「お勧めしたいおいしいパン屋さんがあるんです」

ある日のこと、パナデリアに会員から情報が寄せられた。向かった先は田園都市線のあざみ野。あざみ野はたまプラーザと青葉台の間に位置し、若々しい爽やかな雰囲気が漂っている街だ。
マンションの一階にある『穂の香』も、そんな街並みにぴったりのブーランジェリー。鉄製の大きな看板にプレッツェルの形をしたドアノブなどが愛らしく、まるで西洋の絵本から飛び出してきたかのよう。思わず絵本をめくるような気持ちで木の扉を開けて中へ。店内もイメージどおりの優しさや温かさで溢れている。木をイメージしたという鉄のオブジェや古い農具、手作り感漂うウッディなカウンターなどわくわくするようなしかけがいっぱいで、自然とテンションが高まってしまう。そしてカウンターの上にはたくさんのパンたち。活き活きとしたその表情のなんとおいしそうなこと。こんなに素敵なお店でいったいどんな人がパンを焼いているんだろう。
 





「お待たせしました」

現れたのはとても若々しいシェフ、吉田学さん。まだ31歳と、シェフブーランジェの中でも若手のほうだ。しかし、ブーランジェとしての経験はすでに13年もあり、中堅といっていいだろう。
福井県の高校を卒業した後、物を作る仕事に就きたいと考えてパンの世界へ。目標は「30歳までに自店をオープンすること」。最初は大阪のドンクで5年間修業を積んだ。

「パン作りはとにかく楽しかったです。天板を磨いたり洗い物をしたりといったいわゆる雑用でさえ全く苦にならなかったほど。日々職人技が身についていくのがわかるところが面白いですね。いい上司に恵まれ、ソフト系からハード系まで一通り勉強させてもらいました」

更に自然食のパン屋勤務を経た後、渡欧してパンの見聞を広めた。その後ドイツパンの老舗『ブロートハイム』へ。

「ドンク時代から明石シェフの講習会に参加していたことがきっかけでした。何事にも妥協をしない丁寧な仕事振りには本当に頭が下がります。ドイツパンは自己流で作ったことがありました。でも、現場に入ると作り方が全然違っていたんです。種の管理やライ麦パンの扱いなど、いろいろなことを教わりました」

奥様の由華里さんと知り合ったのもこの頃だ。




そして念願の自店をオープンしたのは今年の1月。由華里さんは売り場を担当、その優しい笑顔が『穂の香』の顔になっている。同じ喜びや苦しみをわかちあってきた最良のパートナーといえるだろう。
ブロートハイムに入社する前に、吉田さんはフランスやドイツに足を運んでいる。

「フランスにしろドイツにしろ、どこのパン屋も本当においしいんです。きっと、食事がパンに合うものばかりだからですよね。それからもうひとつ、日本人はたとえばバゲットなら350gでクープは7本というように固定観念が強く、すぐ枠にはめて考えてしまいがち。欧州ではそんなことはなく、もっと自由に楽しく作っていることを実感したんです。そこで食べたパンを自分の店にも並べてみたい、そんな想いで帰国しました」





欧州で感動した味をイメージして作られる『穂の香』のパン。そのひとつがバゲットだ。

「フランスではユースホステルに泊まっていたので、一般人の朝食を目にします。彼らが食べるのはバゲットとカフェオレだけ。バゲットにはバターやジャムをたっぷりつけて、豪快にかぶりつくんです。レストランできどって食べるようなバゲットもいいけれど、僕が作りたいのはこのような普段食べられるもの。そんなイメージに合うのが『ラ・フルート・ガナ』のバゲットでした」

『ラ・フルート・ガナ』のバゲットは縦に一本クープが入り、香りの良さとしっとりとしたクラムが特徴的。食べただけなので当然配合はわからない。帰国してから舌に残る記憶を頼りに何十回と試作を繰り返した。納得できるまでは出せないからと、開店当初は置いていなかったというこだわりぶりだ。ようやく出来上がったバゲットは、軽やかなクラストと非常にしっとりとしたクラムが印象的。そのバゲットを豪快にほうばっている自分に気づき思わず苦笑いしてしまった。どうやら吉田さんの術中にはまってしまったようだ。





他にもこだわりのパンはまだまだある。

「今の季節なら栗のリュスティック。生の栗を蒸したものと、缶詰のものとでは全然おいしさが違うんですよ。同じように、夏は焼いたとうもろこしを入れたコーンパンを作りました。これも缶詰のものより格段においしい。それから、クリームパン。僕の理想は口溶けがよく、かつ粉っぽくないカスタード。ポイントは火加減です。何度もトライしてようやくできあがりました。それから・・・」

取材を始めた時から印象的だったことがある。それは、パンの話をする時の吉田さんの表情だ。瞳がきらきらと輝く活き活きとした表情を見ていると、まるで少年のように素直に感動したり喜んだりしている様子が伝わってくる。『穂の香』のパンはそんな吉田さんの性格がそのまま表れたピュアで澄み切った味わい。もちろん、これだと思った味を表現できる能力も必要だ。素直さと職人としてのセンス、その両方を持ち合わせているところに吉田さんの強みがあるのだろう。

店内風景


カフェスペース本棚コンフィチュールの取り扱いも。




開店から10ヶ月あまりで、『穂の香』は早くも地元に根ざした店になっているようだ。そのことは、取材中にも続々とやってくるお客様を見れば一目瞭然。

「自分たちが作りたいパンと、お客様が食べたいパンがたまたま一致したんでしょう」

と謙遜するが、そんな性格も魅力のひとつなのだろう。 最後に将来の夢について尋ねると、また目をきらきらさせながら語ってくれた。

「理想は一戸建てのお店!ヨーロッパでは自分の庭で取れたフルーツを使ってパンやお菓子を作るんですよ。そんな店をやりたいです」

その姿を想像してますます温かい気持ちになった。長い目で見守っていきたい、その気持ちは地元のお客様も同じに違いない。(2004.10)







住所 神奈川県横浜市青葉区新石川1-22-1-102
TEL045-911-2987
営業時間7:00〜19:00
定休日月・第一、第三火曜日
アクセス東急田園都市線あざみ野駅より徒歩8分