「えー、らっしゃい、らっしゃい!」
「こんにちは、今日はこれをいただくわ」

そんなやりとりがあちこちから聞こえてくる東急東横線 学芸大学駅前の商店街は、どこか懐かしい下町の匂いがする。都会では忘れられがちな人と人とのつながりを大切にする、そんな雰囲気が心地よい。

だが、さらに足を進めると、さっきとは打って変わり静かな住宅街が広がる。
その中でふと目を惹くのは、太陽の光に鮮やかに栄えるブルーのファサード。店先に咲く花々に誘われるように歩を進めると、パンの焼ける芳しい香りが鼻腔をくすぐる。高い天井に温かみのあるスペイン風のインテリア・・・。通りに向かって広く開け放たれた扉が、道行く人に“どうぞお入りください”と言っているようだ。素敵なお店を見つけた、そんな気持ちに思わず心がはずむ。


駒沢通りのすぐ裏の便利な場所。気軽に入ってきてほしいからと、扉はずっと開かれている



気になるシェフは、代官山「カフェ アルトファゴス」でオープンからパンを作ってきた望月哲二さん。2年間のブランクを経て、ファン待望のオープンとなった。明るく開放的な雰囲気の「ティグレ」では、気のせいか望月さんの表情もイキイキと輝いて見える。「アルトファゴス」の後、どうしていたのだろう。

「代官山を辞めてから、実は小田原にある『きゃとる ふぃーゆ』というケーキ屋さんで働いていたんですよ。生まれも育ちも東京なのですが、そのせいか、無性に田舎で暮らしてみたくなって」

小田原?ケーキ屋さん??予想もしない答えが返ってきた。

「独立するにあたって、もっと幅を広げたかったんです。料理は『アルトファゴス』の時に見ていて、奥が深くてキリがないだろうなぁと感じていたので、お菓子を選びました。特に焼き菓子類は、パンと平行して作ることもあったので、入りやすかったというのもありますね」

「きゃとる ふぃーゆ」では焼き菓子を担当。小麦粉やバターなど、同じような材料を使っていてもパンとお菓子では、作るスタンスにかなり違いがあることを実感したそうだ。

「材料の細かい使い方なんかはすごく勉強になりましたね。でも、パンとの一番の違いは時間。パンの場合は時間がすべてで、タイマーがない生活は考えられないですから」

パンからお菓子へ、さらに小田原という場所もまた大きな変化だった。

「海も山もあって、すごく良い場所なんです。自宅から海までもわずか10分の距離。だから、暑い日はいつも泳ぎに行っていました。最初は、この辺にお店を出そうかとも考えていたんです」

手を伸ばせば海や山があり、時間がゆるやかに流れる街。根っから都会っ子の望月さんは、自然の持つ大らかさにすっかり魅了されていた。

「鎌倉辺りも候補に挙がっていたんですが、なかなか良い場所が見つからなくて」

小田原も鎌倉も、海に近い静かな街。それなのに、どうして東京のこの場所を選んだのだろう?

「実は、妻の父親が、『うちの庭を使って店をやってみないか』と言ってくれたんです。プレッシャーのない環境で始めた方が良いからと、場所を提供してくれることになって。色々悩みましたが、東京は一番よく知っている街。今になってみるとこの場所で良かったなという気がしています」

天井が高くすっきりとした店内。壁にはバゲット類、ショーケースの上にはドイツパンが並んでいる


家族の協力に支えられ、望月さんは2007年春に「ティグレ」をオープンした。お店の顔でもあるティグレのイラストは義姉によるもの、そしてスペイン製のインテリアはスペインに暮らしていた経験のある義母が提供してくれたものだという。都会的な雰囲気の「アルトファゴス」をイメージして店を訪れた人は、その家庭的な雰囲気に違和感を覚えるかもしれない。

「アットホームな雰囲気作りをしたいと思っていました。対面販売にしたのもそうですが、もっとフレンドリーに気さくに買いに来ていただければいいと思っているんです」

その言葉通り、開放的なデザインや対面販売のスタイル、そしてフレンドリーな接客が印象に残る。そういえば、先日訪れたときには、接客を担当する奥様、富美子さんとご近所の方たちが会話に花を咲かせていた。

「地元ということもあって、ご近所の方がたくさん来てくださるんです。おしゃべりを楽しみにしてくれる方も多いんですよ」

実は、その奥様は今、出産のためお店をお休み中。これが、ちょっとした騒ぎになった。

「子供が生まれた日には、お客さんが次々にお祝いを言いに来てくれて。20〜30人はいたんじゃないですか?中には、お祝いを下さった方もいるんですよ」

地元ということもあって顔見知りの人も多いそうだが、彼女の魅力はそれだけではなさそうだ。

「今はまだお休みしているんですが、そのせいか、実際お客さんが減ってしまったんですよ(笑)。パンを作るよりも接客の方が大事かなぁ、と思うこともあるんです」

奥様はもちろん、2名いるスタッフも望月さんを慕う気心の知れた仲間たち。だからだろうか、「ティグレ」にはまるで親しい人を訪れたような暖かい雰囲気が溢れている。


手書き風のティグレ君がお出迎え


お客さんとの距離をもっと近く、その考え方はパンにも大きく影響しているようだ。

「最初は、今までの延長でやってみようとスタートしましたが、どこまで通用するか心配な気持ちもありました。代官山と住宅街では客層がかなり違うので、この数ヶ月間でアイテムはかなり変わっています。それから、一番違いが大きかったのは食パン。代官山は、場所柄ほとんど売れなくて、逆にデニッシュ類が人気でした。今は、食パンやバターロールがよく売れますね。それから、予想はしていましたが、バゲットは“かたい”と言われることも。でも、これを変える訳にはいかないので、わかってくれる人に食べてもらえれば良いと、その辺は割り切って考えているんです」

とは言え、望月さんのイメージというとやはりハード系。それに対するフラストレーションはないのだろうか?

「ハード系をもっとやりたい、という気持ちはありません。あんパンもあれば、メロンパンもある。何でもあって、選ぶ楽しみがあるのって好きなんです」

と、屈託のない笑顔で答えてくれた。
しかし、パン作りへとなると話は別で、持ち前の職人魂が現れる。現在、粉は国内外12種類揃え、生地によって微妙にブレンド。さらに酵母は、サワー種、レーズン種、ルヴァンのほかに、イチゴやレモンで起こした種などを使い、香りや味わいを深めている。だがそのこだわりには、決して押し付けでない、心地良さが感じられる。

「色々なパンを作るからといっても、クオリティは絶対に落とせません。ほかとは違う価値のある味わいはしっかり守りたいですね」

当然ながら素材への思い入れも強い。秋からは、スタッフの実家「ルーデンス牧場」で大切に育られた濃厚な卵(1個50円)を使ったクリームパンなども考えているそうだ。


すぐ隣にある厨房。ラスク作りの真っ最中


そんな、望月シェフのパン作りや粉や酵母などのへのこだわりは、「アルトファゴス」時代の師匠志賀勝栄氏(現シニフィアン・シニフィエ シェフ)からの影響が大きい。

「『アルトファゴス』に入るまでは、大きな工場でパンを作っていました。今から思えば、工場のパン作りというのは“パン”ではなく、“機械”を動かすプロフェッショナル。でも、毎日毎日パンを作っているから、自分もいつかパン屋になれると思い込んでいたんですよね」

大きな工場では、1回の仕込みに6袋(150kg)の小麦粉を使うのが当たりまえ。だから、いくら機械化されてはいても、1回分の生地の分割や丸めには30分程度かかってしまう。時間との戦いであるパン作りにとって、30分のタイムラグは相当大きいもの。そこで、きれいに仕上げるため、時間による生地の状態の変化を抑えるためと、様々な調整剤が必要になってくるそうだ。人間の思い通りになる生地を、機械類を駆使して焼き上げる。それは、もはやパン作りとは別の仕事といえる。

「だから、志賀さんの下についた時は、カルチャーショックを受けるというよりも、『これはゼロからだな・・・』と愕然としました。それまでは、パンについてはかなりわかっているつもりだったし、自信もあったんです」

きれいに仕上げることよりも、素材の持ち味を活かしたパンを目指す志賀さん。そのパン作りへの姿勢は、まさに対極でもあった。パン作りとは何か?望月さんは志賀さんの元で少しずつ、しかし着実にパンへの姿勢とも言うべきものを吸収していった。

「昔は意味もわからず、志賀さんの真似をして粉をブレンドしていたんですよ(笑)。でも今では、雑味やヒキを強くしたいからこれを入れようとか、クープをきれいに割りたいからこうしようということがわかるようになってきました。一発で決まる、というのはなかなか難しいですけどね」

おいしいパンに必要なのはそれだけではない。

「絵を描く時には、完成をイメージしてスタートしますよね。パンの場合も、それと同じなんですよ。まず最初に作りたいパンをイメージして、そのためには何を入れようか、どういう工程にしようかと、逆算して考えていくんです。ヒントは業者さんがもってくる食材にもあるし、休みの日に買い物に行くときに見つかることも多いんです」


クルミのたっぷり入った“パン・ド・ロデブ・エ・ノア”は“ティグレ”のスペシャリテ


師匠とはいえ、志賀さんとはそれほど上下関係を意識することなく親しくしてきたという望月さん。だが、オープンが決まり、改めて志賀さんに挨拶に行くとそれが一変した。

「今までは、“モッチ”って呼ばれていたんですよ。それが、急に“望月さん”って言われるようになって。ちょっと寂しい気もしますが、対等に見てくれてるってことなのかなと思うと嬉しいです」

今や、偉大な師匠と同じ土俵に上がった望月さん。志賀さんも、きっと期待と愛情を込めて、その成長を見守っていることだろう。


レモン種で作ったパネトーネ。夏向きの爽やかな香り



すでに地元から愛されるパン屋さんになりつつある「ティグレ」。本格始動は今年の秋に見据えているという。

「今は毎日新しいパンを考えている状態です。パンのラインナップも接客も未完成ですし、まだ試せていないこともあります。今はオープンしたばかりでお客さんも来てくれますが、秋と来年の春が試練でしょうね」

そう話す瞳は、言葉に反して、楽しむような輝きを湛えていた。


帰りに、望月さんが一番好きだという天然酵母のバゲットを買って、店を出た。 スラリと姿が良いバゲットは、しっかり焼き込まれたクラストがバリッと香ばしい。ヒキのあるクラムは粉の旨みと甘みが濃く、噛みしめるほどにジワリとその味わいが広がる。ほんの味見のつもりが、もうひと口、もうひと口と手が伸びて、気が付くと夕食には足りないほど短くなっていた。


バゲットはライ麦入りのタイプも。1/2本から注文できるのが嬉しい



ふとテーブルを見ると、袋にプリントされたかわいらしいティグレ(トラ)がこちらを見つめている。
大切な家族や仲間に支えられ、望月さんが作りだす自然体のパン。今失われつつある、手作りの温かみがここにはしっかりと息づいている。
それは、見た目や味だけでは計れない形のないもの・・・。
人と人とのつながりの大切さを知る、ここ学芸大学の地で、ティグレはこれからもずっとずっと、愛されていくだろう。










パナデリーヤ・ティグレ
住所 東京都世田谷区下馬6-20-4
TEL&FAX03-3414-5269
営業時間10:00〜19:00
定休日火曜
アクセス東急東横線「学芸大学駅」西口より徒歩8分
URLhttp://www.panaderia-tigre.com