ボウ・サーブル フランス

石井紘史 氏
帝国ホテルでパンを作って23年。その間2年ほどパリ、南仏などをまわる。4年前、ここ「ボウ・サーブル フランス」をオープンさせる。



「まだあまり知られていない、美味しいパン屋が鎌倉にある」。そんな情報を頼りに訪れたのは、鶴ヶ丘八幡近くの、通り過ぎてしまいそうなほど小さく簡素な店だった。入るとすぐ「パイナップルの酵母を使ったパンです」とかかれたミニサイズの食パンが目に留まった。それを見た私たちスタッフ全員は同時に、ここは面白そうな店だぞと思ったのだった。

「パン作りをやりたいからやっている。それだけのこと」という石井氏のこの店は、時間内にとにかくたくさんの数のパンを作らなくてはならなかったという過去の経験、ホテルでのパン作りとは対極にある。

ここ「ボウ・サーブル フランス」では夜中の12時半の仕込みから焼き上げまで、じっくり納得のいくまで手間と時間をかけて作る。「こだわったら小麦から作らなくてはならなくなる」と、特別素材に対するうんちくはない。ホテル時代使っていた発酵バターも、特別使う必要性は感じず使っていない。塩も普通の塩である。しかし出来上がるパンはパン屋激戦区鎌倉にあって地元の人を中心に人気なのだ。手間をかけるということが、素材うんぬんよりいかに大切なことかを人気は物語っている。

何ごとも「お客様第一」というホテルに対して、石井氏のポリシーは「客観より主観」。自分が美味しいと感じるものを作ることが第一と言い切る。
休憩時間だ休みだと、交代で人が入れ替わるホテルでは酵母を起こして管理することはとてもできなかったという。現在のお店では、フランス修業時代に学んだ自家製酵母の基礎を活かしながら、様々なものを使って自家製酵母にチャレンジしている。その心は「楽しいから、好きだからやっているだけのこと」。店頭にあった、パイナップル酵母もその一つ。
そういった珍しい酵母で作ったパンを店頭に並べる事で、パンを通じてお客さんと会話ができることも楽しみだという。時にはお客さんが自分で作ったものを「是非食べて」と持ち込んでくることもあるそうだ。これもまたホテルや大きいお店では味わえない距離、小さいお店ならではの作り手と消費者の距離である。

人気商品はまず食パン。このパンのファンでありリピーターであるのは地元の人々。そして昼時のデニッシュやブリオッシュも好調である。フィリングには自家製の煮たリンゴなど、その時々で手にはいった美味しいものが石井氏の手で加工されて入ることもある。売り場の何倍もある奥の厨房で、日々食事パンや菓子パンの生地を仕込んで、フィリングを作って、新しい酵母を開発して…一体いつ石井氏は眠っているのだろうと、こちらがふと考えてしまうほどパンと石井氏の生活は重なっていた。

「楽しいから」「好きだから」「やりたいから」この3つの言葉がいつでも石井氏の心になければ、毎日夜の12時半に起きて仕込みを始めることなんて絶対に続けられないだろう。生まれてくる美味しいパンは3つの言葉の上に石井氏がやっている仕事の単なる結果なのだ。
「真面目にやっているパン屋は匂いが違う」というのは石井氏の言葉だが、そう遠くないうち、東京中心部にこの「いい匂い」のする石井氏のお店が進出するという話がある。鎌倉に劣らないパン屋激戦区への出店も楽しみである。
取材日 1999年


石井さんの秘密