突然ですが、ちょっと10年前を振り返ってみましょう。
この10年の間に、エコカーやエコバックが普及し、国産が見直され、
オーガニックでさえも決して特別なものでなくなりました。
医学、航空技術、IT界における、めざましい進歩は言うまでもありません。
食においても、健康志向は高まるばかり。
では、パティスリーはどうでしょう?
それが今回のテーマです。





「航空技術や医学の世界では、3年前と比べると格段に技術が進歩していますよね。同じ技術を操る職人の一人として、21世紀、私は洋菓子も発展すべきだと思っているのです」
講師を務めるのは、ご存知、ヴァローナのエグゼクティブ・シェフ・パティシエであり、クリエイティブ・ディレクターのフレデリック・ボウ氏。「ヴァローナ」というトップブランドと共に、常にパティシエ界を牽引し続けてきたボウ氏の講習会とあって、今回もドーバー洋酒貿易の講習会場は満席です。
注目のテーマは、“節度ある美食とは”。
なにやら、難しそうな言葉ですが・・・。

フレデリック・ボウ氏と、通訳を務める奥様の藤森利香さん


「今回のテーマ “gourmandise(美食)”と“raisonnée(節度)”は、本来相容れない言葉です。フランス語の“gourmandise”は食道楽という意味合いで、たくさん食べるイメージがあるからです」
確かに、そう聞くとますますわからなくなってきます。節度のある食道楽とは、いったいどんなテーマなのでしょうか。

「では、さっそく説明していきましょう」
さっそく、講習会がスタート。・・・と、いつもの講習会だったら、すぐにお菓子のデモンストレーションが始まるのですが、今回は食べ物の気配がありません。
不思議に思っていると、ボウ氏がおもむろにホワイトボードを前に移動。なんと、ボウ教授による「ミニ講義〜洋菓子の歴史〜」が始まりました。


「まず、洋菓子の歴史から説明しましょう。過去を遡ると、1800年代のアントワーヌ・カレームやブリア・サヴァラン、エスコフィエといった人物の存在があります。彼らは、フランスの美食界に大きな貢献をしました。現在、奇才と呼ばれている職人でさえも、基礎はエスコフィエにある、という人が多いです」
洋菓子の基礎を築いたと言われるのが、彼らの存在。なんとなく名前だけは聞いたことがある、という人も多いかもしれません。

「1950年代になると、フランスでは冷蔵・冷凍が可能になりました。これにより洋菓子は大きく変化します。『冷蔵庫があるんだったら、それを使って作ってみよう!』、そんなガストン・ルノートルの好奇心が生み出したのが、生クリームやゼラチンを使ったお菓子。ルノートルやイヴ・チュリエスによりヌーベルパティスリーが打ち出され、時代はバタークリームのお菓子から、セルクルで組立てた、軽いお菓子へと変わっていきました」

今では当然ですが、冷蔵・冷凍ができなければ、生クリームを泡立てることも、ムースで層を作り出すことも不可能なのです。また、常温で保存するために、糖度や油脂を大量に使用せざるをえなかった菓子は、軽く、甘さを控えたものにと変わっていきました。改めて振り返ると、この発明がお菓子の歴史にとっていかに画期的だったかを実感します。


ホワイトボードとスクリーンを使って説明するボウ氏。
内容の濃さから、このテーマにかける想いを感じます


「そして、現在も、洋菓子史に名前を残すようなパティシエは大勢います。ピエール・エルメ氏、ジェラール・ミュロ氏、ヴァンヌバルト氏・・・。現代は、より美食の意味を深め、より個性をもったお菓子が登場しています」
素材、食感、温度・・・。パティスリーは、すでに頂点に上り詰めているようにも見えます。しかし、ボウ氏が提案するのは、さらにその先にある未来のパティスリー像。なんと、30年後のパティスリー界について考えているのだと言います。
「きっかけは、“ル・レ・デセール”のセミナーでのテーマ<30年後の製菓界への展望>でした。他の業種や料理(ピーエル・ガニエールによるヌーベルキュイジーヌなど)が進化している中で、パティスリーも進化をすべきでは?と考えたのです。そこで、ひとつの提案として考えたのが、この<節度ある美食>というテーマです」
30年前を振り返ると、技術も価値観も、かなり様変わりしていることに気付くでしょう。例えば、30年前に流行っていた味を、今では古くさく感じることもあります。つまり、30年後には、今とは違うパティスリーの姿があるかもしれないのです。

「今から20年前を振り返ってみましょう。その当時は少なかった病気−例えば、肥満−が、今では世界的な問題になっています。それから、アルザス地方では、20年前には1個120〜130gあったお菓子も、今では半分の約60gに。健康への配慮、ライト化というのは、現代の私たちにとって非常に大きな問題となっていると思います」
確かに、乳脂肪ゼロのヨーグルトや、糖類ゼロの飲料など、日本でも生活習慣病対策は、ひとつの大きな流れになっています。
でも、ここで重要なのは、ボウ氏がダイエット目的やライト志向のものを作ろうとしているのではないということ。提案するのは、あくまで“美食”。そう、“おいしい”ことが何より重要なのです。
「ライトではなく、あくまで“節度”。軽いけど味が物足りない、ではダメ。それはダイエットフードです。あくまでも、“おいしいお菓子”として、食べる人に喜びを与えることが大切。それだけは、思い違いしないでほしいと思っています」
中国や日本では、古くから医食同源という考えがあり、ヨーロッパでも、最先端のフレンチの世界では、ソースを軽くしたり、素材に配慮したりと、すでに“健康”がおいしさと密接なものになって来ています。それを、お菓子で実践しようというのが、今回の試みなのです。
「例えば、固めるために入れていた、卵黄やバターといったコレステロールの高い素材が、実は不要ということもあります。本当に必要な量と素材を見極める、それが今回の挑戦なのです」

数年前から温めていた、というボウ氏入魂の今テーマ。そこで、開発に際しては、深く掘り下げ、より確実な結果を出すためにと、強力な助っ人に協力をお願いしたのだそう。
「お菓子のレシピを栄養学の面から見た場合、どのような影響があるかを知るため、フランスで権威のある栄養学者と協同で研究をすすめました」
味や慣習にとらわれず、パティシエとはまったく違う観点でレシピを見る栄養学者。そこからは、目からウロコの事実が色々と発覚したということです。
さて、難しい話はこれ位にして、さっそく実際のお菓子と“節度ある美食”のポイントをみていきましょう!







生クリームに卵黄、そして砂糖たっぷりの伝統的なレシピでは、油脂分も糖分も非常に多い“クレームブリュレ”。実は、「キャラメリゼの部分の糖分は、クリームに入れる糖分よりも多い」のだとか。「このお菓子で大切なのは、飴の“パリッ”と、クリームの“トロッ”です」とボウ氏。
そこで、砂糖をキャラメリゼして飴を作るのではなく、薄くパリパリに焼いたチュイルをトッピングして“パリパリ”を作ります。
また、“トロッ”と濃厚なクリームにするために必要な卵黄にも“レゾネ”的提案を。卵黄を減らし、その代わりにカルシウムに反応して固まるペクチン(LMSN325)を加えて、なめらかなトロミを表現します。
卵黄を減らすといっても、おいしさに必要な量はしっかり入れるのが、ボウ氏のポリシー。まったりとコクがありながらも、どこかすっきりとしたクレーム生地の味わいが楽しめます。チュイルは、飴よりも儚く上品な“パリパリ”感。新しい切り口のクレームブリュレになっています。







「タルト・シトロンは私も大好きなお菓子のひとつ。でも、非常に重たい配合で、おいしいけれど、重たい、くどい、というのが問題でした。そこで、おいしさはそのままに、節度ある配合にしていきます」とボウ氏。まずメスを入れたのは、砂糖たっぷりのメレンゲです。
「メレンゲを否定するわけではありません。でも、お客様に“甘い”と敬遠されることも多いパーツ。そこで、お客様にはメレンゲと思われるけれど本当は違う・・・、というちょっと面白いものをご紹介します」
そんな夢のようなメレンゲは、その名も“ライムのメレンゲ風”。水、グラニュー糖、ライム果汁、ゼラチンを一晩冷やし固めたら、ミキサーでふんわりと泡立てます。さらに、カードルに流し入れて急速冷凍したら“ライムのメレンゲ風”の完成。
中のクリームの問題点は、卵黄と砂糖の多さ。これを見た栄養学者は、「どうしてこんなに必要なの?!」と驚いたそうです。
「確かにレモンのクリームなので、味にはバターと卵黄はそれほど必要ありません。固めるためだったら、他のものでもいいのではと考え、何度も試作を繰り返しました。できあがったのは、卵黄を全卵に、そして、バターをイボワールにしたレシピです」

バターがしっかりと香るサブレの上には、すっきりとキレのいいレモンクリーム。バターと卵黄を控えることで、ぐっとレモンの香り引き立ち、ハッとするほど清涼感のある味わいに。口に入れた途端に溶けてしまう“メレンゲ風”も、食感はメレンゲながら、爽やかなライムの香りが効いていて、しっかりと味の構成要素になっています!







卵を使わないサブレ生地のタルトに入れるのは、“イボワールのクリーム、オレンジとパッションフルーツ風味”。卵黄ではなく全卵を使い、ゼラチンをプラス。さらに、ホワイトチョコレート“イボワール”と少量のカカオバターで完璧に乳化させることでなめらかさを作り出しています。トップには、抹茶を使ったメレンゲ風を添えて。

泡のように、シュワシュワと溶ける“抹茶のメレンゲ風”の食感がユニーク。抹茶はフランスでも注目の素材で、ケーキに抹茶を使う店も増えているのだそう。クリームは、卵白が入っているせいか、まったりと少し固めの食感です。









せっかくならランチもテーマに沿ったものを、と、今回は奥様とボウ氏が営むレストラン「UMIA」のメニューがランチに登場しました。良質なワインがとれることでも有名なタンエルミタージュ。その広大な葡萄畑のなかにある「UMIA」では、「たくさんのお皿が出てくるのに、食後がとてもすっきりとした」料理が楽しめるのだとか。“いつか訪ねてみたい・・・”と夢見ていた参加者には、なんとも嬉しいサプライズとなりました!


会場がレストラン「UMIA」に早がわり。奥様の藤森利香さん、ボウ氏を始めスタッフ全員でランチの準備。100名以上分の料理を準備するのは、並大抵ではないはず。こんなところに、お2人の人柄を感じます


メニューの内容は、ヨーグルトとアボカドをミキサーで乳化させた“ヨーグルトのスープグラッセ フレッシュミント風味”。そして、スープ・ド・ポワソンを煮詰め、豆腐で乳化したアイデアソースを添えた“低温度で焼き上げたサーモンフィレ とろけるようなUmia豆腐”など。どれも、余計な油などを使わずに“レゾネ”的発想で作られているせいか、味、ボリュームともに満足感があるのに食後感がすっきりと軽やかです。

さらに、「ちょっとしたサプライズ」というデザートも登場しました。

口に入れると、驚くほどなめらかな質感!そして、非常にまったりとしているのに、なぜかすっきりとした切れの良さを感じます。
「実はこれ、プラリネノワゼット(60%)と水切りしたおぼろ豆腐を合わせただけなんですよ。豆腐のすばらしさを再認識したのでは?」
とボウ氏。もはや、和素材の扱いは日本人を越えています!









意味は、“衣類を脱ぐ”。その名の通り、伝統的な配合を1枚1枚はぐように、再構成された一品です。
「例えば、フィナンシェのようにバターの多い生地は冷蔵庫に入れると固くなります。その生地をアントルメに使った場合はどうなるでしょう? ムースの柔らかな食感を邪魔しますよね。そこで、油脂分をバターからヘーゼルナッツオイルに変え、チョコレートはカカオバターの少ない“P125”に変更。よりやわらかく、よりカカオの味わいを出した生地にすることができました」
さらに、卵黄は全卵に変えることで、コレステロールも低減。
「2種類のムースには、牛乳の代わりに豆乳を使用。“節度”のためという意味もありますが、大豆のおかげで乳化力が強まりなめらかな食感が生まれます」

実際に試食してみると、かなり大量に豆乳を使っていながら、まったく“豆乳”を感じさせないのは見事。また、ケーク生地はヘーゼルナッツオイルを使うことで、口当りがやわらかく、味わいもすっきりとしたものに。味は濃厚なのに、切れの良さと軽さのある都会的な味わいになっています。







「フランスでババを食べて、“なんてお酒が強いんだろう!”と思った人もいるのでは? それは、冷蔵庫がない時代には、保存のためにアルコールと糖度が必要不可欠だったから。今は、例えば、アルコールをまったく入れなくてもいいと思います」とボウ氏。
ラム酒入りシロップの代わりに使うのは、スターアニスで香りをつけたフランボワーズ果汁入りのシロップ。もちろん、ノンアルコールです。
さらに、上に絞るのは“ジヴァラ・ラクテのガナッシュ・モンテ”。生クリームの4分の1以上を牛乳に置き換えた配合です。かなりゆるいクリームになるのかと思いましたが、絞ってもきれいな跡がつくのにはびっくり。驚くほどつややかなクリームが完成しました。

ピンク色に染まった生地は、油脂を減らすことで吸水性を高めたもの。アルコール感はないけれど、フランボワーズの酸味がキュッと効いて、夏向けのフルーティなおいしさです。口どけがよく、ミルクのようなやさしい味わいのクリームとの相性も抜群です。







バオバブの木のようなサブレは、なんと亜麻仁のパウダー入り。亜麻仁は、不飽和脂肪酸を多く含み、味やダイエット効果もあるとして、パンなどではよく見かける素材です。
「まだ試作段階ですが、ヨーロッパでは100%天然のコレステロールオフのバターが作られています。実は、このバターの秘密が亜麻仁粉。乳牛の飼料に亜麻仁粉を入れたものを食べさせることで、コレステロールのカットに成功したということです」
そんな夢のような食材が開発されているとは!とにかく、亜麻仁の力はかなりのもののようです。
「実際、マドレーヌやフィナンシェなど、バターの味わいが重要なレシピにもまったく変わらずに使えました」
そして、もうひとつ。レシピの中で興味深かったのが、“脱脂アーモンドパウダー”です。
「フランスでは、ヘーゼルナッツやクルミ、アーモンドのオイルが非常にポピュラーです。今まで家畜の飼料としてリサイクルされていたその絞りカスを粉末にしてみたのが、この“脱脂アーモンドパウダー”。パティシエの間で『すばらしい!』と評価されているんです」
さらに、“マンジャリ64%のチョコレート・ムース”は、生クリームの半量を豆乳に置き換えて“レゾネ”スタイルで提供します。







名前の“ヴィシィー”とは、フランスで人気の温泉地の名前。
「ヴィシィーにはおじいちゃん、おばあちゃんがいっぱいいるんです。健康への取り組みが熱心なことから、パリ・ブレストをもじって“パリ・ヴィシィー”という名前にしました。パリ・ブレストは大好きなお菓子なのですが、油、油、油・・・という配合ですごく重たい。そこで、少し考え直してみました」とボウ氏。
シュー生地の作り方は伝統的なものと同じですが、違うのは卵白が多く、油脂をヘーゼルナッツオイルに代えているところ。また、中に絞るクリーム“プラリネのガナッシュ・モンテ・“レゾネ””には生クリームと同量の水を加えることで、非常に軽くあっさりとした味わいに。また、ゼラチンと卵白を加え、泡立てて使用することで、フンワリとした食感も楽しめるようになっています。

見た目も味も、決して“健康”や“ダイエット”を想像させるものではないところが、このテーマのポイント。お客様が食べておいしいと感じてくれれば、特に説明はいらないというのが、ボウ氏の気持なのです。
「『フォション』にいた時代、私はピエール・エルメ氏と共に試作を担当していました。彼から学んだのは“技術”だけではなく、“幸せを伝える喜び”です。彼は非常に味覚の優れた人物ですが、試作したケーキを食べて私に聞くのは、“何を伝えたかったの?”ということ。技術的にどんなに優れていても、感動がなければ何のためのお菓子でしょうか? 技術はディティールの一部に過ぎないのです」

チョコレートの技術にこれ以上ないほど長けたボウ氏。その人の言葉だけに、深く心に響きます。高い技術を持つ日本のパティシエ、ショコラティエが集まる場だからこそ、そして、このテーマだからこそ、こんな言葉で締めくくったのかもしれません。





「今日はどうもありがとうございました。そして、節度ある美食は、あくまでも美食で始まることを忘れないで下さい」
既成概念をくつがえすような技が次々に登場し、お菓子の将来というものを改めて考えさせられた、意義深い講習会となりました。


フレデリック・ボウ氏が見据える、30年後のパティスリー界。
“昔は、あんなに甘くて、重たいお菓子が好まれていたんだね!”
そんなふうに、今を振り返る日は、そう遠くないかもしれません。