赤坂のフランス菓子店「エートル・オ・ザンジュ」が閉店したのは、2005年3月のこと。オープンしてから3年4ヶ月。シェフの飯坂憲一さんは最後の営業を終え、店の扉に“閉店”のポスターを貼った。

「赤坂の街が変わってしまった、というのが閉店に至った一番の理由でした。ほとんど告知無しでしたから、お客さんもびっくりされた方が多かったようです。閉めてからもしばらくは、何か無いですか?って来てくださるお客様がいて、残った材料でギリギリまで作っていました。エートル・オ・ザンジュが閉店してからは、レストランやホテルで働いていたのですが、どこか自分の目指しているものではなかったんですね。改めてエートルをやっていた頃を振り返って、やっぱり“自分の仕事”がしたいなと」


丸の内線茗荷谷駅より徒歩8分。ブルーと白を基調とした清潔感ある外観が、静かな住宅街と穏やかに調和する



2007年3月。エートル・オ・ザンジュ閉店から、ちょうど2年の月日が流れた。自宅のマンションの1階で、改めて自分の店を構えることとなった。生まれ育った場所である小石川の地は、飯坂さんに職人の意識を目覚めさせた、まさに“原点”であるという。

「私の家は、曾祖父から代々魚屋で、このマンションの隣に店を構えていたんです。父親も魚屋を継いだんですが、元はコックでした。だから、小さい頃から洋食のレストランに連れて行ってもらったり、食卓でも洋食に触れる機会が多くて。両親が共働きだったこともあり、小学校2年生の頃には、見様見真似でホットケーキやチャーハンを作ったりしていました。ちょうど、東京オリンピックの時で・・・、TVに出ていた選手村のコックさんが『子供の頃、よく台所を汚した』と、インタビューで応えているのを見て、家族に『あなたと一緒ね』っていわれたり。その頃から、料理人になることが、僕の夢になったんです」

アルバイト先で垣間見た大人たちの世界。コックに生きたキジを見せてもらい興奮したこと。初めて勤めた西洋料理店の給料で買った“エスコフィエ料理事典”・・・少年時代に抱いた料理への情熱は鮮やかによみがえる。


シンプルだからこそ際立つ、洗練された味わいのケーキ。常時約10種類がケースに並ぶ



「基本的にはエートル・オ・ザンジュでやっていたものを継続して作っています。スペシャリテのひとつが、クレームキャラメル。日本の牛乳は薄いので、フランスの牛乳の味に近づけるために工夫しています。アパレイユをかなり濃くしているので、バランスをとるためにキャラメルを強めに焦がしているんです。でも、近所の保育園の子供が来て、キャラメルを最後までぐぐーっと飲み干したんですよ。驚いていたら、お母さんが『普段は苦いものは食べないんですけど、ここのは好きなんです』って(笑)」

確かに、飯坂さんのお菓子は、素材の味が織り成すくっきりとした輪郭の内に、ホッと胸に染みるような優しい味わいを秘めている。赤坂と比べて、子供やお年寄りが多いこの地で、着実にファンを増やしつつあるのも、納得できる。


「クレーム・キャラメル¥420」
しっかりと焦がしたカラメルの苦味が、作り手のこだわりと個性を感じさせる




エートル・オ・ザンジュ時代から、もはや店の看板となりつつあるのが「サン・ベルナール」。最近、雑誌に取り上げられ、注文を増やしているという。繊細なグラスに包まれた、アーモンドが香るしっとり重厚な生地。一度食べたら忘れられない、あの芳醇な味わいは、どのようにして作られているのだろうか。

「バターを泡立てずに木ベラで丁寧に生地を合わせて行くのがコツでしょうか。気泡が入ってしまうと、味と香りがうまく乗らないんですよね。しっとりと仕上げるために、アーモンドプードルを入れています。以前はアメリカ産のキャーメルを使っていたのですが、今回はスペイン産のマルコナに変えました。スペイン産はビターアーモンドの香りがしっかり出ているんですね。値段は高いですが、味は格別に変わりました」


「サンベルナール(小) ¥1,050」(直径9cmのブリオッシュ型)
※直径12cm(\1,995)、直径16cm(\3,990)もあり


サブレは全4種。最もシンプルな「サブレ・メゾン」は、ホロホロと口に溶けていく、繊細かつ上品な味わい



赤坂時代からのファンも多い、飯坂さんの焼き菓子。サン・ポワンで通常販売しているのは、サン・ベルナール、パウンドケーキ、サブレの3種類。「作り立てを味わっていただきたい」との思いから、その他は注文生産という形で対応している。場所柄、お客さんから求められるものは少し変化したが、“自分がおいしいと思うもの、いいものを作り続ける“というスタイルは変わらない。むしろ、店を自宅の下に作ったことで、仕事環境がかなり改善されたと、その表情は晴れやかだ。

「赤坂の時、一番ネックだったのが、ビルの警備の都合で朝は8:00から、夜は23:00には出なければいけなかった、ということ。しかも7坪半という面積で売り場とキッチンとを分けていたので、とにかく狭かった・・・。それでも、土地柄のせいか進物の注文がとても多くて、ほとんど売り場に出る時間が無いほど忙しかったんです。時間の制限と、キッチンの狭さと、一人での作業とで、結構辛かったですね。引き出物の注文が入ったりすると、それに追われて、生ケーキに手が回らない。ショウケースの中にケーキが2〜3種しかないってことも結構あったんですよ。でも、いまは広さも十分にあるし、ゆったり作業ができる。従業員も一人雇っていて、今は二人で作っているのですが、交代で接客もしているのでお客さんの反応がダイレクトに感じられる。とても理想的な環境ですね」

自宅の下で新たにスタートを切った、飯坂さん。時間の制限も無く、ゆったりと自分の仕事が出来るようになった。念願だったパンの販売も始め、ショウケースにはアンチョビやオリーブを使った、まさに食事にぴったりのテーブルパンが並ぶ。サンドイッチや自家製のドレッシングもあり、料理人としての経験も豊富な飯坂さんらしさが現れている。


地元のお客さんに人気のパン。ワインやチーズに合いそうな、テーブルパンが中心

数種のハーブを効かせた爽やかなオリジナルのフレンチドレッシング。生野菜にぴったり合う、飽きの来ない味わいだ



「パンは、ほとんど独学なんです。サンポワンを出すまでの2年間の間に、コツコツ勉強していたんですよ。自宅のキッチンにコンベクションオーブンがあるので、データを取りながら試作を繰り返して、なんとか納得のいくものが出来るようになりました。パンの副材料は、基本的にはお菓子と同じものを使っています。クルミパンなら、クルミのマカロンと同じペリゴール産を使っています。1kgずつ真空パックで輸入されてくるから、鮮度もいいし、本当に香りが強いんです」

パンにサンドイッチ、ドレッシング・・・と来て、次は洋惣菜も作っていきたいと、意欲的な飯坂さん。広くなった店内に設けられたサロンは、落ち着いた雰囲気。男性客が一人で来て、コーヒーとパンを食べていくこともよくあるという。


窓からは緑も望め、耳に優しいクラシック音楽と共に、店内には穏やかな時間が流れる




「実はこれから、カフェスペースで楽しめるように、ビールやワインを出そうかと考えているんです。8月位からベルギービールを、冬になったらワインを始めて、それに合わせてパテを焼いたり・・・と広げて行きたいなと。あくまでも、ケーキやお惣菜、パンと一緒にゆっくりと楽しむためのお酒。日本のビールは麦が弱いから、ゆっくり味わうにはドイツやベルギーのビールが深みがあっておいしいんです。自分で気に入っている銘柄があるので、いくつか置こうかと計画しています」

休みの日の夜には、知り合いが経営するフレンチレストランで、食事と一緒にワインを愉しむ飯坂さんならではの視点だ。お酒とスウィーツに目を細める大人達によって、サン・ポワンは、パティスリーの枠を超え、さらに上質な空間と変化していくのだろう。




「まだ、この店には看板が無いんです。・・・店の前に、桜の木があるんですが、亡くなった父が、生前に乗鞍岳から持ってきたヤマザクラなんです。もう20年程になるのですが、始めは鉢植えだったのが、いまは随分大きくなったので地植えにしたんです。春には白い花を咲かせて、ちゃんとサクランボもなるんですよ。その桜の木の前に、8月には看板をつけようと思ってるんです。店名と、それから・・・“パン&ケーキ、ベルギービール・ワイン・洋惣菜”と、入れたいなって」

嬉しそうに語る飯坂さんの表情は、活き活きと輝いていた。初めて料理界の扉を叩いた、16歳の頃の情熱は、今も変わらず燃え続けている。

「もともと、そういう血が流れているのかも知れないけれど、いまでも楽しいし、とてもワクワクしていますね」

この桜は、飯坂さんに料理人の魂を植え付けた父であり、この店を穏やかに守り包む家族なのかも知れない。花を咲かせ、実を着け、四季を超え・・・その下をくぐり抜けるたくさんの客によって「サン・ポワン」は永く愛される店になっていくのだろう。

両腕に青葉を湛え、優しく佇む桜は、そんな優しい未来を映し出している気がした。



サン・ポワン
住所東京都文京区小石川5-39-7
Tel&Fax03-5800-2238
営業時間11:00〜19:00
定休日月曜、火曜
アクセス東京メトロ 丸の内線「茗荷谷」駅より徒歩8分