「パティスリー アンソレイエ」は、最近ではめずらしい路面電車、世田谷線の街、松原にある。
賑やかな三軒茶屋から、小さな車両に揺られること20分。東京にいながら、どこかゆったりとした気持になれる場所だ。
“アンソレイエ = 陽のあたる場所”。
2009年7月にオープンしたこの店ほど、この名前が似合う店もないだろう。


松原駅から徒歩1分という好立地


その理由は、シェフパティシエの川島正善さんの生い立ちにある。
川島さんは東京都稲城市の出身。実家は地元では名の知れた、由緒ある果樹園だという。実は、ここ稲城市は昔から梨の産地として有名で、川島さんの実家でも10種を超える梨を栽培しているそうだ。
「梨以外にも色々と育てていたので、子供の頃からフルーツは好きでした。梨はもちろんですが、フルーツに対する舌は、かなり肥えていると思いますよ(笑)」
と川島さんは嬉しそうに頬を緩める。手を伸ばせば極上のフルーツが手に入る環境で育った川島さん。ちょっとでもおいしくないと手をつけないので、奥様からは"贅沢!もったいない!"と、嫌がられるほどフルーツにはうるさい。そのなかでも、川島さんが最高においしいと思うのが、“アンソレイエ=陽のあたる場所”の環境で育ったフルーツだ。
「太陽の光をたっぷり浴びて育ったフルーツは、本当においしいんです。そのなかでも、収穫するまで陽を浴びたものは格別。太陽の力は偉大ですね」
普通、果樹園ではフルーツに傷がつかないよう生育の途中で袋をかぶせてしまうが、川島さんが食べていたのは袋をかぶせない家族用。市場には出回らない、まさに幻の味だ。


黒いタイル貼りのショーケースがスタイリッシュ。
色鮮やで、丁寧な作りこみのケーキが並んでいる

そんな貴重なおいしさに恵まれて育った川島さん。食の道に進むのは、ある意味自然なことだったのかもしれない。3人兄弟の真ん中で、家業をつぐ必要がなかったこともあり、自然と食の道を志すようになる。
だが、目指したのは、お菓子ではなく料理。専門学校で学んだのちは、下北沢にあるフランス料理店へ。そこで配属されたのが、レストランデセールを担当するパティシエの部門だった。
「それをきっかけに考えるようになったんです。料理よりもパティスリーの方が、狭く、深く、追求していけるんじゃないかって」
少しずつお菓子に魅了されていった川島さん。約2年間レストランパティシエとして修業を積んだのち、本格的にお菓子を勉強するためにパティスリー専門店へと移ることを決意した。


こじんまりとしていながらも、イート
インスペースがあるのが嬉しい



「レストランでデセールを担当していたとはいえ、パティスリーとは考え方もスタンスも違うので、すべて1からという感じでした」
当時絶大な人気を誇っていた巣鴨「フレンチパウンドハウス」で約3年間基礎から学んだのちは、四谷の「マダム・ミクニ」へ。フレンチの名店「オテル・ド・ミクニ」のパティスリー部門として名をとどろかせた「マダム・ミクニ」だが、その頃はまだ、四谷本店と銀座松屋の2店舗のみで、これから大きくしていこうという過渡期にあった。
「当時、シェフパティシエだったのが寺井さん(現『エーグルドゥース』シェフ)。今までとは違う、本場に近いフランス菓子というものを目の当たりにしました。例えば、ペーストなどの素材を作るところから始めたり、素材を引き立たせるためのお酒使いをしたり。寺井さん独自の凝った作りや、食材に対する考え方などに、とても影響を受けました」
職場は、先輩、後輩の関係が厳しい縦社会。だが、20代前半の同世代が20人ほどもいて、厳しくも部活のような和気藹々とした雰囲気だったという。朝7時から夜は11時というハードスケジュールで、忙しい冬には帰れない日もあったそうだが、それを辛いと感じることもないほど心身ともに充実していたようだ。そんな環境のなか、川島さんは切磋琢磨し、腕を上げていった。


充実した菓子類は贈答用としても人気。パンもあります


「元々料理を目指していたので、料理人とも親しくなりました。有名店や寺井さんに聞いたレストランにも、ずいぶん食べに行きましたね。素材の使い方や味のハーモニーなど、ヒントになることも多かったです」
旬の素材、味の組合せ・・・。今まで以上に、素材の力を痛感しながら、川島さんはパティスリーの道を深めていった。そして、最後の1年半は、汐留の店舗(現在は閉店)でスーシェフを務めるまでになった。

その後は、六本木ヒルズクラブ、リッツカールトンといった、ハイクラスのホテルでシェフ・ド・パルティエ(スーシェフ)に迎えられた。だが、何かが違う・・・。川島さんは、違和感を覚え始めていた。
「ホテルは組織も大きく、休みなども取りやすいので恵まれた環境でした。でも、自分の進みたいのとは違う方に向かっているように感じ始めて・・・。というのも、立場上、人の管理や試作といった会社としての仕事が多く、キッチンでひたすらお菓子を作る機会が減っていたんです」
もちろん、ホテルの看板を背負うものとして、人を育て、味のクオリティを高めていくのは名誉ある仕事だ。だが、川島さんの中には、自分の店をやるという揺るぎない目標があった。“このままでは、職人としての感覚が鈍ってしまう・・・”。そう感じて、辞めることを決意。すぐに独立に向けて動き始めた。

「店を出すに当っては、実家のある稲城市の方にという意見も多かったんです。でも、やっぱり自分が今まで作ってきたケーキを出すなら、都心の方がいいと思って」
実家からも近く、以前から暮らしている松原。若い女性や、小さな子供のいる家族が多いことも決め手になった。


「いずれは、リキュールを使ったものも増やしていきたい」と川島さん。今はお子さんが食べることを考え、控えているそう


そして、川島さんを強力にバックアップしてくれたのは、なんといってもフルーツ。「マダム・ミクニ」で素材力を痛感した川島さんにとって、実家の果樹園でとれる極上のフルーツは最大の強みだった。
「フルーツはできるだけ実家でとれたものを使っています。フランボワーズ、ブルーベリー、杏、ぶどう、桃・・・。以前はなかったフルーツも、今では作ってもらっているんです」
現在は、父が先生となり一番上の兄と2人で果樹園を運営。実は、川島さんがパティシエになったことをきっかけに、フランボワーズを栽培するようになったそうだ。今では、年間600kgほどの収量があるというが、最初は苦労があったという。というのも、フランボワーズを日本で栽培する果樹園が少なく、品種や植える場所、気候などすべてが手探り状態だったからだ。父の実さんは、生のフランボワーズから種をとって育成したり、何種類もの苗木を植えて味や適性を試験したりという試行錯誤を繰り返した。
それにしても、店で使うフランボワーズをすべて国産でまかなえる店は、恐らく「アンソレイエ」くらいだろう。自分の農園を持つなんて、これ以上にない贅沢だ。


父親の名前を冠したフランボワーズのケーキ「ミノル」。土台となるチョコレート生地の間にはフランボワーズのコンフィチュールが。フレッシュ感とやさしさを感じる味わいは、国産フランボワーズならでは


ところで、フルーツを知り尽くしている川島さんだからこそ、ケーキに使う際には、フルーツの味を最大限にいかしたおいしさを心掛ける。それだけで充分おいしいフルーツを、さらにおいしく味わってもらうための、細かい工夫を欠かさない。
例えば、ミルクチョコレートムースに刻みアプリコットを散りばめた「ファンタジー」。
「ドライアプリコットを桃のリキュールで戻して加えているのですが、そのアプリコットの香りが移ったリキュールも隠し味として加えています。それから、底の部分に入れているアプリコットコンフィは、少量の生クリームを加えることで、丸みを持たせているんです」
チョコレートにフルーツの香りを、そして、フルーツには乳のコクを加えることで、ケーキとしてのハーモニーが完成するのだ。


フレッシュ感のある杏にまったりとしたミルクチョコが好相性の「ファンタジー」。隠し味の威力を実感


そんな、フルーツのおいしさを知り尽くした川島さんが一番好きなフルーツ。それは、やはり彼のルーツにもなっている“和梨”だという。
「洋梨はケーキに使うけれど、和梨を使うのはなかなか難しい。そのまま食べるのがおいしいフルーツ、だとは思うんです。でも、パティシエとして、それ以上のおいしさに挑戦してみたい。梨を使っておいしいケーキを作る。それは、僕の永遠のテーマですね」


自社農園のブラックベリーやプラムなどはコンフィチュールでもいただけます。1瓶500円とリーズナブルなのも魅力


取材を終え、店の外に出ると、大きな鉢に植えたフランボワーズの木が風に揺れていた。 太陽の当る場所、アンソレイエ。
家族やお客様の愛情という光をいっぱい浴びて、これからますます、実り豊かな店になっていくことだろう。







パティスリー アンソレイエ
住所 東京都世田谷区赤堤3-3-11 LANZ松原1F
TEL03-6751-4301
営業時間10:00〜19:00
定休日不定休
アクセス 東急世田谷線松原駅から徒歩1分
京王線下高井戸駅から徒歩8分
小田急線豪徳寺駅から徒歩10分




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