扉を開けるとフワーッと広がる甘い香り。
卵とバターのコクに、フルーツの甘酸っぱさ…

子供も大人も無条件に幸せになれる、魔法の香りだ。
洗練や高級感が求められる一方で、お菓子はホッと安心する存在でもある。
そんなやさしさに満ちたパティスリー「ル・アマレット」が、昨年2006年6月、葛西にオープンした。
店の前を通るとおいしそうな香りが漂ってくる


訪れる人を迎える花々と、自然光が差し込むゆったりした空間。ショートケーキやプリンなど、いかにも町のケーキ屋さんといったラインナップの隣には、堂々たるトロフィーの数々が並んでいる。
さっそくシェフの天沼昇さんにお話を伺った。

「わかりやすい名前にしようと考えて『ル・アマレット』に決めたんです。自分の名前も良いなぁと思っていたんですけど"天沼"が覚えにくいでしょう。長い横文字も嫌だったので、"天沼"とアーモンドのリキュール"アマレット"をかけて"ル・アマレット"にしました」
"わかりやすく"。そのコンセプトは、彼のお菓子作りにも共通するテーマでもある。
「都心のお店だったらケーキやコンセプトに個性がないと難しいと思うのですが、この辺りはお子さんも多いし、日常使いにできる"わかりやすい"ケーキが良い。だから、あえてオーソドックスさを求めていこう、あえてショートケーキやモンブラン、チーズケーキが美味しいといわれる店にしようと思っているんです」
流行の店ではなく、地元にしっかり根づいた店にしたい。その想いから、壁には桜材、床には天然石など、長く使うほどに味が出てくるような素材を選んだという。
フルーツたっぷり!手頃な価格もうれしい


しかし、多くのコンクールで入賞するような人物であれば、やはり個性的な自分だけのお菓子を作りたいものなのではないのだろうか。"わかりやすく"というコンセプトは、いったいどうやって生まれたのだろう。
「父親がパティシエで、千葉県の野田でお菓子屋さんをしていたんです。その影響で、中学生の頃からプロ向けの製菓雑誌を見てクッキーを作ったりしていました。学校に持って行って友達と食べるんですが、おいしいと言われると嬉しくって」
そんなお菓子がごく身近な環境で、天沼さんは育っていった。
「高校を卒業した頃には、"箱を折っておけ"、"中を手伝ってくれ"と言われて、よく父の手伝いをしていましたね」
そしてその憧れは、まっすぐに天沼さんをパティシエの道へと導いた。高校を卒業するとすぐに、父親の紹介で神奈川県大和市にある「ボルドン」で修業をスタート。社長の佐々木氏は渋谷の老舗「ヒサモト」の製菓長だった人物だった。1年目は販売と工場の手伝い、2年目は窯、3年目は仕込み、そして4年目は生ケーキ作りと、4年をかけてみっちり洋菓子の極意を教え込まれた。
シックで高級感のある店内。ゆったりした空間が広がる

「ボルドン」を卒業した天沼さんが、更なる修業のために向かったのは、兵庫の老舗洋菓子店「ツマガリ」。ここに、天沼さんの原点があるのだとという。
「『ツマガリ』のお菓子は、オーナーシェフが修業したスイスの老舗『シュプリングリー』の影響を受けていて、オーソドックスなスタイルの『ボルドン』とは何もかも違っていました。それに、とにかく忙しい。朝7時から25時まで働き、帰るとお風呂に入って寝るだけ、という生活でしたね。でも、『ツマガリ』に行かなければ今の自分のスタイルはないと思っています」
ツマガリ流スタイルは、あくまでも素材にこだわり、本物の味を追求するというお菓子作りだけに限らない。例えば、店を飾る花々もそうだ。
「本当にたくさんの花を飾っていたんです。店が階段を少し降りる半地下のような場所にあるのですが、その階段の手すりにまで花が飾られているんですよ」
花は見るものを幸せな気分にする。しかし、なんと花代だけで、月50万円かかることも珍しくなかったというから驚きだ。
「ですから、私もお客様が店に来たときの喜びは大切にしたいと考えています。お菓子や花は心の贅沢、それだけで幸せになれるものだと思うんですよ」
そう言われてみると、手すりにこそないが、色々な場所に花が飾られていることに気が付く。そのほか、レモネードが用意されていたり、お手洗いにベビーベッドを設られていたりと、細かい配慮が随所に感じられる。

レモネードと試食のクッキー。ちょっと休めるようにと、イスも用意されている

「たとえば贈り物をいただいた瞬間、ラッピングが素敵だと全然印象が違いますよね。まずはそれを目で楽しみ、開けて美味しそうだと感じ、そして最後に味わうもの。それぞれの過程で楽しんでもらいたいから、ラッピングは重要だと考えています。誰でも知っている有名店だったら"店名"もプラスに働くのでしょうが、『ル・アマレット』のことを知らない人にも喜んでもらえるようにしたいと思っているんです」
ツマガリ流のもてなしの心であると共に、名物や特産品の少ない東京人のおみやげ代わりになればとの想いもあるそうだ。

目で楽しめるラッピング。季節感も演出されている

そして、天沼さんにお菓子とは何かを考えさせる出来事もあった。
「実は、ツマガリから次へ移る直前に阪神大震災が起こったんです。もちろん店は営業できなくなり、残っていた焼菓子類は避難所で配ることに。ガス、水道とも1ヶ月間通じないという状況の中、プロパンガスを設置し、水をくみに行って、1週間後には営業を開始。拡声器で『ツマガリは営業しています!』とアナウンスをしました。みんな大変な事態に合っているから誰も来ないだろうと思っていたのですが、いざ始めてみると通常の半数以上のお客さんが来てくださったんですよ」
楽しいときも辛いときも、お菓子は心を潤わせる存在。その想いが天沼さんの中で確固たるものへと変わっていった。

バラエティに富んだ焼菓子。あれこれ選ぶのも楽しみの一つ


関西で約6年を過ごした天沼さんが、次に向かったのは栃木県宇都宮の「クイーン洋菓子店」。独立する前に関東でもう1軒お店を経験しておきたいという気持ちからだった。
ところが、
「堺市(大阪)にオープンした『フランシーズ』が、オープン当初からすごい人気で、とにかく人手が足りないからと、急遽、助っ人に呼ばれたんです。シェフは、テレビチャンピオンで優勝したこともある横川さん(『T.YOKOGAWA』)。当時は『スリジェ』の和泉さんも一緒だったんですよ」
その当時、なんと1日平均500人のお客様で賑わっていたという「フランシーズ」。当時30歳だった天沼さんは、また帰って寝るだけの生活に舞い戻った。しかし、その忙しい合間をぬって、コンテストにも精力的に参加し、アメ細工の技を極めて行く。現在の事務所に掛かっている数々の賞状がその証だ。

デザインの発想には生け花の本を参考にすることも


横川シェフの後を継ぎシェフになった天沼さんは、合計7年間を「フランシーズ」で過ごした。そして、満を持して関東へ。町田の「ママンラトーナ」で2年弱シェフを務め、2006年に退職すると、わずか約3ヵ月半の準備期間で「ル・アマレット」をオープンさせた。
「独立するなら絶対に関東だと思っていました。実際は関西での経験が10年以上と長いので、関西の出身でしょ?と勘違いされることもあるんですけどね(笑)」
たしかに、イントネーションも関西弁とは言わないまでも、関西風に聞こえる。東と西では好まれるケーキが異なると言うが、それほど関西に馴染んだ天沼さんにとって苦労はなかったのだろうか?
「確かに関西では、形は大ぶりだけれど、味は淡白なものが好まれると思います。デザインもフルーツが大ぶりで、パティスリーと言うよりもケーキ屋さんに近いイメージですね。関東の特徴は、とにかくメディアに弱いこと!」
関東では、流行のスタイルにすると、人気は出るものの、すぐに飽きられる時が来る。また、周りの目を意識しすぎると、結局は流され自分の道を見失ってしまう。それが怖いのだと天沼さんは言う。

「味覚に関しては、不思議なことに、関東風に戻ってきているんですよ。例えば生クリームは今まで使っていた42%からもう少し乳脂肪分の濃いものに変え、その分ホイップマシンで空気を入れて軽さを出すようにしています。甘さも以前より強くしているんですよ」
周りに合わせるのではなく、自分の美味しいと信じる味を作る。定番の味=変化しない味、ではないのだ。
「新しい素材に興味はありますが、とにかく美味しいことが大前提。植物性脂肪や乳化剤の入ったもの、そして天然でないものは使わないようにしています。たとえば牛乳は、単一農場限定でトレーサビリティのしっかりしたものを使っています。特殊な方法で処理していて、味わいもより搾りたてに近いんですよ」
もちろん、ほかの素材も厳選する。卵は、臭みがなく、栄養価の高いもの。魚や肉骨粉を飼料にしたものは一切使わない。そして砂糖は、ほとんどのお菓子にチリ産のオーガニックシュガーを使用している。アシの葉でアクを取るという製法なので、甘みにキレがありサラッとした後味が特徴だ。

デコレーションケーキの種類を増やし、選ぶ楽しさを味わって欲しいと天沼さん


わかりやすい美味しさを求める一方で、コンテストに対する情熱も消えることはない。
「できれば今年中にも出場したいですね。コンテストは自分の勉強になるし、今のセンスや感覚に気付かせてくれる場所。どの世界でもそうですが、上に立つと偉くなった気分になるし、誰も注意してくれなくなる。だから、これからも色々なことに挑戦する気持ちを持ち続けていきたいと思っています」
と熱く語る。新しい素材に取り組み、自分の限界に挑戦する場がコンテストなのだ。
「クープ・デュ・モンドの予選にもアメ細工で出場したのですが、最後の段階で土台が壊れてしまったんです。時間が迫る中、もう一度チャレンジしたのですが、また同じところがダメになってしまって・・・」
と当時を思い出して悔しそうに話す。しかし、なぜ同じ個所が2回も・・・?と疑問に思っていると、一枚の写真を見せてくれた。以前、イタリアのコンテストで優勝したときのものだそうだが、まるで糸のように細い飴で土台とパーツが結ばれている。微妙な湿度や振動でさえ命取りになりそうな繊細さを見て、クープ・デュ・モンドでのアクシデントにも納得がいった。

しかし、コンテストで求められる斬新さやアイデアと、シンプルでやさしい「ル・アマレット」のお菓子とは対極ともいえる位置にある。
「この店のコンセプトとは別に、自分の中にシャープでキリッとしたスタイルを求める気持ちもあります。だから、それを消化するためにもコンテストはぴったりなんですよ」
コンテストは、天沼さんの中にある、もうひとつの引出しなのだろう。

シャープに仕上げた大人向きのケーキも並ぶ


そんな多才な天沼さんの今後はどうなっていくのだろうか。
「まずは、シュー生地を使ったものやチョコレートなど、"わかりやすい"ケーキをもっと充実させたいですね。そして、少しずつ、グラサージュを使ったムース系も増やしていく予定です」
周りに流されることなく、一歩ずつ着実に「ル・アマレット」の味は広がっていくのだろう。

「ヨーロッパのように、年月を重ねることで信頼を集めていきたいです。葛西といったら『ル・アマレット』、いつかそう言われるようになりたいですね」
何代にも渡って愛される名店、その一歩は今、踏み出されたばかりだ。(2007.3)





パティスリー ル・アマレット
住所東京都江戸川区南葛西4-6-8 KANEKO Build 1F
TEL03-3804-4430
営業時間9:30〜20:00
定休日火曜
アクセス 東京メトロ東西線「葛西」駅よりバス5分「総合レクリエーション公園」下車、徒歩1分 (葛西24"なぎさニュータウン"、臨海28"臨海公園")
JR京葉線葛西臨海公園駅よりバス3分「堀江団地」下車 徒歩2分 (臨海28)