フレダーマウス

八木 淳司 氏



とにかくお菓子が好きというそれだけで、最初はこの世界に入りました。その頃はまだ、お菓子はただ洋菓子とひとくくりにされていた時代で、スポンジに生クリームと苺が乗っていれば何でも売れるという感じでした。最初は何もわからず、とりあえずこの世界に入ったのですが、私自身がクラッシック音楽が好きで、どうしても、ウィーンフィルハーモニーを生で聞きたくて、それも、1度2度じゃなくて死ぬほど聞きたいというのがありまして。そこに、ウィーン菓子というのがあるというのを聞いて、これは、と研究しだしたんです。そうしたら充分に面白い、という感じで。だから最初からパリに行くことは考えていませんでした。頭にあったのはウィーンだけでしたね。

ウィーンに修業に行ったのは24の時ですが、実はその前、21の時、旅行で行ったことがあるんですよ。その時たまたま、ウィーンでお菓子の修業をして日本に帰って店をやっている人がいると聞きまして、帰国するなりその人に会いに行ったんです。それで一緒に1年半くらい仕事しました。私の国内での師匠です。僕といくつも違わない人だったんですけど、彼は29のとき、心臓発作で死んでしまった。日本人でウィーン菓子をやっていたのなんて、彼しかいなかったからもう、自分で行くしかない、と。それで、向こうに渡りました。

ウィーンではホテルで働いていたんですけれど、お菓子の奥深さに、自分の引き出しに入りきらないことがすごく多くて、カルチャーショックはすごくありましたね。オーストリアの人達は、自分達の文化であると、お菓子にとても誇りを持っています。言葉がわかるようになると、どんどんのめり込んでいきました。お菓子の単純な作り方だけじゃなくて、文化とか歴史が見えてくるとますます面白い。マイスターの試験を受けるようになるとますますそんなことが気になってきました。

マイスターの試験は、渡った時は考えていなかった。やっていくうちに、これもやってみたい、これも、と思って、1年2年のつもりが結局8年、ウィーンにいました。毎年、労働許可書がでると、あ、また1年いられる、やりたいことができるって嬉しかったですね。当時、オーストリアでマイスターをとった日本人は過去にいなかったので、試験を受けるための手続きだけで1年かかりました。マイスターのための試験は、大きく実技、筆記、面接。半年かけてそれぞれを勉強しました。筆記は簿記など、お店をやることが前提の内容。技術は実技で。面接ではオーストリアの憲法や民法など。ドイツ語がびっしりの、分厚いテキストで夜学に通って勉強しました。辞書と首っ引きで赤線引きまくりました。

働いていたホテルのチーフが協力的だった。実技の前には、俺と同じようにやれば絶対受かる、って一緒に最初から最後までお菓子を作ってくれて。本当に嬉しかった。おかげで実技には自信がでて、落ちるなら面接かなあと思っていました。事実、ドイツ語での面接は、途中からパニックになって、質問の意味がわからなくなってしまったりしました。それでも、20人で受けて11人が合格、そのメンバーに入ることができました。合格したときは、もう、嬉し涙です。向こうにいって5年目くらいのころの話ですね。マイスターというのは、ただ、店をもつだけじゃあなくて、15から18の人たちに技術を伝えなくてはいけない。伝えなくちゃ意味がないですし、恩返しができないと思っていましたから、すぐに日本に帰りたいとは思いませんでした。実際、2人若い人をマイスターに合格させることができ、少しは恩返しができたかなと思っています。希望通り好きなクラシック三昧もできたし、本当に勉強になった8年でした。

帰国して、バブルの頃のめちゃくちゃ土地の高い東京ではなくて、縁あって名古屋に開店することになりました。地元の人だけだったら商売としてきついですが、現在、思ったより遠くからお客さんは来てくださっています。毎日のように、「場所はどの辺ですか」っていう電話がかかってきます。どちらのほうから、なんて聞くと、「横浜です」なんて言われて驚くことも少なくはありません。

作っているお菓子の配合は、ウィーンで学んだまま。余り日本人に合うとか合わないとかは考えていないんです。旨いものは誰が食べても旨いと思っています。あとは好みで、全てのお菓子が全ての人に合うとは思っていませんが、買って帰った4つ5つの中で、1つ、気にいったものがあってくれればなぁと思っています。
取材日 2000年1月


八木さんの秘密