“この辺に本当にパン屋があるの・・・?”思わずそんな言葉が出てきそうな場所だった。東急目黒線洗足駅から歩くことおよそ7分。駅前の商店街を抜けてしばらく進むと、その先に広がるのは閑静な住宅街。道を間違えたのかと不安にかられ始めた頃、ようやく、通りから一歩入った袋小路にある小さな縦看板に目がとまった。「天然酵母のパンやさん 金土日の10:00から」。うっかり歩いていたら見過ごしてしまいそうなほど目立たない店である。しかもこの店、そもそも“店”と読んでいいのかどうか。店の目印といえば、自宅の一階の一部分を取り囲む真っ赤なアーチ、そしてその下に作られた大きな出窓。お客様は出窓に並ぶパンを窓越しに眺めた後、玄関先でパンを購入するというシステム。その姿は、店のようでもあり住居のようでもあり・・・。

「中世のパンのことを紹介したある本の中で、出窓越しにパンを売っているのを見つけたんです。ああ、こういうの素敵だなと思って」

と、店主の大和田聡子さん。2003年5月のオープン時から、ワルン・ロティをひとりで切り盛りしている。この店の立地も販売形式も型破りだけれど、大和田さんの経歴に至ってはもっとすごい。専業主婦から、独学でパン屋をオープンしてしまったというのだから。

通りから一歩入ったところに見える、真っ赤なアーチが目印

アーチをくぐると、その先にワルンロティの世界が広がります!

大和田さんは父親の転勤に伴い、6歳から18歳まで岩手県盛岡市で育った。父親の職業は育種学者。おいしいパンを作るための小麦品種を研究していた。そのため、大和田さんも小麦畑で遊んだり、研究室を覗いたりと、ちょっと特殊な環境の中で幼少時代を過ごしたそうだ。パン好きになってパンにはまるようになったのも自然の流れといえるだろう。

「結婚して今の場所に住むようになってからは、パンの食べ歩きに奔走してましたね。有名シェフの店や老舗ベーカリーのもの、ふんわり軽いタイプから天然酵母のものまでジャンルを問わずに。でもまさか自分で作るなんて思ってもみなかった。おいしいパンは外で手に入れるものって思っていたから」

まずは出窓越しに見えるパンをチェック。どれにしようかな・・・

想い出がいっぱい詰まった写真たち

もともとは食べる専門だった大和田さんに転機が訪れたのは、今からおよそ12年前。岩手県産の強力粉「こゆき」との出会いがきっかけだった。

「こゆきは父が開発した小麦。20年程前に誕生したこの粉のことをふと思い出したら、いてもたってもいられなくなって取り寄せてみたんです。早速見よう見まねでパンを作ってみたら、カチカチに焼けて見事に大失敗(笑)。でも、すごく滋味深くて味は最高でした。外国産小麦とは全然違う旨みがあるんです」

国産小麦は外国産小麦に比べてたんぱく質含有量が低くそのため膨らみにくい。また、こゆきは吸水率が高く、パン生地は重くて粘り気のあるものになってしまう。普通に考えたら製パンにはむかない小麦だけれど、このおいしい粉を使ってなんとかパンが作れないだろうか―。その日から粉と格闘する日々が始まった。

店(工房?)に入るとすぐに飛び込んでくるのが、このオーブン
東京ではなかなか見る機会のない粉、岩手県産の「こゆき」

一方、ちょうど同じ頃、パン作りを志すようになった大和田さんにとって欠かすことのできない出来事があった。隣駅の西小山に、新しいパン屋「あらまあの」がオープンしたのだ。

「『あらまあの』のパンはどれもおいしくて、そこでパンを買うのが日課になっていました。そのうちシェフの山本さん(現『パンステージ・プロローグ』のシェフ)とお話するようになって、パン作りのことを相談してみたんです」

山本シェフからのアドバイスをもとに、そして専門書も参考にしながら「こゆき」を使って試作を重ねていく。パン作りに関しては全くの素人だった大和田さんだが、続けるうちに少しずつ「こゆき」の性質が見えてくるようになった。粉の味わいを活かすには、イーストよりも天然酵母が向いていること、窯伸びしにくくボリュームの出ない欠点は、発酵種の種継ぎをして発酵力を高めてあげればある程度カバーできること、などなど。更に、焼き方についても工夫を重ね、ようやく理想のパンが完成。がっしり焼けた力強いクラストに艶々としてしなやかな弾力をもつクラム。口に入れると噛むほどに旨みが感じられる滋味深い生地。「こゆき」は時間と労力をかける価値のある粉だと確信した瞬間だった。

「発酵を安定させてあげるにはビタミンCやモルトを添加すれば良いというけれど、製パンを一から学んでいないから、そういう発想すらないんです。もちろん、ワルン・ロティのパンも、全て無添加」

独学でやってきたからこそ、学ぶことも多かったに違いない。この時に完成した「こゆきルヴァン」は、今では店の看板商品になっている。

「丸いの」と「長いの」、ネーミングにも惹かれる2種類のバゲット

「フォカッチャ」(左)と、特定の畑の小麦を使った「かやまさん家の小麦畑の黒丸パン」(右)
甘いパンも、のリクエストに答えて生まれた「洗足あんこ巻き」

おいしいパンが焼けるようになったら、次は誰かに食べてもらいたくなるのが人情というもの。出かける時には必ずパンを持ち歩くようになった。そしてある時、デパ地下にある行きつけのフードバーに持っていったところ、パンを置かせて欲しいと話をもちかけられ、ついにデビューを果たすことに。更に、その評判を聞きつけた人からも頼まれるようになった。当時、大和田さんは2人の小さな子供を抱えていたけれど、それをものともしなかったのだから、すごい。その後インターネット上で通信販売を始め、しまいには自宅の一角を改装して工房を作ってしまったのだ。こうしてワルン・ロティはオープンした。

「パン屋になりたい!って初めから目標をたてていたわけではないんです。それよりも、その時その時を思いのままにやっていたら、自然とたどり着いたという感じかな」

子供を持つ主婦でありながら、独学でパン作りを始めて店を開く・・・その経歴だけ聞いていると、さぞかしパワフルでダイナミックな人だろうと想像してしまう。けれども、大和田さんはいたって自然体。むしろ、マイペースでちょっとのんびりしているくらいに見える。

「うちにはドウコン(ホイロ機能に冷蔵・冷凍機能がついた、パンの発酵管理をしてくれる機械)がないんです。パンは気温や湿度の変化を受けやすいもの。温度管理に気をつけていても、どうしても日によってパンの表情も違ってきちゃう。お客様もそのことをわかっているから『今日の食パン、膨らんでいるのは温かいから?』なんて言ってくれて。皆さん、よくつきあってくれています(笑)」

「おやつビスケット」は砂糖も卵も不使用
「オリーブ入りのおつまみ黒パン」は、普段パンを食べない人にも好評

大和田さんの飾らない人柄と味わい深いパンのファンは多い。日に20種類焼き上げるパンは毎回ほぼ完売という人気ぶり。11時に開店して、午後の早い時間には売切れてしまうこともあるという。それほどの魅力はどこにあるのだろう。

「私自身は、粉の味わいを楽しめる、ハード系のシンプルなパンが好き。でも、土地柄年配のお客様も多いし、甘いパンやソフトなパンが好きというお客様が多いのも事実。そんな方たちのために、小豆入りの「洗足あんこ巻」や「フォカッチャ」なども作っています。
あくまでも「こゆき」と天然酵母というスタイルは変えていませんけれど」


1種類の粉だけを使ってパンを作るというのはかなりリスクが高い。しかも、「こゆき」は生産量の少ない粉。“そのうち無くなってしまうかも・・・”と大和田さん自身が危惧しているほどだ。更に、同じ粉でもロットごとに性質が大きく異なる。製パンにむかない性質のものもあるから毎回スリルの連続だという。それでも、「こゆき」の良さを伝えたい、本当においしいパンを知って欲しいという想いが、大和田さんの意欲をかきたたせる。そしてその想いは、パンのおいしさを通してお客さまに届いているに違いない。

色とりどりの手書きのプレート。眺めているだけでも楽しい


パン好きを自称する大和田さんだが、実はワインとチーズにも造脂が深い。好きが高じて教室に通うようになり、その後ワインアドバイザーとチーズプロフェッショナルの資格を取得。パンとワインの講座の講師を務めるなど、パン以外の分野でも忙しく活動している。そう、ワルン・ロティの営業日が週3日というのも、そうしたわけがあったのだ。


最後に今後のことについて尋ねてみると、

「よく将来のことを聞かれるんですけれど、どうなるのかな・・・。「こゆき」がある限りは何らかの形でパンと関わっていきたいし、ワインとチーズのこともやっていきたい。これからも自分の好きなことを追っていきたいですね」

大和田さんが10年後も20年後もワルン・ロティを続けているかどうか、それは正直わからない。けれども、ひとつひとつのプロセスを大切にしているその姿に、何よりも清々しさを感じた。

オーブンの下にあるのは大和田さんの著書「自宅でパン屋を始めました(河出書房新社)」と「おいしいパンの見つけ方 ワイン&チーズとテイスティング術(技術評論社)」 楽しいアドバイスが満載のお薦め本です!




ワルン・ロティ
住所 東京都目黒区洗足2-8-27
TEL03-5704-2105
FAX03-5704-2107
営業時間 11:00〜売り切れまで
定休日金曜・土曜・日曜
アクセス東急目黒線洗足駅より徒歩7分
URLwww.warungroti.com