ル・スフレ 永井 春男 シェフ |
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経歴 浅草『三河屋』を経て、『ドンク』へ その後、渡欧。 フランス、スイス、カナダと約6年間修業 高井戸『シャンベルタン』を経て 1985年、『ル・スフレ』オープン 1993年、『ル・スフレ』を現在の場所に移転 |
本当はフレンチのシェフになろうと思っていたんです。どうしても東京へ出たくて、体ひとつで函館から叔父のいる東京へ出てきた。そこで紹介されたのが浅草の『三河屋』だったんです。『三河屋』はいくら作っても足りないほど人気のケーキ屋でしたが、ケーキと言ってもカステラにクリームを詰めたモンブランだとか、そういうケーキばかりでした。当時はどこもそうでしたね。
そのうちに、『ドンク』という店ができると聞いて店を移りました。当時、『ドンク』はフランススタイルで最先端の店だったので、今までやってきたスタイルとの違いにはかなり驚きました。2年半ほど修業して、更に上を目指そうと東京を見回した時、もうここには新しいものを学べる店はないと感じ、フランスへ渡りました。 |
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当時のフランスは、ちょうど新しいスタイルが現われ始めた頃。伝統的なスタイルと新しいスタイルが共存する面白い時代でしたね。でも初めの1年は、日本と大して変わらないと思っていました。2年目になって、"菓子"というものが、ヨーロッパの文化や生活に根ざしたもので、上辺だけじゃないんだ、ということに気がついたんです。
中でも一番印象に残っているのは、クロワッサンとブリオッシュしか作らない店。夜中から、薄暗い地下にランニング姿で粉まみれになって、パンを作り続けるんです。本当に重労働だった。でも不思議と面白かった、ああいうのがフランスの菓子屋の原点みたいなものだと思います。逆にダロワイヨは、仕事として割り切れて良かったけれど、印象は薄いですね。 |
その後、チョコをやりたくてスイスへ渡りました。ロベール・ランクス(メゾン・ドゥ・ショコラ)もまだいない当時だったので、チョコと言えばスイスだったんです。
ここで初めてホテルに入りました。今までと違い、その場その場での即興的な仕事が多く、まさに時間との戦い。でも、これがとても面白かった。すっかりその魅力にはまり、その後はレストランやホテルばかりを周りました。 "スフレ"との出会いは、このホテル時代。でも、当時はデセールの1つ位にしか思っていなかったんですよ。 |
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![]() 緊張しながらスフレを待ちます。 |
そして帰国。高井戸の『シャンベルタン』という、当時、ランチで5000円という高級フレンチレストランにパティシエとして入りました。
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そして独立。西麻布に見つけた土地は12坪と狭く、パティスリーをやるのは無理でした。それで
"スフレ"専門店をやろうと決めたんです。だから5年やってみて、駄目だったらすっぱり辞め、うまくいったらパティスリーを開く予定でした。
当時は狭い場所で同じことを繰り返すのが、かなり辛かったですね。でも、野菜剥き1つとってもそうですが、つまらないように見える繰り返しの作業の中で、何かを見出せるかどうか、それが重要なことだと思います。 その内、元々シェフになりたかったこともあり、だんだんと料理に目が向くようになって来た。そして今の店になって、サレ(塩味のもの)も料理も出すスタイルにしたんです。 |
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うちでは、ラッピングからコンフィ、たまねぎ刻みまで何から何までやらせます。決まったルセットはなく、自分の肌で覚えさせるようにしています。めざすのは菓子職人です。
自分の今までの経験で無駄なことは1つもなかった。"スフレ"だけを一生懸命勉強したところで、スフレ屋にはなれないんです。技術、素材を見抜く目、理解度、それがトータルになければ、何をやっても上辺だけのフワフワしたものしか作れない。 パティスリーでは"生産"を勉強することはできる。しかし、それは菓子の一面でしかない。レストランやホテルという動きのある世界にも一度入ってみて欲しい。そうして初めて、働きながら頭と体を動かすこと、自分の菓子をどう演出するか、ということがトータルにわかるようになると思うんです。 最初がパンでもケーキでも、どこからスタートしても大して変わらない、結局は自分次第だと思います。 「焦るな。何でもやってみろ!」 今の若者に、そう言いたいですね。 |
(取材日 2003年5月21日)