薫々堂
亀山裕子さん 
<経歴>

1971年生まれ。横浜市出身。
駒澤大学中退、辻調製菓専門学校卒業。
「横浜プリンスホテル」就職後、渡仏。
フランス国立製パン学校で学び、フランスのパン職人国家資格を取得。
フランス国内のパン店で働いたのち、帰国。
「ホームベーカリー・モモヤ」を経て、鐘淵化学工業株式会社で、パンの開発に携わる。
2002年同じくパン職人である修二氏と結婚。
2003年3月「薫々堂」オープン。

   


大きな丸い目、小さな身体。かわいらしく、歳よりずっと、若く見える彼女こそが「薫々堂」の店主である。「若いのに、多額の設備投資が必要なパン屋を起業!? もしかしてお嬢様!?」と、思いながら話を始めると、小さな声ではあるが、堂々とこちらの質問に対して的確な答えを返してくれる。実に落ち着きのある人なのだ。これなら、信頼してお金を貸す気にもなろうというものだ。さて、いったいどんな過去が、と開業までの道のりを聞いてみると、思いがけないほど、その経歴は濃密だった。さまざまな業界でパンに携わり、経験を積んだ彼女の話はとても興味深い。パナデリア史上類を見ない長い記事ですが、興味のある方はぜひご一読を。


●大学中退しても、パン屋さんになりたい●

「パン屋さんを志した理由は、自分がなにをやっているかわかる仕事がしたい、と思ったからです。大きな会社に勤めると、その会社がなにをやっているかわかりづらい。一生懸命働いている会社が公害や、環境汚染を起こしていても、大企業だとわかりづらいですよね。たとえわかったとしても、社員としてそれを止めることもできないだろうし。でも、パン屋さんであれば、自分がパンを作って、食べておいしいかどうか、というシンプルなもの。そして生活に密着しているものなので。なぜパンかというと……、農業をやったとしたら、もっと理屈が通っていたでしょうね。でも、そこまでやる根性がなかったんです(笑)」

小さい頃からパン屋さんに行くとなぜかほっとできたという。いまはなき横浜の老舗パン店「デルソーレ・フルヤ」の、そぼろのついた甘いパン、ソンブレロが当時のお気に入りだったとか。しかし、高校生になり、両親にパン屋さんになりたいと相談したところ、猛反対される。

「体が弱かったし、朝寝坊だったので「お前がパン屋なんてできるわけがない」と。「どうせ大学入れないから、そんなことを言ってるんだろう。なにになるかなんて、大学に入ってからにしろ」と言われました。3年間、そのことで親とケンカをし続けでした(笑)」



負けず嫌いだったのだろう、それならば、と彼女はストレートで駒澤大学の文学部社会学科に入学。心理学を専攻することにした。ところが。
「大学は1年で辞めました。やはりパンをやりたかったんです。手の仕事なのであまり歳をとってから始めないほうがいいんじゃないか、と。いま思えば、3年くらいたいした違いではないのですが、そのときは、そう思ったんです」
あまりの熱意に両親もついに折れ、翌年、大阪の辻調理師専門学校の製菓部門に入学する。

「当時はパンコースがなくて、製菓に入ったんです。一応パン専攻を取ったのですが、実際は月に2回くらいしか授業がなくて、ほとんどお菓子ばかりを作って、食べていました。でも、あのときお菓子をやっていてよかったと思います。材料など、すべてフランス語を使って授業が行われたので、のちに、実際自分がフランスに行ったとき、その経験がとても役立ったんです」

さらに、当時日本では売ってなかったフランスの伝統菓子を習い、食べたことで、舌が肥え、本物のもつおいしさを知ったという。辻調で1年間学修し、卒業。実家に近い、横浜プリンスホテルに就職を決めた。
「当時はパンのことがよくわかっていなかったので、ホテルのパンは立派なんだろうなぁ、と単純に思ったんです」 ベーカーのなかの製パン室に配属された彼女は、ここで日本におけるパンの地位をはっきりと知ることになる。
「ホテルはヒエラルキーがとてもはっきりしていて、上からフランス料理、和食、イタリアン、中華、製菓、そして最後にパンなんです。作るところも他とは違って、リネン室の隣にありました(笑)」  
ヒエラルキーは料理間だけではなかった。職人のあいだでも上下関係はかなりきびしかった。

必死になってパンを作ったホテル時代。そのとき多くの先輩に言われ、そして心に残った言葉があった。
「これは本当のフランスパンじゃない」

●本当のフランスパンを求め、本場フランスの国立学校へ●

「じゃあ、本当のフランスパンってなんなんだろうと思い、プリンスを辞めて、フランスのルーアンにある国立製パン学校で学ぶことにしたんです。パン職人の国家資格をとるための半年コースです」
通称INBP(Institut National de la Boulangerie Patisseri)と呼ばれるこの国立製パン学校は、「メゾン・カイザー」のエリック・カイザー氏が講師を勤めたことで、いまや日本でも有名な学校。

「この学校は『B&C』(パン業界誌)で見つけました。入学するために、願書と、やる気あります!、という手紙をフランス語で書き、送りました。フランス語はできなかったです(笑)。当時NOVAに通っていたので、先生に教わりながら、パンに対する思いを書きつづりました」



1994年2月にINBP入学。ここは失業者の多いフランスでの雇用対策のためか、卒業と同時に国家資格の受験資格が与えられるフランス唯一の学校。そのため、フランス人生徒の経歴もマチマチで、高卒や大学中退、もと郵便局員など、上は40歳くらいまでいたとか。
話によると、フランスではパン職人のほとんどが、中卒で、親方のもとで2年間見習いをした後、国家資格の受験をし、合格すると一人前のパン職人として最低賃金を得ることができるそうだ。ちなみに資格をとる前の見習い期間は無給か、もらえても微々たるものだそう。

「学校で学ぶのは、パンのことだけではありませんでした。パンの実技と理論のほか、国語と算数と理科と社会がありました。でも、算数や理科など、パン屋さんチックな内容でした」 
算数では給与計算や、弟子に対する遺産分割が例題に使われた。理科では消化に関することや、換気扇の仕組み、社会は労使関係のことなど、パン職人として必要な周辺知識をしっかりと叩き込まれるのだ。

「パン屋さんの学校なので、始業は朝6時なんです。学校に行くと、パンのオーダーが黒板に書かれているんです。焼き上がりが何グラムのフランスパンを何本と、焼き上がりが何グラムのカンパーニュを何個と、といった具合です。それを見て、焼き上がりが500グラムということは、焼くと水分が飛ぶから生地は何グラムで、それを何本だから、何キロ仕込んで……、と自分で計算して作るんです」
日本の学校では、粉は何キロ、水は何CCと、決まったレシピに基づいて作るのが通常だが、フランスではまず、オーダーありき。

「なるほどなぁ、と思いました。実践的だなぁ、と。しかも、作る量が半端じゃありませんでした。日本だったら、6人グループで作るような量を独りで作るんです。仕事みたいでおもしろかったですけど。窯を使う順序もきびしくて、窯をめぐってのいがみあいがあったりするんです(笑)。だから、窯の状態をちゃんと読んで、あの人がいま焼いているから、発酵時間を考えて、まずセーグルを作ろう、と考えるようになりますね。最終的には、半日の実習時間内に4種類くらい作っていました。わたしはプリンスでの経験があったので有利でしたが、初めての人はたいへんみたいでした。フランス人の男の子とか、泣いちゃったりして」

実習が終わると、その日、自分が一番上手にできたと思うパンを各生徒3本ずつ選び、棚に美しくディスプレーしたそうだ。先生はそれを見て、トップからビリまで点数をつけながら発表。
「これはお話にならない、なんてズバッといわれます。製造過程ではなく、とにかく出来上がりを見てきびしく評価されました。本当に実践的なんです。例えば、ある日突然、粉の桶に入っている粉のメーカーが変わっているんです。わざと変えているので、先生はそのことを生徒に言いません。よく見ると、微妙に色が濃くなってたりするんですが、仕込んでみて「いつもと様子が違う」というのがわかるんです」
迷っていたら、その日のパンは焼けなくなる。こうして、どんな粉であってもきちんとパンをお客さんに提供する術を体得していくのだ。

「結局、本当のフランスパンがどういうものかはわからなかったんです。でもフランスでは、粉にあわせて仕事をすることを大切にしている、と思いました。先生は"悪い粉屋がいるわけではなくて、ただ、腕の悪いパン屋がいるだけだ"と」
無我夢中で半年。彼女は卒業間近に受けた国家試験を見事クリアした。



INBPを卒業した彼女は、修業に出る。「ユーロパン」というパン関連の見本市で目星をつけた店に、片っ端から履歴書を送った結果、海沿いの観光地、ロワイヤン(Royan)のパン店「au pain Dore」で住み込みの季節労働者として働くことになった。

「夏はバカンスで人が集まるんです。それで、忙しくなる夏期だけ職人を雇うんです。その店は石窯で焼いていたので、建物の上階まで煙突が続いていて、上の階は暑いんです。それで従業員をそこに住まわせていたんです。そのお店で1年弱くらい働きました。作っていたのは、主にパン・スペシオというバゲット以外のハード系のパン。バゲット・カンパーニュ、セーグル、セレアルなどですね。生活は朝の3時くらいに起きて化粧もせずに下にふらふらと下りて……、といった感じでした。ゴハンは食べている暇がないんです。ピークは12時間くらいずっと働き通しでした。わたしは捏ねて成型するだけ、焼くのはオーナーだったので、パンの焼けるにおいがしているのに、食べられないんです。ひもじかったです。午後の2時くらいまで働いて、ようやく食事。マダムに「バゲット1本盗んでいい?」と聞いてもらったバゲット1本と、部屋でオムレツを作って食べてました。お腹が空きすぎて食べる気力もなくなっているんですが、バゲットは1本ぺろっと食べていましたね(笑)」

せっかくフランスにいながら、休みがなかったため、市場やスーパーに行くのもままならなかった。「au pain Dore」を辞めてからようやく、帰国までフランスやヨーロッパを旅行し、パン&お菓子三昧。
「なんておいしいんだろう!と、思ったのは、ショソン・オ・ポム。あとはクイニーアマンはブルターニュで初めて食べて、感動しました。フランスには、本当にいろんなパンやお菓子がいっぱいあることを知りました。その旅行はフランス人と一緒だったんですが、その人はクイニーアマンのことを、読み方さえ知らなかったんですから」


●本場フランスパンの次は、日本のパン●

日本に帰国した彼女は、転職雑誌「ガテン」で次の仕事場を見つけた。
「東京は阿佐ヶ谷の「ホームベーカリー・モモヤ」という、上食とか置いてあるようなお店で働くことにしました。おじいちゃんやおばあちゃんが買いに来るような、商店街のなかの小さな店です。経営をしていたのはおじいさんで、製パン歴40年以上、の方でした。そういう人の下で働きたい、と思っていたし、いままでが、ホテルやフランスだったので、わたしにはカレーパンや甘食、そういった日本のパンが欠けていると思ったんです。フランスのパンもいいけれど、日本のパンもおいしいな、まじめに日本のパンもやりたいな、と」

ちなみに、当時彼女は辻調時代の同級生とルームシェアしていた。その女性は現在、「薫々堂」を手伝ってくれている。
「この店で働いてよかったと思えたのは、モノを大事にし、業者さんも大事にする姿勢でした。出入りの業者さんなどに対して、威張っているところ、少なくないですから。あとは、20年以上ずっとその場所でパン店をやっているので、お客さんを小さいときから知っているんです。人生のつながりが感じられ、そういうところが、フランスのパン店とまったく一緒だな、と思ったんです。そのとき、いつかこういう人や町とのつながりを大事にしたパン屋さんをやりたい、と思いました」

ところが「モモヤ」は、大型チェーンパン店の進出などにより、経営状態が悪化。ビール酵母パンなど、新作パンで巻き返しを図るもあえなく撃沈。
「店のカラーにあってなかったので、売れなかったんだと思います。むしろレトロ方面で攻めた方がいいと言ったのですが……」



結局「モモヤ」を辞めた。そのとき25歳。心機一転、彼女はパン職人以外の仕事を志した。
「パン職人の仕事は体力的につらくなっていましたし、事務で採用してくれる年齢の上限が当時ほとんど26歳だったので。そこで、いつもは「ガテン」を読んでいたんですが、そのときは「とらばーゆ」を見たんです。そこにパン開発の仕事があったんです」
彼女が見つけたのは、鐘淵化学工業株式会社、通称KANEKA(カネカ)。事業内容は、合成樹脂、化成品、樹脂加工製品、食品、医薬品などの製造及び販売。食品では、イースト、チョコレート油脂などを作っている。

彼女に与えられた仕事は、カネカで作っている材料を使って、新しいパンを開発することだった。チェーンパン店などでよくお目にかかる、季節にあわせたフェアもののパン、彼女はその開発と提案を行うことになった。
「春ならストロベリー、といった具合です。フェアなので、目立つ、奇抜なものを考えていました。あとは、パートさんでも作れる簡単な工程であるかどうかも重要でした」
本場フランスの国家資格を持つ人のイメージから、あまりにかけ離れたパン。しかし、彼女はそこで5年間、働いた。

「一人で考え、作り、デジカメで撮り、お客さんに自分で持っていき、説明して、でした。おかげで頭が本当にやわらかくなりました。材料の試験もあったので、材料についての勉強もできました。老化を遅くさせるために、卵黄を多くする。逆に卵白が多いと、老化が早い。粉を強いものにすると老化が遅い、などはここで学んだことです。また、お客さんからの要望にあわせたレシピの開発もしました。特に楽しかったのは、それまでは自費でパン屋さん巡りをしていたのが、仕事でお金をもらって買えるようになったことですね。情報をお客さんに持っていくのも仕事のひとつだったので。パナデリアはその頃、よく見ていました」

突然「これと同じパンがつくりたいんだ」と、パンが送られることもあったという。そうなると、自力で配合を考え、同じものを作らなければならない。オーダーを見て逆算して生地を作る、というINBPの経験がきっと役に立っただろう



●出会って5ヶ月・運命の結婚、そして「薫々堂」オープン●

「カネカを辞めたのは、ある程度実績がついてくると、どんどん規模の大きなパン屋さんを任されるようになったんです。そうなるとほとんど工業化なんです。わたしはやっぱり職人でいたい、このままでは職人に戻れなくなるな、と思ったからです」
カネカでは、お客さんであるパン店に、ディスプレーや商品構成といった経営的な相談にものっていた。しかし、時代の流れからか、彼女の提案に躊躇している間に、地方のパン店が次々につぶれていったという。
「私は、自分の店じゃないから、なんでも言えるんだろうな、と思ったんです。無責任な感じがしました。同時に本当は自分でパン屋さんをやりたいんじゃないか、と思ったり」
女性ならでは、年齢的な問題もあった。
「結婚しても仕事を続けるなら、この会社は有利でした。でも当時は結婚の予定もなく、好きな人もいなかったので(笑)。お店をやるんだったら、体力的にも考えて、30代前半には店を持ちたい、と思ったんです」



辞めたはいいが、カネカにいた5年のブランクは大きかった。開業知識も蓄えなくてはならない。彼女は「ルノートル」でアルバイトをする傍ら、女性のための起業入門講座や、ビジネス立ち上げの実践講座に通った。にわかに動き出した彼女の運命。なんとそれは、恋愛にも及んでいた。

「そうこうしているうちに、結婚することになってしまったんです」
お相手は、「薫々堂」で現在シェフを務める、亀山修二氏。縁結びになったのは、横浜プリンスホテル時代の先輩で、練馬で「アンジェリーナ」を経営している隅章氏。隅氏に頼まれデパートの催事の手伝いに行った際、修二氏と初めて出会った。
「彼は身体をこわして、「ブノワトン」(神奈川県伊勢原のパン店)をやめてブラブラしていたところを、隅さんにつかまったんです。彼は「715」(原宿の「セブンクォーター・アネックス」現在は閉店)にいて、それから「アンジェリーナ」に行って、「ブノワトン」にいたんです」

出会いは2002年5月、結婚は同年10月。5ヶ月のスピード結婚だった。 「当初、「薫々堂」は「ルノートル」で一緒に働いていた女性とやる予定でした。ところがその女性が怪我をしたり、自分が結婚してしまったりと、ちょうどそのころ、話が違ってきていたんです。
一方で、彼とつきあいだしたものの、開業準備が忙しいため会う暇もなくて。「じゃ、結婚しよう」ということになってしまったんです。親は喜んでくれました。髪も短いし、職人ぽくていいんじゃないか、と(笑)」



そして、結婚から半年、2003年3月「薫々堂」がオープンした。
「「薫々堂」という名前にしたのは、まともなパンを焼いている香りのする店にしようと思ってたからです。「薫々」というのは、クンクンって音でも香りということがわかるし、もちろん字でもわかりますし」

経営状態は? と聞くと、「オープンしてから、日も浅いし、苦戦中です」と苦笑い。しかし、情報誌に紹介されるなど、「薫々堂」の評判は確実に広まり、またファンも増えている様子。
「最初のメニューはわたしが決めました。食パンをメインにしたかったんです。日本に帰ってきて、日本で食べたいパンって食パンだな、と思ったからです。フランスパンもおいしいけれど、老化も早いし、日本では毎日食べたいパンではないと思ったので」

いまではシェフが新しいパンを作るなど、開店当初よりパンの種類はずいぶん増えた。
「地域性を考慮したメニューを考えたりしています。作りたいのは、フランスのものでも、日本のものでもトラディショナルなもの。それでいて個性のあるもの。トラディショナルなものというのは、必然性があるものだと思うのです。よく言われることですが、フランスにフランスパンがあるのは、フランスでとれた粉でフランスパンができて、汁の多いフランス料理につけて食べるのにフランスパンはピッタリ。そして、フランスでできるチーズとワインもフランスパンにあっている……。あるべくしてある、ってことなんだと思うんです。一時期けったいなパンばかりを作っていた、その反動かもしれませんけれど(笑)」
もう少し、客層が広がったら天然酵母のパンも焼きたいとか。とはいえ、いまのところは高齢者の多い地域性に合わせたパン中心。まさに必然性のあるメニュー構成というところか。

パンがやりたくて大学を中退し、本当のフランスパンが知りたくて渡仏までした、一本気な彼女の夢はいま、ようやく叶った。職人としての腕は一流でも、経営手腕の弱さから、店を維持できない人もいる。しかし、"パン"と"パン店"をさまざまな方面から見つめてきた彼女には、そんな心配は必要ないだろう。さまざまな経験が練りこまれた「薫々堂」のパン、ぜひ一度ご賞味あれ。

(取材・文 伊藤まさみ)



薫々堂
神奈川県横浜市泉区和泉町3857-10
045-805-0403