桜新町の閑静な住宅街を歩く。駅前通りの喧騒を外れ、道なりには日常の穏やかな空気が流れる。サワサワ・・・という葉刷れの音にふと顔を上げた。空を覆うほどの高木が鬱蒼と茂る、塀に囲まれた大きな雑木林。道に迷い、どこかのお屋敷に入り込んでしまったのだろうか?と地図を見直すと、間違いない。ここが、「パティスリー雪乃下 世田谷」だ。入り口に下がった大きな暖簾をくぐると、背丈の2倍ほどもありそうな七福神の石像がお出迎え。敷地内には鉄板焼「古無門」など3軒の飲食店が軒を連ね、まるで自然の中の“フードテーマパーク”のようだ。


林の中に足を踏み入れて程なく、「パティスリー雪乃下」の看板が現れる。ログハウスの大きな一軒家。洋館造りの鎌倉本店とは、かなり趣向が異なるナチュラルな外観。木漏れ日が優しく降り注ぐ広々としたカフェテラスは、リゾート地のような非日常的空間になっている。ここは軽井沢の別荘地?はたまた物語の中に迷いこんでしまったのか?と、目をこすっていると・・・
「おはようございます」と、爽やかな挨拶が響いた。「パティスリー雪乃下」のシェフパティシエ、宇治田潤さんだ。


2006年10月、鎌倉小町通りに「パティスリー雪乃下」はオープンした。繊細ながら鮮烈な味わいは瞬く間に評判を呈し、都心を離れた立地にも関わらず“わざわざ行きたい店”のひとつに。そして2店舗目となる世田谷店が今年6月、桜新町に完成。これはスイーツファンにとっては嬉しいニュースだ。

「ほとんど宣伝をしていないんですよ。ゆっくり浸透していけば・・・というスタンスなので。でも、地元の方を中心に口コミで広がっているような感じですが、夏場は閉店時間を延ばさなければいけない程でした。敷地内の他店も人気なので、夕方以降の喫茶の利用も多いですね」

今、宇治田さんは毎朝鎌倉本店に寄ってから桜新町店に出勤するという毎日を送っている。鎌倉店では2階のブラッセリーと、世田谷でも敷地内の他店と連動しての営業・・・という形なので、21時と閉店時間が遅い。大変じゃないですか?と聞く前に、「取材、大変ですね。お茶でもどうぞ」と穏やかな表情で返された。若干29歳の若きシェフ、その“冷静と情熱”の秘密を伺った。


緑の中のカフェテラスがとても気持ちよい。木の上に見える小さな部屋は宇治田シェフの“パソコン部屋”になっているそう


「料理は、食べるのも作るのもすごく好きで、元々は料理人を志して調理師学校に入ったんです。お菓子に目覚めたのは、製菓の選択授業がきっかけ。卒業後は、銀座にある老舗の洋菓子店に入ったのですが、あまりの厳しさに1年足らずで辞めました。その時点で、この道は諦めかけたのですが・・・そうしたら、店を紹介してくれた調理師学校の先生から電話がかかってきたんです。怒られるのか、と思ったら『学校で働かないか?』と」

学校は、宇治田さん自身が製菓の面白さを教わった場所。ここで働いてみるのもいいかもしれないと、再び製菓の世界に戻り、学校で働くことにした。

「助手として働いていると、生徒に聞かれるんですよね。『これはどうしてこうなるのか?』『こういう時はどうしたらいいか?』でも、全然応えられない。今こうして教えている生徒が現場に出て行ったら、俺なんかすぐ抜かれちゃうだろうな・・・と思うと急に悔しくなってきて。『また、現場に復帰させて欲しい!』とわがままを言ったんです」


世田谷店はウッディな内装で、商品構成は鎌倉に比べると少なめ。生ケーキが約15種類にマカロン。世田谷でしか買えないオリジナルのロールケーキやエクレールは、厨房から出来たてが供される


新たな気持ちで、門戸を叩いたのが葉山にある『サンルイ島』。遠藤シェフの元で4年間、フランス菓子の技術を基礎から学んだ。シェフが語るフランス修業時代。オーボンヴュータンの河田氏らと共に学び、味わい、心を震わせたフランスの全て。日本の洋菓子文化に新しい風を吹き込んだ古きよき時代に、宇治田さんはフランスへの夢を膨らませた。

「本格的にフランスに行きたいと思い始めたのは、パリで活躍するアオキさんの存在を知ってから。この人の元で働きたいと思ったんです。サンルイ島を辞めるとき、遠藤シェフから『お前は俺からまだ何にも学んでない』って言われたんです。自分としては、技術は十分に学んだという自身があったんですが。でも、その言葉の本当の意味、今では何となくわかります」

作り方は習得できても、“遠藤さんの頭の中”は盗めていなかった。しかし今、自分の菓子を作る立場になって初めて、その頃の自分が学べなかったことを理解しはじめた。遠藤さんが本当に教えたかったのは、技術以外の部分だったのかも知れない、と。


ドゥミセックやコンフィチュールなども豊富に揃う。鎌倉野菜を使った「じゃがじゃがクッキー」(\550)など、宇治田さんらしいアイディアあふれた商品に注目


渡仏の準備の為、埼玉の実家に帰り、浦和ロイヤルパインズホテルで1年間勤務。その後パリに渡り、念願の「パティスリー・サダハルアオキ・パリ」にて勤務することとなった。

「アオキさんは、今までに自分が会ったことのないタイプ。ひとことで言って、超パワフル(笑)。アオキさんに会って、2年間で自分は変わったと思う。別人になったといっても過言では無いほど。お菓子に対する考え方も、人生感も・・・胸に火を付けられた、という感じです。」

アオキさんの元での仕事は、宇治田さんにとって衝撃の連続だった。作り方ひとつにしても、従来のやり方を大きく覆されるようなものばかり。『そんなやり方して大丈夫なのか?』と、傍から見てハラハラするようなことが逆にいい結果を生んだりする。その中のひとつが、サダハルアオキのスペシャリテのひとつ、“マカロン”だった。

「マカロンは、日本にいた時も、なかなかうまくいかなくて、夜な夜な練習をした記憶があるんです。それで、自分でもある程度出来るようになったと思っていたんですね。でも、アオキさんのマカロンを見て、今まで自分が作っていたものって何なんだろうって・・・それくらいショックを受けました。マカロン生地は、仕込んですぐに搾らないと油脂と糖分が分かれてきてしまうと思っていた。そこを、アオキさんは5種類なら、5種類全ての生地をそれぞれ仕込んで、置いておく。『ええっ!こんなことしたら失敗するんじゃないですか?』と慌てていると、『このほうが、アーモンドの味が良く染み込む』っていうんです。・・・実際にその通りでした」


アオキさんの天才的なセンスと発想に基づく独特の手法は、一朝一夕で体得できるものではなかったが、それでも必死で技術を学んだ。そして、技術以外の部分でも、アオキさんのセンスに幾度もハッとさせられたという。

「ある日、クロワッサンを仕上げていたら、横からお前なにやってんの?って、言われて。自分としてはすごく丁寧に折っていたつもりだったんですが。青木さんは、生地を手に取ると、ちょっと乱暴なくらいの勢いで折ってみせて。これを焼きあげて、自分のと並べると、アオキさんのクロワッサンの方が驚くほどおいしそうなんです。成形だけなのにこんなに違うのかと・・・。本当にびっくりしました」

この時、サンルイ島での出来事を思い出したという。ある日、宇治田さんが丁寧に包んだ菓子の包装に対し、「違う!」という遠藤さんの一言が飛んだ。遠藤さんが包んだものは、折り目をつけず、ざっくりとテープで止めただけ。これのどこがいいのかと、止めてあるテープをはがすと・・・フワッ!ゆっくりと紙が広がり、中のお菓子が目の前に現れた。一方、自分の包装はテープをはがしても、ガッチリと折り込まれ包装紙はびくとも動かない。
菓子にも、包装にも、有機的な生命を与えること。それが「おいしそう!」と食べ手の心に直接訴えること。パティシエに必要なのは、技術一本ではない、ということを痛感する出来事だった。

鎌倉本店では、エシレバターを使用したクロワッサンはじめ、出来立てのヴィエノワズリーや焼きっぱなしのタルトが並ぶ。(※写真は鎌倉本店です)

「就労ビザが切れてしまうので、もう帰国しようかと思っていたところで『ロンドン店のシェフをやらないか?』と、声を掛けられました。現地を視察したり、実際に準備していたんですが、結局は先に日本進出を仕掛けようと方向転換したんです。それでも、アオキさんが自分に声をかけてくれたのは嬉しかったですね。3ヶ月間だけ一時帰国して、丸の内の立ち上げに関わり、またフランスに戻りました」

フランスにいる間に、アルパジョンコンクールにてショコラ部門準優勝という功績も掴んだ。実力を備え、仕事に手ごたえを感じる中、やはり自分の店を持ちたいという思いが強くなっていく。

「アオキさんの姿を見ていると、自分でもやりたくなってしまうんです。勢いで帰国してみたものの、資金も無いし、経営のノウハウも無い。どうしようかと思っているところを、紹介でパティスリー雪乃下の話を戴きました」

「ルーロラネージュ」(¥1,260)は、世田谷店のオリジナル。しっとりふんわりとしたスフレ生地に軽やかな味わいのヨーグルトクリーム。とろける蜂蜜のソースが甘みのアクセントに

雪乃下のシェフ就任後、最もこだわったのはパリの味わいを日本の地で再現すること。素材が違う、気候が違う。何度試作しても思うような味にならず、宇治田さんは壁にぶつかった。アオキ流マカロンを再現しようとしても、日本の気候では湿気が強いため同じやり方ではできなかった。しかし、宇治田さんは妥協しなかった。

「どうしてもあのマカロンが忘れられなくて、どうにか再現しようと研究しました。今やっているのは、はじめに砂糖を全部入れて、15分くらいかけてゆっくりと長く混ぜていくんです。そうすることで、細かくしっかりした気泡を作っていく。焼きあげも、低温でじっくりしっかり焼きあげています」

マカロンには、シシリー産の荒挽きのアーモンドを使用。カシャッと崩れる繊細なシェルの中からは、しっとりもっちりとした生地が顔を出す。ふわりと広がるアーモンドの香りが、滑らかなサンドクリームの味わいと共に広がる。“心地良い”余韻を残すマカロンだ。

世田谷店で販売するマカロンは全5種類(1個210円)。詰め合わせのセットも人気


先日、某雑誌のマカロン批評にて、ラデュレやアオキ、エルメなど錚々たる店の中、パティスリー雪乃下のマカロンの評価があまりに高く、現場で“番狂わせ”になったという。

「日本には四季があるので、食感がブレないように、混ぜ、焼き、砂糖を加えるタイミング、卵白の温度や状態など全ての製法を細かく調整しています。答えがひとつじゃないのが面白いところですね」

相当の時間を費やしているであろうマカロンの試行錯誤も、すがすがしく“面白い”と言い切る。まだまだ、のびしろがある、と感じさせるしなやかな若さに、今後の展開にも期待は高まるばかりだ。

店内の厨房で焼きあげるエクレールはショコラ、フロマージュ、ノワゼットの3種類。細身のフォルムだが、香ばしいシュー皮と素材感溢れるクリームが力強い味わい


「今日は特に出来がいいです」と、シェフも太鼓判のエクレールを早速戴いた。シルクのように舌の上を滑る、なめらかなキャラメルクリーム。ギリギリまで焼きこんだシューはサクッと歯切れ良く、表面の芳ばしさと内層のしっとり感が共存している。生地の心地よい塩気と粉の味わいが、甘いフォンダンと絡み合い、思わず笑顔になる。シンプルさゆえ引き立つ絶妙な味わいのバランスに、感謝したくなるほど。

「もちろん、個性を強調することも大切だと思いますが。何より大切にしているのはケーキ全体のバランス。チョコレートひとつでも、ケーキによって使い分けています。エクレールに使っているのは、イタリア・ドモーリ社のスル・デル・ラゴ。ベネズエラ産のショコラは、甘さ控えめでフルーティーなので、エクレールのようにストレートに味わうにはぴったり。ショコラショーにしても美味しいです。ミルフィーユも、クリームと一体化したおいしさというのもある、という思いからあえて片面だけキャラメリゼしています」



シュークリームひとつでも、クリームの濃度、シュー皮の配合、そして両者のバランス・・・と様々な組み合わせが頭をかけめぐる。色々やってみたくて、と世田谷と鎌倉では配合を少し変えて出している。新しい味わいへの貪欲さは、ご自身の「無類のうまいもの好き」によるものだという。好きなのは、濃厚な肉料理。秋はやっぱりジビエ。フランスのビストロで食べた鴨の味わいはもう一生忘れられなくて・・・「うまいもの」の話を始めると、もう止まらない。そんな宇治田さんらしい、とっておきのレシピがあるという。

「『タルトピスターシュ』という、秘蔵のタルトがあるんです。これは、フランスの「エレーヌダローズ」というレストランで出会った、フォアグラとピスターシュのブリュレが原案。サレの前菜だったのですが、その味わいが鮮烈だった。これをタルトに・・・と作ってみたら、大好評で。実は来年の9月、みなとみらいにパティスリー雪乃下の3号店が出来るのですが、その時にお披露目するつもりです」

タルトカフェ(480円)※鎌倉本店、イートインのみ




いつか鎌倉店で食べた、「タルトカフェ」を思い出した。トップの滑らかなカフェクリーム、香ばしいシュクレ生地と極限まで柔らかなブリュレのコンビネーション。それをピスターシュ、フォアグラに置き換えて・・・うん。間違いなく、美味しそうだ。他にも、エピスやハーブなど、料理からインスピレーションを受けたアイディアがたくさん。でも、それはまだ宇治田シェフの頭の中で、静かに出番を待っている。

“技術だけではない、パティシエに必要なもの”
耳を澄まし、感じたものの全てを、29歳の若きシェフはその手で実現しようとしている。その物語は、まだ始まったばかりだ。(2008.10)



パティスリー雪乃下 鎌倉 
住所 神奈川県鎌倉市小町2-7-27
Tel0467-61-2270
営業時間11:00〜21:00
パティスリー雪乃下 世田谷 
住所 東京都世田谷区弦巻4-14-1
Tel03-5426-5677
営業時間11:30〜21:00
※鎌倉店、世田谷店とも、年中無休 






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