン=ポール・エヴァン氏が『オテル・ニッコー』でロブション氏の元で働いていたことはとても有名です。レストランのパティスリーは、シェフが提供する一連の味覚の中で、サレの部分を食べた人達のみに理解されるもの。流れの中に甘みの部分を溶け込ませて行くべきところを、切り離し、ブティックを構えて売れば、それはもう3時のおやつになってしまうと思うのです。量産可能の持ち運び易い商品を考えれば、出来たて感に欠け、薫りも味も弱くなる。オートクチュールではなく、プレタポルテの商品になってしまうことで、レストランから始まったフランスのパティスリーの進む方向が、少しずつずれていく感じがするんです。」

今回の講習会の副題は、“劣化を意識しない味の組み立て”とあるが・・・

「日本人はα化したでんぷん質に対してとても敏感な人種です。すなわち、α化したものが劣化していくことにも、敏感なはず。対して、パティスリーが粉を使っている商売でいて、粉の劣化に対してなぜ何の意識ももたないのか?もちろん、クロワッサン・ザマンドやポロネーズのように、翌日劣化したものをもう一度美味しく食べる方法論はありますが、それ以前に劣化を遅くする方法、取り除く方法を考えれば、もっと美味しいものの表現ができるかもしれない。レストランが作りたてにこだわる中で、パティスリーはその部分の意識が少ないように思えます。その部分に、アンチテーゼの形で提案し、数多くの人達が一緒に考えることで、またひとつ新しいものができるきっかけになるかもしれない」

「POP ROYAL」
まっすぐ天に向かって、飴のストローが伸びる。グラスの中は、マンゴーのグラニテ、パンナコッタ、そして日本酒のジュレの構成



大切なのは、理想をどこに置くか。世界各地で、あらゆるシェフの元で。その様々なシチュエーションの中で、味覚を創りださなければならない立場にいるからこそ、出せる結論だ。

「ロブションから、どこの国に派遣されたとしても、僕達はヨーロッパっぽい理想を追求させられます。ヨーロッパっぽい味、テクスチャー、作り方。これらを頑なに守り続けながら、その国ごとの異なる食材でどうやって作り変えるか。これをいかに考えていくかが、セミナーのテーマのひとつでもあります」

生クリームはめいらく「フレッシュ35」、チョコレートはカオカの「エクアトゥール70%を使用


今回の素材は、カオカのチョコレートやめいらくの生クリーム、オーム乳業の発酵バターなどを使用。材料の味や性質の違いは、どのように克服しているのだろうか?

「例えば、アメリカのように発酵バター自体が入手しにくい場所でフィユタージュを作らなければいけない場合。フィユタージュが発酵バターを折り込んだ時、どうしておいしくなるのかを考えると、それはバターがキャラメリゼしてメーラード反応を起こした時の薫りがおいしさだろう、と。だったら、しっかりキャラメル化させる為に水分のあるバターを使い、さらにメーラード反応を起こさせた時に薫るようなものを添加させれば、普通のバターで代用可能です」

しかし、材料の選択は、味覚の判断だけに拠るものではないようだ。“正しい方向に進もうとしているメーカーを牽引する”という姿勢も貫いている。


講習では、マルティニック諸島のディロンのラム酒を使用


「エルメ氏は、マルティニック諸島のAOCラム“トロワリヴェール”を使うのですが、マルティニックが火事でビンテージをほとんど失ってしまったという事件があったんです。急激に高騰してしまい、それを誰もが使わなくなってしまった。だけど、エルメ氏はそれを買い続け、自分達がそれを使うことで、メーカーが再生し、機能し出すことを待っていると。今回、めいらく35%のクリームを使っていますが、当初めいらくは乳化剤抜きのピュアなものを作ろうとしていました。低脂肪のミルクを安定させて流通するのは、現時点では非常に難しいことですが、生産地でおいしい食材が出来る力と、それを輸送する方法のバランスがとれれば、やがて力強い食材が出来ます。エルメ氏の言葉を思い出しながら、自分達が使うことでそのメーカーが力をつけていってくれれば、と思っています」

海外で修業を経験している日本人パティシエは数多くいるが、技術を持ち帰りこそすれ、現地のエスプリ・生活観ごと持ち帰り、それを維持できる職人はそう多くない。

「必要なのは、レジョンを感じさせること。エルメのお菓子にはアルザスの力を、エヴァンのショコラにはパリの洗練された風を、ポキューズにリヨンを、デュカスに南仏を感じるように。例えば、エルメのルセットには、グルテンのバランスの調整が事細かに記されているんです。これは、エルメ氏が故郷のアルザスでブーランジェとして仕事を始めたことに起因します。エルメのルセットをぱっと開いて、そのまま自分の感覚だけで作ってしまうと、突拍子も無いものができてしまう。真の部分は、エルメ氏の薫陶を受けてきた人間にしかわからない。実際に作るための方法論、出来上がるまでのテストの過程、試行錯誤を踏まえること。これは、料理界だけでなく、全てのブランドにもいえることです」


成田氏は今、ロブションというシチュエーションの中で、受け継いだ“レジョン”を土台に、肉付けする作業を繰り返している。しっかりとしたフィルターを通った「見る目」が出来ていれば、アレンジも、次の世代に何を受け継がせるべきなのかも、迷うことはない。一方、自身の郷里の味について伺ってみた。

「自分は青森出身で、実家は和菓子屋です。でも、フィユタージュにあんこを挟むようなことはしません。なぜかといえば、アパレイユはフィユタージュの中で加熱調理されてはじめて成り立つということが前提なわけです。味、温度帯、水分・・・その全てを考えた上だったら、あんこを挟むこともありですが。そもそも、豆を甘く食べるという文化は日本独特のもので、フレンチの世界では理解されにくいようです。でも、世界がひとつになる過程において、いつの日にか理解されるようにアプローチを続けていきたいと思っています」

“世界をひとつに”
今のロブションが目指すのは、ワールド・スタンダードになること。どこの国にいっても、ロブションの味を提供し、スタンダードを根付かせる。その上で、マーケットの裾野を広げるのがロブション氏のベーシックな考え方だ。この考え方は、ピエール・エルメ氏を髣髴とさせる。以前は香水でしかありえなかったバラの香りを、ピエール・エルメ氏はパティスリーのスタンダードに仕立てた。今回、成田氏が使用した材料の中に、セバロメの“バイオレット”がある。スミレの香りは、日本人にはまだ馴染みが薄いものだが・・・。

2007年、NYにて“アート&デセール”のベストに選ばれた一皿。スミレの香りをつけたクレームブリュレに、ミルクのムース、バニラとキルシュのジュレ。球体の飴の表面が、赤い実を映す芸術性の高い作品


「バイオレットは、エルメ氏から受け継がせてもらいました。自分が南仏で働いていた時、5月のちょうど今頃、スミレが最盛期で、そこら中でスミレのお菓子を食べていた。いつかこういったものが使えたら・・・と思っていた時に、エルメに入ったら『アンヴィ』というスミレとフリュイルージュのお菓子をやっていて。それがすごく印象的だったんです」

フランスの天然香料“セバロメ”のバイオレット。ナチュラルに近い、甘く柔らかな香りが特徴。「こういった香りの部分も、自分でオリジナルを作っていくような作業もしていきたい」と成田氏


講習の中で、成田氏は「今日の味のアレンジは、自分でしてください」と、受講者を驚かせていた。自身のルセットをそのまま切り売りするのではなく、作り手それぞれのレジョンを導くことが目的にあるようだ。仕事の中でも、わざと“ルセットの無い部分”という部分を作っているという。

「例えば、お母さんが作るクレープには、ルセットはいらないんです。まず必要なのは粉、油脂、牛乳、卵に対する知識。次に、どうやって混ぜ、どんな配合にすべきか?どんな味を足せば甘くなって、どんな味を足せばしょっぱくなるのか?ルセットを渡さずにクレープが作れない人には、何かが欠けている。日本人がよくやるセミナーは、『ルセットをしっかり守る』ことが前提ですが、自分の味を調え、スタンダードを作る努力をすることのほうが大切だと思っています」

「POMME」
紅玉のコンポートに、グラスヴァニーユ、そしてリ・オ・レ。ソースは、てんさい糖を使用したキャラメルとマンダリンナポレオンの2種を添えて



年末、ロブションは台北のオープンが決定している。その為、成田氏は現在準備中だが、自身にとって初めてテイクアウトの菓子に挑戦することとなる。今まで学んできた技術、育ててきた意識と味覚は、NYでの評価で、確信を得ていた。台北で模索していきたいのは、テイクアウトで老化させない方法。フランスの再現と、次の新しい味へのアプローチ。そして、その視線の先にあるのは、パリだ。

「パリでパティスリーを作る、という話もあったのですが、今は頓挫してしまっているんです。日本人にパリの店を任せるというのは、ロブション氏本人がOKでも、現時点ではなかなか難しいようで。でも、この台北での試行錯誤をいいモデルケースにして、培った技術がいつかフランスで受け入れてもらえれば。今まで、ロブションの中で、やってきたことは評価していただいたので、自分自身はロブションのスタンダードになれたのかな、と思っています」

プロフィールにもう一度目を落とす。成田氏は、一貫してレストランをその仕事場としている。ロブションのスタンダードと成り得た今、今後はロブションと共に次の方向を見極めて行きたい、とその姿勢は確固たるもの。その柱となる考えはいったい何なのだろうか。

「自分がこの仕事を携わるにあたって、一番考えたかったのは、“パトロンのステータスになりえること”だったんです」


「マリー・アントワネットのテーブルのステータスを作ったのは、そこのキュイジニエです。それがおいしいか否かが、マリー・アントワネットの評価に繋がった。全てのヨーロッパのブランドはそこからの始まりです。それからは、全てのブルジョワがそれを認め、コピーしていっただけのこと。そこに至るまで、誰かの価値観に服従し、それを作り続けることが、その人のステータスを高めるための第一歩なんじゃないなかと。それが、僕にとっては、ピエール・エルメ氏だったり、ジョエル・ロブション氏だったりします。その仕事を為し得た時に、自分をアピールしようかな、と思っています。その時に初めて、フランスというチャンスをいただければ、と」

新しい価値観を築く。そして、いつかそれはスタンダードになる。それは浮んでは刹那的に消える、巷の流行ではなく、次の時代を築くという作業だ。何か新しいものが産まれようとする瞬間の膨大なエネルギーと、時代を読む冷静な目。成田氏のこれからに、目が離せなさそうだ。

(2008.6)




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