「ピエール・エルメ・パリ」には、抗いがたい引力がある。 楽しげにショーケースを彩るマカロン。
魅惑的な味の組合せ。
美しく、かつ計算されたフォルム・・・。
それらは、強烈な個性となり、心と味覚に大きな跡を残す。
いったい、その引力の秘密はどこにあるのだろう?
その秘密を知りたい。そんな想いもあって今回の講習会が実現した。

美味しい秘密が散りばめられた「ピエール・エルメ・パリ青山」。ラグジュアリーな雰囲気も魅力



日本に「ピエール・エルメ・パリ」がオープンしたのは1998年のこと。当時の日本といえば、やっと“パティスリー”という言葉が定着し始めた頃で、フランスとは、お菓子を取り巻く環境も違えば、素材も違った。そんな未知の国日本への進出に際して、エルメ氏が自分に代わる存在としてすべてを任せたのが、リシャール・ルデュ氏。以来、氏の右腕として日本にある店舗すべてを管理する立場にある。
そのルデュ氏を講師に迎える貴重な講習会とあって、募集直後から申込みが殺到!世界中を魅了し続ける「ピエール・エルメ・パリ」の魅力をこの目で確かめようという、参加者たちの並々ならぬ意気込みが伝わってくるようだった。

今回の会場は、北松戸にある合同酒精株式会社の講習会場「クラム ステュディオ ドエノン」。名前のイメージ通りフランス調にデザインされた施設は、しっとりと落着いた雰囲気。もちろん、厨房施設も充実しており、広いスペースに、平窯やショックフリーザー、アイスクリーマーなど、プロ仕様の機材が完璧に揃えられている。まさに今回の講習会にもってこいの会場だ。

有名パティスリーでも使われている久電舎のセラミックオーブン



「Bonjour!リシャール・ルデュです。えーと、フランス語でも大丈夫ですか?」
フ、フランス語!?どうしよう・・・!
「・・・ウーン。それじゃあ、日本語にしましょうか。でも、難しい質問はしないで下さいね」
と、ルデュ氏は流暢な日本語で話し、肩をすくめてみせる。そんな茶目っ気たっぷりの仕草に、会場の空気もフッとやわらいだ。日本歴はもう11年にもなるから、実は日本語もお手のものなのだ。

リシャール・ルデュ氏。ピエール・エルメ氏との付き合いは15年になるという



会場をご提供いただいた合同酒精の業務用営業部長岡本氏の挨拶に続き、パナデリア主宰の三宅からひとこと。
「今日は、少人数制で間近でじっくり見るスタイルです。ルデュ氏の作り出すおいしさを、ぜひ体感してください」
今回は会場作りにも一工夫。作業台の前にイスを並べて、より近くでシェフの手さばきを体感してもらおうという狙いだ。

狭き門を潜り抜けた参加者は15人。少人数制の贅沢な講習会になった



「では、さっそく作業を始めましょう」
今回作っていただくのは、「アンフィニマン・ヴァニーユ」シリーズから“エモーション・ヴァニーユ”、“タルト・ア・ラ・ヴァニーユ”、“バニラ入りシャーベットとアイスクリーム“、そして、“チョコレート入りバナナサブレ“の4品。
パナデリアスタッフも大ファンの「アンフィニマン・ヴァニーユ」だが、この面白さはなんと言っても単独でバニラを使うことにある。これは、バラとライチ、そしてフワンボワーズを組み合わせた“イスパハン”など、素材の組み合わせを得意とする「ピエール・エルメ・パリ」では珍しいことだ。だが、正確には単独ではない。というのも、バニラ同士を組み合わせるのが、このシリーズの最大の特徴だからだ。
「使うバニラは3種類。メキシコ産(南米)とマダガスカル産(アフリカ)、そしてタヒチ産(南太平洋)です。ちなみに、フランスではメキシコ産ではなくパプアニューギニア産(南太平洋)を使っていますが、日本では輸入されていないためメキシコ産を使っています」

メキシコ産(南米)とマダガスカル産(アフリカ)、そしてタヒチ産(南太平洋)のバニラ。特にタヒチ産は太くて大きく、野性的な香りが特徴



パティスリーに欠かせない素材、バニラは、常に隠し味的な使われ方をしてきた。卵の臭みをマスキングする、甘い香りでフルーツを引き立てる、などなど。そのバニラを組合せるという発想は、もちろん突飛な訳ではない。聞いてしまえばなんてことはないのだが、実は、これまで組合せて使われることはほとんどなかったのだ。
お菓子にバラを使う、塩をアクセントにする・・。コロンブスの卵ではなくが、そこに「ピエール・エルメ・パリ」のすごさがあるのだろう。

まず驚いたのは、ルデュ氏から渡されたルセットのボリューム。材料のみが書かれたシンプルなものも多いのだが、これには、手順はもちろん、賞味のためのアドバイスや一緒に合わせるお勧めの飲み物までが、日本語で丁寧に書かれている。実はこれ、通訳の方にお願いして特別に和訳してもらったものだという。講習会とはいえ、こんなに細部まで公開して大丈夫なのだろうか、と思わず心配になった。
「大丈夫ですよ!ピエール・エルメのお菓子に秘密はありませんから」
と、いたって平静なルデュ氏。
これを聞いて、“やった!私にもエルメの味が再現できる”と希望に胸を膨らませた人も多かったに違いない。そうそう真似できないことがわかるのは、もう少し後の話だ。

期間限定で登場する“アンフィニマン・ヴァニーユ”シリーズは、いつも味わえるとは限らない貴重な味わい。この味を自宅で再現できれば・・・!



「では、バニラ入りマスカルポーネクリームを作りましょう。まず、バニラ入りのクレーム・アングレーズを作ります」
鍋に1リットルの生クリームを注ぎ、ここになんと6本ものバニラ(3種)を加える。安いものでも1本500円位はするバニラを惜しげもなく使うその光景に一瞬ドキッとする。ところで、バニラの量もさることながら、普通、アングレーズには生クリームでなく牛乳を使うのでは?と疑問がよぎる。
「これを冷やし、後でマスカルポーネクリームと合わせてホイップします」
なるほど。生クリームを使うことで、濃厚なマスカルポーネのクリームにふんわりと空気を含ませることができるという訳だ。力強い味わい、かつ軽い口当たりするためのアイデアなのだろう。

泡立てると、こんなにしっかりとした状態になる



「次は、バニラ入りガナッシュ。ホワイトチョコレートで作ります」
ここにもまた、バニラが6本登場した。何度見ても、その量にはため息が出てしまう。
生クリームと一緒に温め、30分以上そのままの状態にしてバニラの香りを抽出。そして、沸騰させてから、ホワイトチョコレートと合わせてガナッシュにする。

出来上がったガナッシュは、茶色を帯び、大量のバニラビーンズが見える。後に残ったのは、大量のバニラのサヤ。こうなると、かつお出汁ならぬ、バニラ出汁のようだ。同じく、バニラのシロップも、まるでコーヒーを加えたかのように茶色い。

3種類のバニラを使ったシロップ。大量のビーンズに加え、サヤの香りが抽出され、完全に茶色い液体になっている



ご存知の方も多いと思うが、エルメのケーキは多くのパーツで構成されている。一見シンプルに見える“タルト・ア・ラ・ヴァニーユ”も、パート・シュクレ、バニラ入りガナッシュ、バニラをしみ込ませたビスキュイ・キュイエール、バニラ入りマルカルポーネクリーム、バニラ入りミロワール・イボワールと、合計5つものパーツ(そのうち4つはバニラ風味!)から成っている。

ビスキュイ・キュイエールはシロップを打つのではない。形が崩れる寸前までシロップに浸すことで、バニラシロップを閉じ込めるのだ。ちなみに、黒く見えるのはすべてバニラビーンズ



ちなみに、今回の“タルト・ア・ラ・ヴァニーユ”で、使用したバニラは15本!(講習会用の少ない配合でこれだから、店ではいったいどれくらいのバニラが使われているのだろうか?)
素材を用意するだけで、ケーキの何倍もの費用になってしまうのは明らか。これに、労力が加わるとなると・・・。なかなか、家庭で気軽に作るのは難しそうだ。

こんなに大量のバニラが!この日の講習会で使われたバニラは、なんと約40本!





「では、これが終わったらランチにしましょう。ね?予定通りでしょう」
実は、当日の朝、ルデュ氏から渡されたのが作業のスケジュール表。どういう順番でパーツを作っていくかが、わかりやすくエクセルで表にされている。実は、今までも、こんなきっちりした予定表をもらうことはあまりなかった。
偏見かもしれないが、フランス人は日本人よりルーズなイメージだがある。だが、ルデュ氏は元々そうなのか、11年の日本暮らしがそうさせたのか、とにかく几帳面だ。講習会前日には、完璧に計量を済ませ丁寧にパック詰めした材料や差し替え用のパーツを搬入し、講習会についての打ち合せを済ませる。当日の作業を見ていても、とにかく、1つ1つの作業が丁寧で無駄がない。

スポーティなバッグの中には、パレットやナイフなどルデュ氏愛用の道具がずらり


卵からバターに至るまで完璧にセットされた材料



さらに、講習中は、混ぜ終えた生地や素材をその都度ボウルに取り分け、皆に回してくれるという気配り上手な一面も見せてくれたし、急遽、予定にはなかったエクレ-ルやマカロンを用意してくれるなど、嬉しいサプライズも忘れない。
確かに、これならエルメ氏が安心して任せられるはずだ、と納得がいく。

密かに持ってきてくれていた“マカロン・ヴァニーユ”。おいしさはもちろん、その心遣いが嬉しい





さて、ここでランチ休憩。集中した分、お腹もペコペコだ。松戸で人気のパン屋さん「ツォップ」のランチボックスに、恒例となったパナデリア三宅の料理が並ぶ。

今回の一押しは、トマトのジュレを乗せたパプリカのムース(写真手前)。一昼夜かけて裏ごした透明なジュレが目にも口にもみずみずしい!





午後は、重要なケーキの仕上げが待っている。それぞれのパーツをどう組み立てていくのだろうか。
「では、エモーション・ヴァニーユを組み立てていきましょう」
午前中に作ったバニラゼリーの入ったグラスに、小さい円形で抜いたジョコンド生地を丁寧に乗せていく。ルデュ氏の丁寧で慎重な手つきに、こちらも思わず息を呑む。その上に、バニラのシロップをたっぷりと染み込ませたババ生地を乗せ、バニラ入りマスカルポーネクリームをたっぷりと絞る。最後にバニラ入りのホワイトチョコレートを飾って完成。細いグラスの中に、美しいベージュのグラデーションが出来上った。

細いグラスの中に、丁寧にパーツを重ねる。一連の作業をすべて1人で淡々とこなしていく姿が印象的



作業を進めるルデュ氏を見ていると、ひとつひとつのパーツを丁寧に美しく作ることに、特に神経を注いでいるように見えた。例えば、小さなエクレールひとつ取ってもそうだ。どんな細かい作業でも、決して手を抜かない、そこに彼のこだわりが感じられる。

セルクルにクリームを入れ、手で温めて抜いていく
「セルクルをたくさん持っていれば簡単。でも、お金がない人は、ね?こうすれば大丈夫」



そして、今回の講習会を通して感じたのは、ちょっと意外だが、複雑そうに見える作品も、ひとつひとつのパーツはいたってシンプルだということ。斬新なイメージの強い「ピエール・エルメ・パリ」だが、特別な素材を使うわけでも、化学変化を起こすわけでもない。そこには、職人の地道な作業があるばかりだった。バニラの風味を最大限にいかし、おいしくするためにはどうしたらいいのか・・・。それを突き詰めた結果、3種類のバニラを使い、他の素材と組合せないという答えが導き出されたのだろう。そこに、変わることのないフランス人の職人気質、「ピエール・エルメ・パリ」のおいしさの秘密が垣間見えたように感じた。

バニラ入りホワイトチョコレートを掛ける作業(タルト・ア・ラ・ヴァニーユ)。ひとつずつパレットに乗せ、“カンカン”と叩いて余分なチョコレートを落としていく





さて、待ちに待った試食タイムがやってきた。すでに会場中がバニラの甘〜い香りに包まれている。

ルデュ氏を囲んでの試食タイム。美しい作品を前に拍手で応える参加者たち



今まで見たことがない贅沢なバニラ使いに、時間をかけて丁寧に作られた数々のパーツ・・・。出来上がった美しい作品にフォークを入れるのがためらわれるほどだ。

では思い切って、“エモーション・ヴァニーユ”から!

圧倒されるほどのバニラの香り・・・。
濃厚で力強いクリーム、バニラの香りをギュッと閉じ込めたババ、そしてみずみずしく口を洗うようなぜリー。目を閉じると、バニラが五感を刺激する。
これまでのふんわりやわらかなイメージとはひと味違い、主役となったバニラは、凛とした力強さを秘めていた。



◆ エモーション・ヴァニーユ



〔内容構成〕
バニラゼリー
ビスキュイ・ジョコンド
バニラ入りババ
バニラ入りマスカルポーネクリーム
バニラ入りホワイトチョコレート


華奢な細身のグラスに重ねられた、ベージュのグラデーションがエレガント。フォークを下まで通し、口に運ぶと圧倒的なまでのバニラの香りが五感を刺激する。特筆すべきはバニラゼリーで、乳を含まないためさっぱりとみずみずしい味わい。濃厚なバニラの香りが、ゼリーによって清められ、すっきりとした印象に締めくくる。
◆ タルト・ア・ラ・ヴァニーユ



〔内容構成〕
パート・シュクレ
バニラ入りガナッシュ
バニラをしみ込ませたビスキュイ・キュイエール
バニラ入りマスカルポーネクリーム
バニラ入りミロワール・イボワール

ザクッとしたタルト生地に重厚なガナッシュが力強い印象。そこに、ふんわりと空気を含んだマスカルポーネクリームがベルベットのように広がり、すっと溶けていく感覚が心地よい。アクセントになっているのは、バニラをしみ込ませたビスキュイ・キュイエール。飽和状態までバニラシロップを吸収しているので、口の中でやわらかく崩れ、みずみずしいバニラの香りが広がる。
◆ バニラ入りシャーベットとアイスクリーム



〔内容構成〕
バニラシャーベット
バニラアイスクリーム

アイスクリームとシャーベットという種類の違う氷菓をマーブル状に組合せた一品。アイスクリームの濃厚なコクと、爽やかな味わいが同時に楽しめる。異なる食感と味わいが口の中で溶け合い、異なるバニラの香りが交わる感覚が新鮮。
◆ バナーヌ・オ・ショコラ



〔内容構成〕
バナナサブレ生地
エクストラビターのブラックチョコレート

小さく刻んだセミドライバナナを練り込んだサブレ生地は、ザクッとしていながら、どこかジューシー。今回使用したセミドライバナナは、ルデュ氏の特製。フレッシュやドライとは一味違う芳醇な香りが、エレガントさを与えている。さらに、チョコレートをまとうことでよりいっそう完成された味わいになる。
◆ エクレール・オ・ヴァニーユ



ルデュ氏が急遽用意してくれたサプライズがこれ。カリッと焼き上げたシュー生地に、バニラ入りマスカルポーネクリームがあふれんばかりに詰まっている。難しいことは抜きにして味わいたい幸せの味。
◆ マカロン・ヴァニーユ



これも、嬉しいサプライズ!重量感のあるマカロンには、バニラクリームがたっぷり。カシャッと崩れ、しっとりと広がるコック(マカロン生地)の食感もさすが。



まさにヴァニーユ尽くしとなった、今回の講習会。
「バニラ=甘くて、くどいというイメージだったのですが、一新しました」
「バニラのゼリーが新鮮。グラスの中にストーリーを感じました」
・・・と、みんなの心に響くものがあったようだ。そして、何より皆の幸せそうな表情がそれを物語っていた。

ところで、ルデュ氏の今後も気になるところ。

すでに日本の食材は知り尽くしているルデュ氏。柚子やワサビもまったく珍しくないという



「石の上にも3年。まだ、そのときではないと思っています。お店を出すとしたら?そうですね、北松戸にでも出そうかな?」
と、ルデュ氏。どちらにしても、しばらくは日本で私たちを楽しませてくれそうだ。
フランスと日本、その両方の感性を持つルデュ氏のこれからに、ますます期待が高まる。