2008年3月にグランドオープンを果たした「赤坂サカス」。赤坂ACTシアターにTBS本社、そして巨大なビジネスビルがそびえる商業スポットは、一躍赤坂の新名所となった。その中でも、特に注目されたのが日本初出店となるブーランジェリー「ル・ブーランジェ・ドミニク・サブロン」だった。

ドミニク・サブロンが軒を構えるのは、赤坂Bizタワー横にそびえる独立棟。カーブを描いたガラス張りの外壁が、洗練された印象。マキシム・ド・パリ経営のレストランとカフェが入っており、ドミニク・サブロンのパンが提供されている。


『パリの5本の指に入るブーランジュリー』『パリの味をそのまま再現した本格派』・・・噂のパンを手にいれようとする人々が殺到し、店の前には早朝から連日の大行列が見られた。しかし、オープンラッシュの合間も、そして熱狂が落ち着いた後も、パンのクオリティは保たれ、その期待を裏切ることはなかった。時季折々に新商品が登場し、いつ訪れても店内は活気に溢れている。
オープン時に謳った「本場パリ」の味は守られ、確実に日本の地に根を生やし“活きたもの”になっている。大黒柱となっているのは、シェフ・ブーランジェを務める榎本哲さん。若干30歳の若きブーランジェだ。開店して1年が経った今、改めて榎本さんにお話を伺った。

マキシムを象徴するアール・ヌーボー調の装飾が美しいドーム型の天井が特徴的。限られた売り場面積の中で、壁面を利用した稼動型のパン棚を設えるなど、陳列にも随所に工夫が見られる


学生時代から水泳をやっていた榎本さん。身体を動かす仕事がしたい、そして“もの作り”に関わる職に就きたいという思いから、東京製菓学校に進学。酵母を使う奥深さと、大らかな温かみを併せ持つパンの世界に魅了され、以後パン職人の道を邁進していくこととなった。
最初の就職先は、「ポンパドール」。大手でパン屋の“しくみ”を学びながら、かつオールスクラッチで作っていることが決め手に。配属された池袋店は、当時1日130万円ほど売り上げる大型店舗だが、システマティックな仕事ばかりではなく、手作業や感覚で勝負する部分も多かった。様々なポジションを経て、3年後には指導者の立場となり、やりがいを感じていたものの、まだまだ学ぶべきことがたくさんある。榎本さんは、当時オープンしたばかりだった「ペルティエ」赤坂店のパンの味に惹かれ、志賀シェフの元へ飛び込みで志願した。しかし、その時厨房に空きがなく、紹介で代官山の「パティスリーマディ」へ。当時のマディのシェフは、松原裕吉氏。榎本さんと前後して松原シェフの元で働いていたのは、現「ブーランジェリー ルボワ」の森さんや、現「ブーランジェリーパリゼット」の塩塚さんなど。多くの優秀な人材を輩出し、ブーランジェリーの新時代を築いた店のひとつだ。

「マディに入って、とにかくそれまでの仕事はパン屋として中途半端だったと痛感しました。自分の店でパティシエールを炊くのは初めてで、使う材料も大手にはないこだわりのものばかり。天然酵母についても基礎から学びなおしました。マディではパティシエと一緒に仕事をするので、当時シェフパティシエだった桜井修一さんと仕事ができたのも、すごく刺激になりました」


クロワッサン生地をベースに、チョコレートやピスタチオクリーム、レーズンとカスタードを巻いた3種の「エスカルゴ」は人気のヴィエノワズリー


1年後、ようやく志賀シェフから呼び声がかかった。当時のユーハイムは、3ブランドのパン部門で軒並みの新店舗展開を仕掛けていた。そんな中、榎本さんはあえて“火中の栗を拾う”役目を買って出た。

「志賀シェフに、一番忙しい店でやらせて欲しいと志願していました。そういう環境に立たせておいたほうが、自分が一番成長できると思っていましたから」

ハードな仕事に身を置きながら、志賀シェフ流の製法と教育法にも刺激を受ける毎日だった。ミキシング、発酵、成型、焼成・・・すべてが独創的でありながら、理論に基づいている。松原シェフと志賀シェフの違いについて、聞いてみると・・・

「松原さんは、精巧で緻密な頭脳派。対して志賀さんは、ダイナミックで直感的にやっていくタイプ。例えば、志賀さんから、商品の試作や粉のテストの為に新しいルセットを与えられる。でもそのまま作ってみても全くパンにならないことがあるんですよ。でも、こういうのを作りたいんだ、こういう味にしたいんだっていうのが読み取れるルセットになっている。そのルセットをどう解釈し、余白の部分をどう埋めていくかを試行錯誤するのがすごく勉強になるんです。本人もどこまで考えて僕にそれを投げているのかわからないんですけど・・・(笑)。一方、松原さんは、完全に自分で完成させた状態で下に落としていく。志賀シェフも基本的な部分では同じだと思うのですが、アウトプットが対照的なんですね」


バゲットは、ルヴァン、エポートル、セレアル、ブーランジェの4種。それぞれ使用する小麦や酵母、製法が異なる為、違う食感や味わいが楽しめる。「バゲット ル・ブーランジェ(\357)」(写真右)は、ルヴァン種、ポーリッシュ、イーストを併用し、小麦は北海道産のスローブレッドクラシック使用。長時間発酵の熟成により醸された旨みが押し寄せる


赤坂ペルティエ、銀座ペルティエでシェフを務めながら、京都や名古屋など各地の店舗で立ち上げ作業を兼任した後、2004年10月に日本橋三越新館にオープンした「フォートナム・アンド・メイソン」のシェフを担う。志賀シェフが作ったルセットの基盤を元に、安定生産できる方法を模索しながらスタートを切った。様々なラインナップの中で印象的なのが、食パンのラインナップ。スタンダードな山食から、蜂蜜入りやライ麦入り、そして1,050円という高級路線の「ロイヤルローフ」など、様々な種類の食パンが評判となった。

「イギリスのパンはおいしいものが少ないので、志賀さんが今まで温めてきた、天然酵母を用いた長時間発酵の食パンを展開しました。紅茶の食パンは、茶葉が長時間発酵の段階で水分を吸って生地が締まってしまうので、ほとんどつなげないような状態で生地を仕込む必要があります。他の食パンも、繊細な生地なのでモルダーに通せず、手作業で丁寧に丸めないときちんと上がらないんです。まさに、職人の感覚と技術で作り上げるもの。とても難しいですが、うまくはまった時には本当においしいパンができます」



フォートナム・アンド・メイソンの全国展開に伴う立ち上げ作業が落ち着き、榎本さんは次なる道を考え始めていた。そんな時、「マキシム・ド・パリ」より声がかかった。新ブランド「ル・ブーランジェ ドミニク・サブロン」のシェフ・ブーランジェとして迎え入れられた。

「今までフランスに行ったことがなかったので、現地で勉強できるということに興味があったのと、プロジェクトとして非常にやりがいのある仕事だと思いました。すぐ隣のレストランで食事に合わせて提供できるというのも、大きな魅力。例えば、パンに合わせた食材をレストランで考えてもらって、サンドイッチにして売ったり、逆に、メニューに合わせたパンを焼いてレストランで出してもらったり。そういうことって、普通のパン屋さんでは経験できないですから」

フランスではパンを食事にあわせるというのは当たり前のこと。ドミニク・サブロンのパンもまたしかり、がっつりと濃厚なフレンチには、カンパーニュのほのかな酸味が相乗効果を発揮する。

オリーブ・フロマージュ(\294)
レストランのテーブルパンとして榎本さんが開発したパン。グリュイエルチーズ、グリーンオリーブ、ブラックオリーブ、タプナードが練りこまれ、ワインが進む一品だ。



日本でのドミニク・サブロンの立ち上げに当たり、榎本さんがフランスで研修をしたのは1ヶ月間。指導の時間は非常に限られたものだったが、短期間で、榎本さんはサブロン氏の教えをマスターした。

「僕の最初の目標は、オープンしてサブロンさんが来日した時に『おまえにこの店を一任するよ』と言わせることでした。帰国してすぐ、うまくいかないだろうと思いつつとりあえずそのまま試作してみたんです。予想通り、発酵の状態から生地の硬さ、醸す薫り・・・フランスではできたことが、日本ではうまくいかない。基本ルセットはあまりいじらずに、給水や、捏ね上げの温度や加減を調整するなど、かなり試行錯誤しました」

スペシャリテの「ブール・ビオ・オ・ルヴァン」他、数種のパンで使用しているのが、フランスから直輸入したビオの石臼挽きの小麦粉。そんな繊細な粉を輸入するには、管理がかなり難しいだろうと思われるが・・・

「状態はかなりブレます。コンディションが良くなかったので、全部返品して新しく取り寄せたこともありました。輸入にあたって何カ月ものリードタイムがかかるので、その間だけでも刻一刻と状態は変わっていく。挽いてから時間が経ったものでパンを作っても、フランスと同じように上がりませんから、もちろん製法上でもかなりの調整は必要ですね」

ドミニク・サブロンのパンを語るのにはずせないのが“天然酵母”。サブロン氏自身が日本での初出店にあたり、特別に作ったオリジナルの酵母だ。ビオの石臼挽き粉から起こしたルヴァン種に、ハチミツ、シナモン、アニスなどの数種のスパイスを加え、「パン・ド・エピス」をイメージして作ったものだそうだ。サブロン氏が起こした酵母は今も、徹底した管理のもとで種継ぎをしながら、その味わいを繋いでいる。

ブール・ビオ・オ・ルヴァン(\840)
しっとりと目のつまったクラムからは、爽やかな酸味のある薫りと旨みがジワジワと押し寄せる。奥底からやってくるほのかなエピスの風味が、味わいに奥行きを拡げる。フランス直輸入のBIOの石臼挽き粉と自家製酵母でこその味わいだ



1か月のテストベーキングの後、開店前にサブロン氏が来日した。
榎本さんが焼いたパンを一通り食べ、ひとこと・・・

『パーフェクト!!もう何も教えることはないね!』

かくして、榎本さんの最初の目標は達成された。中でも、サブロン氏の絶賛を受けたのは「クロワッサン」。シャラント産のAOC発酵バター(レスキュール)をふんだんに使用したクロワッサンは、噛みしめる毎にふくよかなバターの風味が広がる。

「日本とフランスでは温度も湿度も違うので、かなりの調整が必要。仕込み温度はフランスよりも低めに、イースト量も変えて、折り込んでいく作業工程の中で生地を休ませる温度帯や時間もそれぞれ変えています。サブロンのクロワッサンは折り方が特徴的。ふつうは3×3×3の27層ですが、サブロン流は2×4×3の24層。層が少なくなる分、さっくり感が多くなって、バターの風味も感じやすいし、食感も変わってきます」

クロワッサン(\231)
サクッとした軽い食感の皮と、しっとりと柔らかく甘めのクラムが優しい印象。蜂の巣状の美しい断面からは、シャラント産AOC発酵バターならではのすっきりとした乳風味が広がる



噂が噂を呼び、オープン当初、クロワッサンは店頭に出すやいなや、片端から売り切れてしまうほどの人気の商品に。そんな混雑を目の当たりにしながらも、納得のいかない出来上がりに、オーブンから出たばかりのクロワッサンを全て捨ててしまったというエピソードも。

「見た目にはわからなくても、ダメなものはダメ。発酵のタイミングが若干ずれることで、層の出方は全然違うものになるんです。僕たちとしては100回のうちの1回だったとしても、お客さんにとっては唯一のクロワッサン。これを出して信用を失うんだったら、出さないほうがマシです。上に立つ人間が妥協することで、店のクオリティが一気に崩れていくのはよくある話です。こういうことは自分だけではなく、スタッフ全員に浸透させていくことも僕の仕事だと思っています。パン屋はチームワークで作りあげていくものですから」

高いモチベーションで、サブロン氏の味を日本で完璧に再現させた今、いよいよ自身の考えを取り入れた新しいことにも取り組むことができる。榎本さんの、次なる「チャレンジ」をうかがってみると・・・

「新しい食材、新しいパンというのではなく、今やっている商品をよりおいしくするのが、現在の目標。例えば、イーストを極力減らす。天然酵母に移行できるものは変えていく。コンセプトは崩さず、“ドミニク・サブロン”らしさという芯の部分はしっかり守りながら、チャレンジしていきたいですね」


目下、榎本さんの頭の中で一大テーマとなっているのが「パンドミ」。フォートナム・アンド・メイソンの経験から、パンドミの可能性はまだまだ広がるはず、と確信している。 粉の甘みを十分に引き出して、余計な発酵臭を感じさせず、長時間発酵で劣化の遅い日持ちのするパンドミを・・・イメージは駆け巡り、忙しい業務の合間に試作を重ねる。趣味は仕事。ほとんど家にも帰っていないと笑うが、その笑顔はいたって晴れ晴れとしていた。

「ただ、“守る”だけではおいしさはキープできません。今のパン職人はかなり努力して前へ前へと進もうとしている。そんな中で守っているだけでは取り残されてしまう。自分も常においしいものを求めて、創り出していきたい。そうじゃないと、仕事は面白くありませんから」

もっと、おいしく。常に、前へ。
前向きな想いの中に、無理な気負いはまったく感じられない。榎本さんの中ではパン屋として当たり前の姿勢のようだ。

赤坂に、もうすぐ桜が咲く。季節が移り変わり、街が変化していくように、サブロンのパンも時を刻み進化を遂げるだろう。今しか出会えない一瞬の味を、桜と共にみおくろう。

桜ファルシアン(\210) ※3月31日までの発売






ル ブーランジェ ドミニク・サブロン
住所 東京都港区赤坂5-3-1赤坂Bizタワーマキシム・ド・パリ 1F
TEL03-5545-4515
営業時間8:00〜21:00(月〜金)、11:00〜20:00(土・日・祝)
アクセス千代田線赤坂駅よりすぐ




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