2009年7月。今月、タロー屋の、ほとんど家の窓ともいえる、たばこ屋さんのような小さな店が開いて、ガラスケースにパンが並ぶのはたったの5日間だけなのだ。それだけで充分、風変りと言えるだろう。しかし、本当に「変わって」いるのは、作っているパンそのものだ。もっと言えば、使っている酵母があまりにユニークなのである。



一階は主に店舗、二階にリビングやダイニングを備えた、タロー屋の建物。当初、店舗販売をする予定がなかったので、対面販売の間口はとっても小さい

一種類の酵母で作るパンは一種類。10種類ほどの本日のパンが店頭に並ぶ。畑の旬の作物から作る酵母を使用しているだけあり、パンといえども季節感がある



埼玉県さいたま市の住宅街。さて店はどこだろうとぶらつけば、店を見つけるより先に畑が目に入る。タロー屋のご主人、橋口太郎さんのお父様が手入れをしている畑である。
柵を覆うように、ブラックベリーやラズベリーが茂っている。
「もちろん、無農薬ですから安心して」
と、持ったハサミで、ぷちん、ぷちんと完熟の実を枝からはずして手に渡してくれる。口にすれば、甘酸っぱさがいっぱいに広がった。



畑は店から徒歩1分の場所にある。昔から橋口家の畑としてこの場所にあるが、この2,3年は、酵母を作ることを考えて、フルーツを増やしたり、栽培品目も増えてきた



案内されるがまま、中に入れば、ミニトマトが、ブドウの房のようにたわわに実をつけ、赤さを増していた。花を咲かせたズッキーニ。加賀太きゅうりは、その名のように太い実をつけている。土の中には真っ赤な砂糖大根が大きな実を隠し、奥の方に目をやると、旬を少しばかり過ぎたルバーブの黄緑色の葉が鮮やかだ。横には、アーティーチョークが花をつけている。バジル、青ジソに唐辛子、なす、カボチャ……、畑の中は、まだまだいろいろな命にあふれていた。そう、この畑なくして、タロー屋のパンはあらず。ここからの産物こそが、タロー屋のパンを、パンたらしめる大元なのである。



タロー屋ご主人の橋口太郎さんのお父様が主に手入れをしている畑。季節ごとにいろいろな野菜やハーブ、果物ができる。ちょうど砂糖大根(ビート)が旬を迎え、近く、ボルシチパーティーをやるそう。シソやブラックベリー、ラズベリーなど、それぞれ酵母をおこす




いつの間にか店からやってきた太郎さんが、横にいた。おしゃれな帽子をかぶった姿は、一言で言えば、パン職人らしくない。前職がデザイナーだったと聞けば、そちらには大いにうなずける風貌だ。しかしまたなぜ、デザイナーの道を大きく外れてパンの世界へ入ってしまったのだろう?
「5年ほど前のこと。たまたま、デザインの仕事で出会った人が、酵母について学んでいて。ちょっと興味を持ったので、軽い気持ちで、自分でも、フルーツなんかから酵母を起こしてみたんです。そうしたらこれが意外とうまく行った。ぶくぶくと泡を吹いて……、面白いなあと思いましたね。ガラス瓶をいくつも買ってきて、畑になった果物で、何種類もの酵母を作ってみました。もちろん、ただの興味本位。いつしか、仕事仲間も妻も呆れるくらい、どっぷりはまってしまったわけですが(笑)」



畑の管理をするのは、主に橋口太郎さんのお父様。しかし、橋口さんも、毎日のように畑をのぞく。何しろ店から目と鼻の先なのだから



せっかく酵母ができたのだからと、作ってみたパンもまた、想像以上にうまくいったそうだ。ふっくら膨らんだ姿を見て、涙が出そうに感動したそうである。焼いたパンは、デザインの仕事先などに配った。思いのほか、喜ばれたという。いつしか、「売ってほしい」という人まで現れて、本業よりも酵母とパン作りに精を出すようになってしまったというからおかしい。そんな姿に、仕事仲間は「やってられない」と逃げ出してしまった。妻はひとこと、「あなた、何やってるの」。夫婦喧嘩もしばしばだったという。しかし、酵母の面白さにむしばまれた橋口さんが、デザイナーの道に戻ることはなかった。

自然食品店や、フランス料理店と、定期的に卸売できる先もできたある日、ついに「パン屋一本でやっていく」と口にしたときには、すでに奥様は、あきらめと開き直りの境地(?)、喧嘩もなく、すんなり受け入れてくれたそうである。



橋口さんと、販売を担当する奥様。橋口さんがデザイナーの仕事をしながら酵母にはまっていた時期には喧嘩もしょっちゅうだったというが、パン屋一筋でやると決めてからは、納得してともにパンを作って販売している



さて、お分かりのように、橋口さんのパンは、畑からできた作物で起こした酵母ありきのパン。ラズベリーができればそこから酵母を起こし、リンゴができればリンゴ酵母のパンができる。柚子の季節になれば柚子、梅の季節になれば梅。フルーツばかりではない。トマトにラベンダー、八重桜の葉。さまざまなものが酵母の原料となる。そして作物がなくなると同時に、その酵母は終わりを告げ、つまりその酵母から作ったひとつのパンはショーケースから消えていく。どんなに長くても2,3か月。まさに季節感のあるパンなのである。

一体、何種類もの酵母をどうやって管理し、つないでいるのだろう?
あの、酵母の素材そのものの風味はなぜ生まれるのだろう?
訪れる前に我々の中にあったそんな疑問は、すべて解決された。つまり、粉でつないでいないのである。畑の素材から起こした酵母は、そのものが持つ力だけで、ブツブツ、シュワシュワと発酵していく(基本的に、糖分を加えることもしない)。一番元気な状態で使いきることが前提の、フレッシュな酵母。だからこそ、何種類もを揃えられるし、素材の風味が生き生きとしているのだ。「何十年も継ぎ足しています」という酵母が多い中、この発想はほかにはないと言っていい。それは、橋口さんが自分の畑を持っているからできる贅沢でもある。
「酵母の様子を見ると、その作物のもつ力も見極めることができます」
自分の畑以外の野菜や果物を購入して使うこともあるが、無農薬有機栽培の、できる限りいいものを入手している。安全で安心だからというのはもちろんだが、素材の力がないものは酵母になっても力がないからだ。



棚に並ぶ酵母。季節の移り変わりともに、年間で50種類くらいの酵母ができるそう



店の2階にあたる住居部分のダイニングに場所を移し、橋口さんが酵母の入ったガラス瓶をいくつも持ってきてくれた。美しい紫色のラベンダー酵母の瓶を開ければ、体が解きほぐされるような癒しのラベンダーの香りが広がるし、ミント酵母の瓶からは、すうっと、緑の清涼感が鼻に流れてきた。琵琶の酵母からは甘い香り。琵琶は、初めて酵母を作った時の材料でもあり、思い入れも強い。
「酵母の香りからイメージをふくらましてパンを作ることがほとんどです。たとえば、梨の酵母ができた時は、その甘い香りがトウモロコシに通じると思った。だから、トウモロコシを入れたパンを作りました。優しい香りのゆすら梅は、食べ飽きない食パンにしたいと思いました。アロマなパン、なんて表現なさる方もいます」



それぞれの香りがしっかり生きた酵母。フレッシュな状態で使えば、まさにこの香りが生きたパンが出来上がる。ラベンダーやミント、琵琶、桃……、それぞれの旬の時期だけ、そこから採れた酵母によるパンが出るのだ



畑の収穫は早朝だ。毎日畑を見ているからこそ、常に素材に謙虚になり、一期一会の気持ちで、緊張感を持って酵母が作れるという。つまり、タロー屋のパンはこの場所でしか存在しえない。子供のころから育った場所で、昔と同じように自然に触れながら仕事ができる。
「酵母を起こしているときに、昔のカンが生きているのを感じるんです。自然と一体になりながら作業をする感覚は、自分に無理がないと断言できるし、すごく幸せだなって思います。月に5日しか営業しないなんて、怠けもののパン屋だと思われるかもしれませんが、酵母の仕込みをしたり、酵母のペースでパンを焼くのも結構時間がかかる。卸もあるから、店を開けるのはこれくらいが限界なんです」



パン屋らしからぬいでたちで、しかしパンについてを熱く語る橋口さん。一見素朴なパンも、一口食べるとその酵母の風味と強さに驚かされる





営業日には、3、40人の行列ができてしまうこともある。住宅地の小さな店に、こんなにたくさんの人が並んでいる光景は、明らかに異常だ。
どこのパン屋での修業経験もない橋口さんである。この酵母以外でパンを作ったこともない。純粋培養型ともいえる独特の世界観と、日々向上していく技術が、タロー屋のパンをますます魅力的なものにしていくのは間違いないだろう。 (2009.07)

text:Chieko Asazuma








タロー屋
住所 埼玉県さいたま市浦和区大東2−16−28
Tel&Fax048-886-0910
営業時間10:00〜 売り切れ次第終了
定休日不定休(HPを見るか直接店舗へお問い合わせ下さい)
アクセス 京浜東北線北浦和駅東口より東武バス(1)番乗り場(さいたま市立病院行き)→木崎中学校前下車徒歩約10分
その他 通販、卸し販売あり
URL http://www.taroya.com/




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