JR金町駅の駅前のロータリーから一歩入ると、小さな商店が軒を連ねていた。八百屋の大きな笑い声は、出前に向かう蕎麦屋のバイク音にかき消され、鯛焼き屋から立ち昇る湯気は、向かいの佃煮屋の香りと甘く混じりあう。そこに暮らす人たちが醸す、雑多な音と香りがゆるく交錯する街のその先に、赤いファサードが現れた。


停められていたベビーカーが店を離れると、赤いペンキで塗られた小さな看板が目に入った。
「パンの店」・・・引き戸の奥の小さな店内には、所狭しと焼きたてのパンが並んでいた。その名も『とらやベーカリー』。帝釈天にも程近いこの街ならば、誰もが親しみを持って呼べる店名だろう。
並ぶパンも、「クリームパン」、「塩と黒豆」、「とらや食パン」・・・と、商品名は至ってシンプル。しかし、何の先入観も無く購入したパンのひとつひとつは、想像以上に舌を驚かせた。大小の気泡から力強い粉の旨みがぐいぐいと押し寄せるバゲット、クリームパンを齧れば、溢れるほどのクリームが生地と共にまろやかに溶け合う。菓子パン、ハード系、食事パン、どれを食べても、作り手の主張を感じさせる。

対面式カウンターには30種類以上の焼きたてパンが並ぶ。シェフの奥様による心のこもった接客も魅力だ


「とらやベーカリー」は2006年3月にオープン以来、地元の人たちに愛される店作りを目指す。この店のシェフ、森岡進さんのパン人生は、学生時代に偶然入った、一軒のパン屋からスタートした。

「大学に入って上京するまでは、パンとは馴染みの無い生活を送っていました。たまたま何も知らずに、オーバカナル(当時の原宿パレフランス内)に入ってパンを食べたんです。パンって、こんなにおいしかったんだ!ってすごく衝撃を受けて。それから色んな店のパンを食べ歩くようになったんです・・・」

当時、青山学院大学に通っていた森岡さんは進路を決める時期になっていた。「パン職人」への興味はあったが、あえて職種を拡げ、おもちゃメーカーに、医療系、商社・・・と様々な企業にエントリーした。
結果は全て内定。これならば、どんな世界でもやっていけるかもしれない。就職活動で確かな手応えを得た森岡さんは、「タカキベーカリー」に入社を決めた。


ブリオッシュ(¥399、写真左)は卵が香るリッチな口どけが後を引くおいしさ。パンドーロ型で焼きあげたプレーンタイプの他、角型の3種を展開



「1年半ほど製造の仕事をしている中で、冷凍生地で作るやり方に少し疑問を持ち始めて・・・。確かに、アルバイトの人間でも簡単に生地に触れるので、チェーン展開するには必要な方法ですが、自分は好きではなかったんです」

会社を辞め、森岡さんはオーバカナルの門戸を叩いた。学生の頃は、「未経験では無理」と門前払いだったが、今は違う。憧れの店で働けることの喜びが、長い労働時間も、容赦なく飛ぶ罵声も、全く気にさせなかった。どっぷりとフランスパンの世界に漬かることが何より充実した時間だった。1年半が経ち、一通りのポジションを学んだ頃、シェフから『大崎店を任せたい』という申し出を受けた。また、ちょうど同じ時、先輩からは「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション 六本木ヒルズ」のオープンスタッフの声が掛かった。新しい場所で、次なるステップを踏み出したい。役職も肩書きも無いポジションでも、森岡さんは迷わずロブションを選んだ。

「それが、入ってからが大変で。事情があって、オープン3日前に突然シェフを任されることになってしまって。職人としての経験はたった3年足らず、もちろんシェフなんてやったことが無い。自分には自信が無いといったら、ロブション氏に思いっきりひっぱたかれたんです。『お前しかいないからお前がやるんだ!!』って」

オープンまで3日間。構成を考え、ルセットを立て直すことにひたすら没頭した。いったい今何時なのか、いつご飯を食べたのかも記憶に無い。無論TVを見る時間も、外を歩く暇もないので、六本木ヒルズのグランドオープンが巷でどんな注目を集めているか知る由も無い。初日、なぜこんなに人が来るのか不思議でならなかったという。店に泊り込み、焼いても焼いても次々と売り切れるパンを、必死に焼き続けた。2ヶ月経ち、久々に家に帰ると、森岡さんの体重は10kgも落ちていた。
27歳。初めてのシェフ経験は壮絶なスタートだった。


パン屋らしい力強い味わいのタルトは3種類。天然酵母を使用した生地はしっかり焼きこまれ、香ばしい歯応え。あんずのタルト(¥336、写真左)は、トップのアーモンドスライス、バター、砂糖、小麦を使った甘く軽やかな生地が、あんずの酸味を優しく引き立てる


初日、空っぽになった売り場から工房を覗くと、森岡さんを見つけ、「ヨッ」と手を上げた人物が居た。
志賀勝栄氏だった。

「それが、初めての出会いでした。『志賀さんみたいな人が来てくれたんだ!』って、感動しました。経験も浅いのにこんな形でシェフになってしまって、まだまだ勉強しなくちゃいけないと思い返したんです。後から志賀さんの所にいったら、うちに来いって言ってくれて・・・1年半後、ロブションを辞めてユーハイムに入りました。でも、最初は、志賀さんの生地を見てもまるっきり手が出なかった。『この生地はこれから分割ね』って言われても、さっきの状態とどう違うのか判別がつかない。どんなに真似しようとしても出来るものじゃないですね。一緒に成形しても、焼き上がりが全く違う。どちらがいいか悪いかではなく、志賀さんの手を経たものでは生み出されるものが違うんですよね」

志賀シェフから教わった中でも、今のパン作りに大きな影響を及ぼしているのは「バゲット」。しかし、そのままでは自分の店を出している意味が無い。元々のルセットを、森岡さんなりに解釈し、ルセットや製法、発酵の温度帯を変えて独自のアプローチをしている。オープン当初から、粉のブレンド、酵母の選択など試行錯誤は今も続いている。


ライ麦バゲット(¥220、写真左)は、自家製の天然酵母を使用。バゲットは、微量のイーストで20時間、4℃から少しづつ温度帯を上げていき、じっくりと熟成させる。吸水は80%。瑞々しいクラムの断面が美しい


丸ビル、赤坂ペルティエ、銀座ペルティエと、各店では店舗責任者として、数字の管理も学んだ。数字が好きな森岡さんは、経費に対する原価率、テナント料、包材費・・・と経営の感覚を身につけていった。
そろそろ独立し、自分の店を持ちたい。志賀シェフにその意思を伝えると、「皆のお手本になるように必ず成功させるように」と、強く背中を押してくれた。その時既に、物件を見つけていたため、ユーハイムを辞めてオープンまではわずか1ヶ月に満たなかった。
33歳。就職活動をしていたあの頃から、まさにダッシュでここまで来た。

物件は知人のつてで紹介を受けた。ここからが、数字好きの森岡さんらしい。まず区役所に行って、時間毎の通行量などのデータを調べつくした。結果、勝算があったので即決。葛飾区の人口統計調査のデータを調べ、地区の高齢者の分布が多いことがわかると、おのずと店のコンセプトが決まってくる。

「地元の人から愛される、シンプルな店作りを目指しています。名前も、たまたま『とらやビル』の一階だったから、『とらやベーカリー』に。わかりやすいでしょう?ブーランジェリー・・・とか土地柄からいって合わないですからね。もし、ここにあったのが『朝日ビル』だったら『朝日ベーカリー』ですよ(笑)」

クリームパンは3種類。チョコ&カスタード、かぼちゃ、カスタード。卵の優しい風味を感じさせるたっぷりのクリームと、口どけの良い生地のバランスが絶妙


商品構成も、奇をてらったものよりも、万人受けする判り易いものを意識している。だが、一見シンプルで単純そうに見えても、ひとつひとつのパンに対するこだわりは半端ではない。例えば、菓子パン。使用している生地は全て長時間発酵を取り、フィリングと生地のバランスを徹底的に考え、常に改良を重ねている。

「クリームパンは、最近改良したんです。今までは濃いめのクリームを少なめに入れていたのですが、量を倍にして、その分軽い味わいにしました。生地はパサ付きを抑え、ソフトに歯切れ良いものに。チョコレートクリームが入ったものは、本格的なカカオの味わいを出したかったので、カカオマスを練りこんでいます。菓子パンであっても、クオリティはとことん重視しています。もちろん材料費は高くなってしまいますが、お客さんが喜んでくれる限り、いいものを作りたい」

森岡さんには2歳になるお子さんがいる。「娘の口に入れたくないものは、作りたくない」・・・そんな思いから、材料への安全性を意識し始めた。チョコレートは、一般生菌数の少ない国産メーカーのもの。あんパンにはオーガニックのあんこを使っている。国産小麦を意識して使い始めたのも、子供が出来てからだ。

とらや食パン ¥399
吸水95%。しっとりと水分を含むクラムのまろやかな口どけと、ミルキーな甘さが優しい味わい。程よい重さがあり、粉の旨みを感じさせる食パン


バゲット食パン ¥273
吸水90%。粉・水・塩・酵母だけのリーンな素材で、目指したのは「本当においしいハードトースト」。トーストすると更にクラストの香ばしさが増す



4種類展開する食パンには、国産小麦を使用。高加水が特徴の森岡さんの生地には、吸水と窯伸びの良さが特徴の昭和産業の「F」がぴったりだそう。これにフランス粉や石臼挽きの粉をブレンドする。イメージする味わいや食感に近づける為には、材料だけではなく、ミキシングの速度、パンチの有無、そして発酵にも気を使う。

「バゲット食パンは目の詰まったモチモチの生地にしたかったんです。高加水の生地は、ゆっくりとミキシングをかけて細かな気泡を作ります。パンチは入れず、これをボウルに入れて発酵します。これには計算があって、ボウルには傾斜があるので、長時間入れておくと生地に圧力がかかるんです。ボウルのサイズや、生地量によっても圧力は変わってくるので、微妙に調整することでイメージする生地の状態にもっていきます」

こうして出来上がったバゲット食パン。断面はスポンジ状の細かな気泡が透明感のある膜を形成し、しっかりとした弾力と、歯切れの良いサクミが特徴的。クラストは厚めで香ばしく、「バゲット食パン」の名前にふさわしい力強い食感とシンプルな粉の味わいが楽しめる。

クリスマスには、シュトーレンやブランデーケーキなどを販売。シュトーレンには、ローストしたヘーゼルナッツをペーストにし、アマレットで香り付けした自家製のマジパンが入る。イチジクは赤ワイン、レーズンはネグリタラム、サワーチェリーはキルシュ・・・と、それぞれの具を別々のリキュールに漬け込むこだわりの逸品


パンを作る時は、まずイメージから始まる。どんな食感にしたいか、どんな風味にしたいか。その為にはどのような生地を作り、どれくらい発酵させ、いかに焼き上げるか・・・。その度に製法や材料はフレキシブルに変わる。
“教科書通りのセオリー”にはこだわらず、既成概念を破ること。そこに一本芯が通っていれば、目指すものに向かって、時には大胆に、時には柔軟に突き進むことができる。 
その考えは、森岡さんの仕事、そして人生観にも繋がっていく。

「人にパンを合わせるのではなく、パンに人を合わせろ・・・そんな意見もありますが、僕は両方大切にしたい。少人数と限られた時間の中で、パンのクオリティを保ちながら、商売になるだけの生産量を上げるため、徹底的に効率を考えています」

現在、販売は奥様、製造は他1名のスタッフが惣菜を担当。実質のパン作りは森岡さんだけで行っているが、その生産量は、かなりのものになるという。午前中に生地を仕込み、20時間の長時間発酵で夜中の作業を無くすことも効率化の為にしているひとつの方法だ。

「毎日、娘の保育園のお迎えは必ず夫婦2人で行くんです。色々な経営者の方に話を聞くと、『仕事の前に、まずは家庭だ』という意見が実は多い。いくら名前が売れ、ビジネスで成功できたとしても家庭が充実していなければ幸せではない人生ではないと、僕自身心に決めているんです」

インタビューを行ったのは店から徒歩3分程の場所にある「Café Hakuta」。11月中旬にオープンしたばかりのおしゃれなカフェ。ランチやディナーには、とらやベーカリーのパンが登場する。ワインに合わせたドライフルーツのパンがおすすめだそう



店に篭りきりでは発想が鈍るから、と午後はリフレッシュする時間を必ず設けている。森岡さんは現在、商業デザインを勉強中。ビジネス講習会に参加したり、読書や美術館に出かけて作品に触れるなどしながら、「パン屋」という枠にはまらない柔軟な発想で、これからの「とらやベーカリー」の在り方を模索する。

「今、一番自分が人から喜ばれ、社会で通用するものは、パンしかありません。だからこそパンを通して様々なアプローチをしていきたい。時には教科書どおりのやり方から外れるということが、僕のスタイルを作っていく上で重要なんです。お客さんには、信頼関係の中で、好きなことを表現できる土壌を作ってもらっています。これは商売上のすごい強みなんです」

とらやベーカリーでパンを買い、会計する時に、レジ横の「バニラクッキー」が目に入った。まん丸の笑顔に、おすまし顔・・・。思わずクスッと笑顔がこぼれ、誰かの喜ぶ顔が目に浮んだ。じゃあ、これも一枚・・・。




「スウェーデンのオーレ・エクセルというグラフィックデザイナーがすごく好きなんです。子供の顔などのモチーフで世界中から愛されたデザイン。このクッキーを通じて、コミュニケーションが広がればいい。デザインにはそういう力があると思うんです。もちろん、見て愉しく、食べておいしいのが基本。クッキーは天然バニラに発酵バター、きび砂糖を使って、とびきりいいものにしています」

地元の人たちに、永く愛される商品を。永く愛される店作りを。
森岡さんの手の平から生み出されるパン達が、誰かと誰かをつなげるきっかけにもなる。とらやベーカリーは、これからも、この街にたくさんの笑顔をデザインしていく。 (2008.12)




とらやベーカリー
住所 東京都葛飾区東金町3-17-4
TEL03-5660-2355
営業時間11:00〜商品が売り切れ次第
定休日日曜・月曜
アクセス東京メトロ千代田線金町駅より徒歩5分






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