粉、水、塩、酵母・・・。料理やケーキに比べ、パンの材料はシンプルだ。それにも関わらず、1切れのパンに強い個性を感じることがある。粉や酵母の風味や、しっとり、ふっくらなどの食感、そのどれでも言い表しがたい独特の味が、何か意志を持った生き物のように主張し、味覚と、脳の中に眠った記憶を刺激する。

その味の記憶は、力強い。だが、決して嫌な強さではなく、かすかに広がる酸味と甘みがふんわりとそれを包み込んでいく。噛むほどにギュッと旨みが増し、新たな味が生まれる。そして、チーズやバター、ハムにワインと共にパンを楽しむイメージが広がっていく。
そう。それが、記憶に残る味、志賀勝栄氏の作るパンだ。



「アルトファゴス」や「ユーハイム・ディー・マイスター 丸ビル店」、「ペルティエ」のシェフとして活躍してきた志賀さんが、新しく店をオープンした。

「新しい店に際して、特別に何かを変えたということはありません。ただ、今までよりも制約が少なくなった分、自分が追及したい味や、興味のある素材を極めていきたいと思っています」

これまでも、バゲット・ムニエやタイプ65など味の強い粉をドイツやフランスから空輸したり、その旨みを引き出すために低温でじっくりと発酵させた生地作りをしたりと、自由な発想で味を極め続けてきた志賀さん。今考えているのはどんなことなのだろうか。



「今興味があるのは、オーガニックです。といっても、私の場合、どちらかというと、エコロジーよりも味の点から。化学肥料や農薬を使用しない素材は、自分の持つ力で必死に育っているから、味にも甘やかされない強さがあります。麦からも生命力というか、強さが作り手に伝わってくる。だから、人を大切にするような気持ちで、その良さを活かしたパンを作りたいと思っているんです」

まず、素材ありき。それだけに、当然、素材探しにも力を入れている。なんと、嬉しいことに、パナデリアで講師をお願いした講習会同行させていただいた北海道旅行でも、いくつかの素材との出会いがあったそうだ。

「それまで敬遠していた国産小麦を講習会で使ってみて、“こんなに力強いのか”と驚きました。日本にもこんなに主張する小麦があるということを伝えられればと思っています」

「北海道小麦のパンペイザン(\1400/1個)」
大地の力強さを感じる、甘みと旨みの深い一品


北海道でのもうひとつの収穫は、生地に練りこむジャガイモ。黄色くて栗のような風味をもつ“インカの目覚め”を使ったパン・オ・ノアは、保湿性が非常に高く、3,4日たっても焼き立てと変わらないしっとりとした食感が楽しめるという。

イタリア製サンカシアーノ社のダブルアームミキサー。
通常の羽が回転するタイプとは違い、まるで本当の手のような2本のアームが生地をすくい上げるようにして、やさしく生地を捏ねていく

生地の良さを引き出すガスの窯。
この2つで、今までにない柔らかさのある生地が生まれる


「自分の味を極めるといっても、そんな風に人から受ける影響も大きいんですよ」

と笑う志賀さん。決して気負うことなく、他を受け入れるその柔らかさは、魅力のひとつではないだろうか。一般的にこだわりの強いベテラン職人というと、どこか頑固で孤高というイメージがあるが、志賀さんには全くそれがない。周りの人を包み込むような懐の深さと、細かい気遣いが、その場にいる人の気持ちをやわらげてくれる。



そんな志賀さんの若かりし日々は、どうだったのだろうか。

「私のパン作りの原点は、おいしいバゲットを作ること。20代の頃は、よく青山のドンクやアンデルセンへ行って、バゲットを食べていましたね。中でも好きだったのは、パシフィックホテル福田元吉さんの作るバゲット。こんなパンが作れたらと思っていました」

若い情熱は、パンに向かって一直線に向かっていた。

「24歳の頃。当時の店のオーナーに”休みはいらないから、もっと勉強をさせてほしい”と相談したんです。そうしたら、オーナーが当時パシフィックホテルにいた福田さんを紹介してくれて。時間のある時や、休みの日は、近くのホテルに泊まってパン作りを勉強していました」

明けても暮れても、パン作りにのめりこむ日々。最初に入ったその店では、3ヶ月でシェフ兼店長の座についたというから、その熱意と能力の高さが伺える。
だが、それが災いをもたらした。

「当時の私は利己主義で、自分と同じように動くことを周りにも要求していたんです。でも、パン作りは個人プレーではなくチームプレー。だから、上手くいかなくて、そのうちにみんな辞めてしまったんですよ」

飄々として柔らか。そんな今の姿からは全く想像できないが、常人離れした感覚と才能をもつものの宿命といえるだろうか。当時は、何がいけないのか、どうしたら良いのかと相当に悩んだという。
そして、機会を見て福田氏が顧問を勤めるアートコーヒーへ。チームワークの大切さを学んだ志賀さんは、その技量もあり、瞬く間に、課長という立場になった。

テーブル席では本日のおすすめプレートが楽しめる。
試食的な感覚でもぜひ


「自分の作ったパンを良く食べました。売れ残ったパンを前に、“どうしたらもっとおいしいパンが作れるんだろう”と考えながら食べ、残ったパンを心苦しい思いで捨てる。そんな苦しい思いがあったからこそ、今があるのかもしれません」 

おいしくなれと愛情を込めて作ったパンの無残な姿が、おいしさ追求へのバネとなっていった。

パンをより一層おいしくするチーズの種類も豊富国内外の水は、ワインを飲めない人への粋な提案


理想のバゲットどころかおいしいと思うパンが作れないまま、最初の10年が過ぎた。そして出会ったのが、今も志賀さんの代名詞ともなっている低温長時間発酵である。一体、このヒントはどこにあったのだろうか。

「最初のきっかけは、当時アートコーヒーの顧問をしていた福田さんなんです。“皮が薄くて繊細な二十世紀梨は、早めにもぎ取って冷蔵庫で熟成させて出荷する”という情報を耳にして、パンの発酵にも利用できないかとドゥコンディショナーを導入してくれました。ただ温度設定を2℃からスタートさせて朝20℃にしたため、結果的にあまり上手くいきませんでした」

日本のパン文化の礎を築いたといわれる福田元吉氏。フランス伝統の製法とは異なるアングルではあるが、同じ低温長時間発酵に行き着いたことが興味深い。

「そして、今から10年程前。ブロートハイム明石氏主催エキプドパンの講習会でシモン・パスクロー氏が、昔の文献を再現した、低温長時間で作るレトロバゲットを紹介してくれたんです。なんておいしいんだろう、と感動しました」

そして、発酵の仕組みそのものを変えてしまうという考えがヒントになった。

「パン作りには、素材、酵母、工程という3つの要素があって、それを変えることによって、新しい味が生まれると思うんです。一番わかりやすいのは、素材を変えること。でも、常識を変える新しい味を創り出すには工程を変えるしかない。そう考えました」 

モチッと噛み応えのあるクラム、ジワッと広がる小麦の旨み。それまでのクラムにボリュームをもたせたバゲットではなく、おいしさのみを追求するというスタイルを切り開いていく。そして、アルトファゴス時代には、雑誌「BRUTUS」のバゲット特集にて料理批評家であり「フィガロ紙」の記者であるフランソワ・シモン氏に高い評価を受けた。

「おいしさのみを追及する、その方法が間違っていなかったとわかって自信になりました。今のバゲットもそれなりにはおいしくできていると、感じています。でも、パン職人をやっている間は、さらに上のおいしさを追求したい、そう思うんです」





以前、志賀さんに将来の理想をうかがったことがある。

「そうですね。とことん追及したパンを1種類だけ置く。そんなパン屋ができたら良いですね」

思いがけない答えが返ってきた。そこには、お金や名声はまったくない。柔和な志賀さんの横顔に、パンに人生をかけた厳しい職人の姿が重なったことを思い出す。

ワインセラーも完備。
今日は自宅でパンとワインを、という時にもぜひ


もしかしたら、シニフィアン・シニフィエでも、ごく限られたハード系のパンしか作らなくなるかもしれない。そこで、わがままな一消費者としての不安をぶつけてみた。

「甘いパンや焼き菓子、それにキッシュみたいなものも実は予定しているんです。やっぱり、これが食べたいというお客様の気持ちには応えたいですから」

では、1種類だけのパン屋さんは無理そうですね、という言葉に志賀さんは頷いた。その表情が少し嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか。



志賀さんの作るパンは、力強さの中に、ほっと落着く旨みがある。ハード系というと、パンを食べ慣れない人には敬遠されがちだが、普段はご飯食のお年寄りでもきっと喜ぶのではないだろうか。パンでありながら、ご飯の要素を持ち合わせる、そんな不思議な味わいがある。

「ここ5年くらいは、他の人の作るパンに影響されなくなりました。自分のパンを何度も食べて、味作りをしています」

注目の健康素材「アマニ」をたっぷり使用した
「キャトル ヴァン(\260/100g)」


味の記憶・・・。
がむしゃらに作ったバゲット、売れ残りに心を痛めたパン、かのフランス人から太鼓判を押された誇らしいバゲット・・・。そんな、志賀さんの人生の1シーン、1シーンが味の記憶となって、今の深くやさしい味わいを作っているのかもしれない。

シニフィアン
・・・誰もが知っている、共有できる事実

シニフィエ
・・・個人の想い出や憧れなど、わたし達ひとりひとりが持っているものがたり



パン職人、志賀勝栄の物語は、パンを愛する私たちの中でこれからも続いていくことだろう。(2006年10月)
(「今週のパン屋さん」の記事はこちら)



シニフィアン・シニフィエ
住所 東京都世田谷区下馬2−43−11
Tel&Fax03−3422−0030
営業時間11:00〜19:00
定休日不定休
アクセス東急田園都市線三軒茶屋駅または池尻大橋駅より徒歩約20分
または渋谷駅より東急バス渋31〜34系統「自衛隊中央病院」下車徒歩1分
URLhttp://artandcraft.jp/ss