市ヶ谷にある『ベッカー』がオープンしたのは1984年。以来、ドイツパンを始めとする『ベッカー』の味わい深いパンは多くのファンを魅了してきた。その『ベッカー』が新たに2号店を出店したとのこと。場所は東西線神楽坂駅近くの神楽坂商店街。1号店との距離はわずか一駅分ほどという近さだ。ドイツパンの先駆け的存在として評価を得てきた『ベッカー』が20年経った今、なぜ新店舗を?
そんな気持ちから勢い込んで稲葉宣範シェフに話を伺おうとしたが、

「1号店が古くなってきたからね。ごく自然の流れですよ。今はこちら(2号店)をメインにやっています。どうしてこんなに近いのかって?この辺りはいいところだし、それにわざわざ違う場所に作る理由もないと思ってね」

とさらりと返されてしまった。

  

「前の店は売り場が狭くてお客さん同士がすれ違えなかった。そこでショーケースの奥行きを少なくして売り場を広げてみたんだけど、今度はお客さんの動線が悪くなっちゃって。そのうち改善しないとね。お店の看板がない理由?実は開店までに間に合わなかったというだけのことなんですよ」

驚いたことに、開店から半年経った今でも神楽坂店には看板がない。

稲葉さんは自分を大きく見せようとか、特に苦労を語ったりすることを好まないようだ。スマートな口調でさらりとかわされると、一見なんでもないことのように思えてしまう。しかしじっくり話を進めていくうちに、お店やパン作りに対する強い想いを探ることができた。


ベッカーといわれたら、まず真っ先に思い出されるのがドイツパン。ライ麦の含有率が高い本格的なものから含有率が低くて食べやすいものまでが幅広く並んでいる。なかでもシュロートブロートは中挽きライ麦粉100%で重量感があり、旨みも濃厚。この生地に丸麦を合わせることで噛み応えのある食感がプラスされた。

「粉の挽き方はいろいろありますが、粉末よりも粗い中挽き粉のほうがコクが出るんです。一番の特徴は自家製サワー種。種の材料はパン生地と同じ中挽き粉と水だけというシンプルなもの。今ではひとつのサワー種を色々なパンに使いまわすことが一般的ですが、昔は違っていたそうです。このパン同様に、パン生地と同じ粉で専用の種を作っていたんですよ」

そして大切なのは発酵段階。発酵させる時の温度によってパンの味が左右されてしまうから気を抜けない。

「同じ厨房でも、天井と床では温度が違う。また日によっても変化するので、常に最適な場所を選んで発酵させています。もちろん、温度だけでなく発酵時間もその時々で違ってくる。常にパンの気持ちになって考えてあげないと」

  

ベッカーの店頭には各国のパンが並んでいる。が、店名やドイツに留学した経歴からすると一番思い入れが強いのはドイツパンだろう。そう思って話を持ちかけると、また意外な答えが返ってきた。

「ドイツパンはずっと興味がありますよ。でも、なかなかお客さんに浸透していくのには時間がかかりますね。ドイツで修業していた頃は、フランスやイタリアにも足を運んで各国のパンを食べ歩きました。その頃から気になっていたのはイタリアパン。ドイツパンとは全然違う。"え、こんな作り方でいいの?"って驚かされることもあります。でも、それまでの常識では測れないパン作りの原点のようなものを感じるんです。理屈っぽいドイツパンに比べると日本人にはなじみやすいんでしょうね」



店頭に並ぶイタリアパンの中で稲葉さんに勧められたのはフォカッチャ。今はイタリアの粉を使用しているとのこと。やはり現地の素材を使うのが一番おいしくなるのだろう。

「実はそうでもないんですよ。イタリアに限らず、最近はドイツやフランスなどの粉も手に入るようになりました。でも、日本の水とは相性が良くないものが多いので、本来の粉の持ち味が活かせないような気がしています。作業性も悪く、値段も高いので使いにくいのが現状ですね。このフォカッチャも試行錯誤してイタリア粉に落ち着きました。本当のところどの粉を使うのがベストなのか、まだ結論は出ていないんですよ」



常に冷静な判断力で現状を分析し、次にやるべきことを考えている。その余裕や落ち着きは長年の経験から生み出されたものなのだろう。
それまでは落ち着いた口調で話を進めていた稲葉さんだったが、「最近の職人は?」という話題に話が及ぶと少し抑揚が強くなった。

「昔は生計を立てるためとか、自分の店を持ちたいからという目的がはっきりしていました。それに比べて、最近はちょっとやってみようという考えの人が多いですね。でも、とりあえずという気持ちでは続かないんです。職人としての覚悟を決めて目標を持って臨んでくれたら、と思います」。

テクニックを身に付けることも大事だが、それよりももっと必要なことがある。稲葉さんは口にこそ出さないが、職人としてのプロ意識を身をもって示してくれている。 (2004.11)







神楽坂店
住所東京都新宿区神楽坂6−8−30
TEL03−3513−7866
FAX03−3235−4864
営業時間8:00−20:00
定休日
アクセス東西線神楽坂駅1番出口より徒歩3分


北町店
住所東京都新宿区北町21信幸ビル第2ビル
TEL03−3268−2818
営業時間8:00−20:00
定休日
アクセス東西線神楽坂駅2番出口より徒歩5分
または大江戸線牛込神楽坂駅より徒歩5分