ラ・メゾン・デュ・ショコラ  

ロベール・ランクス氏


取材・文 浅妻 千映子
写真 土居 麻紀子

フランス、バスク地方の生まれです。スペインに隣接するこの土地は、16世紀にフランスの中でもっとも早くチョコレートが入ってきた土地なのです。私はパティシエ養成学校を卒業後、地元のパティシエで見習いとして働いていました。

その後、スイスの国際料理学校に。その授業料のためにパリで働きましたが、2年働いてやっと2ヵ月分の授業料にしかならない。3ヶ月目のは、親が持っていた株を売って払ってくれました。それほど高い学校で、生徒は社長の息子ばかりでしたね。

ここでチョコレートを食べた時のことは、今でもよく覚えています。「こんなに繊細で、こんなに日常から離れたものがあるのか!」と心の底から驚いたのですから。今でこそ信じられないでしょうが、当時、チョコレートは、スイスでこそ浸透していましたが、フランスではなかなか売れないものでした。多くの人はイースターとクリスマスにしか食べないのです。味も私がスイスで教わったレベルにまで達していなかった。だからね、フランスにまだ存在していないものを自分がこれから作っていくんだ、という満足感はありましたね。


スイスから戻ったパリでは、最初、ショコラだけでなくケーキもトレトゥールも売る店をやっていました。実はこの店、3年で4人も経営者が変わったという店で、立ち直らせるのは並大抵のことではなかったんです。6年間、誰も雇わず自分ひとりで店の掃除までやりました。朝も早い職業ですが、夜1時前に寝たことはなかったです。あのきつい時代は2度と嫌ですねえ。20代の青春時代がこの店だけで終わってしまい、他には何もできなかったのですから。スイス帰国後に結婚し、この時代を共に過ごした妻には、今でも「私の青春はどこへ?」と言われているんです。

1955年25才から働いたこの店を、13年後に売却。『プレール侯爵夫人』という店の名が初めてマスコミに登場したのはこの時でした。そして10年後。私はパリのサントノレ通りに、14℃に保てるワインのカーヴを買いました。そこを改装し、チョコレートだけを売る店『ラ・メゾン・デュ・ショコラ』を開くためです。準備に追われていたオープン数日前、ひとりの男性が店をのぞいていました。誰かと思えば、何と『プレール侯爵夫人』売却を記事にした記者だった! 偶然にも私を発見した彼は、またもや『ラ・メゾン・デュ・ショコラ』オープンを記事にしてくれたのです。

彼のおかげもあり、また以前の店からの常連も多く訪れてくれたこともあり、万全を期してオープンを迎えたにもかかわらず、たったの4日で全商品がなくなってしまいました。本当のチョコレートの味をみんなが知ってくれたのでしょう、その後も飛ぶように売れ、10月28日にクリスマス商品を出せば11月10日にはなくなってしまうという具合でした。さすがに忙しく従業員を雇いましたね。オープンから数ヶ月で13の雑誌に店が紹介されましたが、わたしは安心しませんでした。逆に、今よりもっと厳しくならなくてはと、レシピをすべて見直したほどです。

当時のボンボンショコラは、4,5種類はオリジナルもありましたが、スイスで習ったものがほとんど。それを自分なりに少しずつ替えていきました。もっとずっと経って、「もしかして少し才能があるのかも」と自分のことを思いはじめてからです、積極的にオリジナルを作り始めたのは。

今ショーケースを見ると、面白いものでは"マイコ""ヨウコ"というのがありますね。"マイコ"は京都の舞妓さんのイメージから。"ヨウコ"は、私が日本にまだ店を出す前、年に一度日本で講習などしていた時期があるのですが、当時の通訳の名前です。

日本に初めて来たのは1970年の大阪万博のとき。77年が『ラ・メゾン・デュ・ショコラ』のオープンで、79年にある日本人が店を訪ねて来たのが今につながるきっかけです。旅慣れた風のその人が、「私はヨーロッパ中を知っているけれど、あなたのチョコレートほど美味しいものはない」と言ったんです。「私はヨーロッパ中は知らないけれど、私のチョコレートは美味しいと思う」と返事をしました。しばらくのちにその人が、数人の日本人を連れて来た。そこで、「是非東京に招待したい」という話をいただいたのです。

1980年、30人近いスタッフで来日し、4,5日のデモンストレーションをしましたが、お金はいただかなかったんですよ。有名シェフがフランスからくれば1日につき百万単位でお金をもらえた時代に。そのかわり私は、日本を色々見せてくれと頼みました。それが京都であり、舞妓さんであったわけです。このイベントは数年続きましたが、毎回の通訳がヨウコさん。とても魅力的な女性で、「いつか私の名前のチョコレートを作ってね」と。

毎年見る日本は、日本食も含め素晴らしかった。当時からもちろん今も、大好きな国です。1988年ニューヨークに海外一号店店を出し、98年に日本へ。まだ日本ではチョコレートは日常には入って来ていないようですが、私が最初に話した通り、フランスだってそんな時代はあったのです。そう考えると、今後が楽しみだと思いませんか。


私は今年で73才になりました。妻に、「いつまで働くの? 今辞めれば楽しめなかった青春をあと数年ゆったり過ごすことでとり返せるかもしれないのに」と言われても、「まだ人生は長いから」と答えています。ずっと職人であり続けたい。その姿勢は、子供の頃家で受けた教育通り、まっすぐであること。まじめ、誠実であること。お客さんを、決してだましてはいけない。それをずっと貫いてきました。そう考えると、『ラ・メゾン・デュ・ショコラ』の成功は、偶然の成功ではないと言えるかもしれませんね。

  2002.11.18
ラ・メゾン・デュ・ショコラ