目の前に広がるのは、目黒川の両側に続く八重桜の並木。春、満開になったらどんなに素晴らしいだろう、そんなことを思いながら、今はむせ返るような緑を臨む「HUIT(ユイット)」への階段を上る。こちらの気配を察してか、タイミングよくスタッフの女性が出迎えてくれた。
扉を開けるとまず目に入るのが、アンティークな棚に並べられたパン。バリッと焼き込まれたバゲットやカンパーニュに、コーンや春菊など旬の素材を使ったリュスティック。スコーンやクリームパンなど、甘いパンもある。
パンの種類は豊富だが、「ユイット」は単なるブーランジェリーではない。ビストロをメインに、本格的なブーランジェリー、パティスリーを兼ねている。パリのビストロを思わせる店内には、人々のざわめきが心地よく響き、よく使い込まれた木のイスに座ると、何だかこの店の一部になったような安心感に満たされる。仲間と食事をする人、飲物を片手に本を読む人とそのスタイルも様々だ。


目黒川に沿ってひっそりと佇むHUIT



いわゆるビストロやカフェでは、スタイルや格好の良さも大きなウェイトを占めている。だから、すらりと形良く、いかにもおいしそうな焼き色をしたバゲットやカンパーニュを見ても、“きっと形だけだろう”と思われがちだ。ところが、それは良い意味で期待を裏切られる。香ばしいクラストの下に広がる粉の旨み、そして食感の楽しさが、口の中で心地よく存在を主張する。料理を目的に来店したが、添えられたパンのおいしさにハッとしたという人も少なくないだろう。当然、わざわざパンだけを買いに来るパン好きも多いと聞く。そんな「ユイット」の人気を支えるパンを作るのは、どんな人なのだろうか。

「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

そういって現れたシェフブーランジェの鈴木琢磨さんは、穏やかな物腰とやさしそうな目元が印象的な29歳。さっそくお話しを伺った。


シャンデリアの光がやわらかく、レコードから響く音楽も心地よい



「実は、学生時代はサラリーマンになるつもりだったんです」

東京・六本木で生まれ育った鈴木さんは、大学で語学を専攻。特にフランスに興味があったが、あくまでフランス語や美術や建築物など文化の方面だったという。

「20歳の時、旅行先のフランスで出会ったパンがきっかけなんですよ。昔ながらの伝統的なパンの姿がとても美しく感じられたんです。それに、パンの素材は、粉、水、酵母、塩と、料理に比べればゼロに近い。それなのに、どうしてあんな味が生まれるんだろうと、気になってしまって」

それまでは、パンというものを特に意識することなく過ごしてきた鈴木さん。だが、元々物を作るのが好きだったこともあり、パンへの想いは急速に高まっていく。そして、気が付けばブーランジェへの道へ。本格的にパンを学ぶため専門学校に入り、卒業後は「ホテルニューオータニ 東京」のベーカリーへ入社した。 だが、ホテルで作るパンは、フランスで憧れた伝統的なスタイルのパンとは少しイメージが違う。そのことは問題になかったのだろうか。

「パンを作るのはもちろんですが、サービスも含め飲食業全般に興味があったんです。ホテルではとにかく作る量も多いし、使う素材も自由があって勉強になりました。それから、ピエール・エルメ氏を始め、有名シェフと会う機会も多かったんですよ」

鈴木さんの想像通り、ホテルは“食”に関する刺激に溢れていた。だが、4年ほどして鈴木さんはこの場所を離れることに。そのきっかけとは?

「お客さんから遠いなぁと思って。もう少し近い場所でパンを作りたかったんですよ。それに、朝が早いのも辛くて(笑)」


6種類の生地を使い分けた約20種類のパンが並ぶ



鈴木さんが見つけたのは、パリの香りがするブーランジェリー・・・ではなく、なんと桜ヶ丘にある1軒のカフェだった。

「歩いているときに、ふと見つけたんです。なんとなく、良い店だなぁと思って。20席ほどのカフェで、メニューはケーキ、飲物、ピザや軽食類。ここは基本的に1人で営業するスタイルだったので、ホールのサービスをする間に仕込みをして、というような感じでやっていました」

大勢のスタッフが細かく分かれたセクションを受け持つホテルから、たった一人でのカフェ営業。そう聞くといかにも大変そうだが、鈴木さんの口調は漂々としている。

「自分のスタイルにも合っていたみたいです」

パンに憧れてこの道に入った鈴木さん。だが、それに固執せず、“食”と“お客様”という大きな枠の中で、流れに身を任せているのがかえって良かったのかもしれない。2年半ほどすると、カフェの系列店として今の店「ユイット」のオープンが決まる。そして、今度こそパン全般を任されることになった。



味、ボリュームともに満足度の高いDejeunerはパン付きで\1,050〜(土日\1,260〜)


現在、パンのスタッフは鈴木さんのほかにもう一人。だが、作る量はかなりのものだという。

「ここでは、会社の他店舗の分も作っているので、ランチとディナーに出す分だけでも結構あるんですよ。特に桜の時期には、通りの先まで行列ができるほどで、おかげさまでかなり多くのお客様に来ていただいています。さすがにその時は大変ですけど、まぁ、1年に1回のことなのでがんばってます(笑)」

厨房は料理のスペースの横にあり、決して広いとはいえない。しかも、隣では常に火を使っているから、パン作りに欠かせない温度管理も難しくなってくる。「ユイット」のラインナップにクロワッサンが作れないのもそのためだ。だが、鈴木さんは“生地を熟成させて生まれる粉の甘みを感じて欲しい”それを目標にパンを作っている。

「例えばバゲットは、捏ね上げ温度をかなり低めにして、16時間低温発酵させています。味はもちろんですが、スペースの関係上、冷蔵庫管理が製法としても効率的なんです。本当はもう少し時間をかけて生地を作り、焼き上がりの状態に生地の旨みが100%閉じ込められるようにしたいんです」


バゲット ¥270


生地を分割した後は、一般的な工程より長く3時間休ませる。その代わり、成形をしたらすぐに窯に入れ、270℃の高温短時間でバリッと焼き上げる。工程の中でも一番こだわっているのは、焼き上げの見極め。1分違うだけで色も味もまったく変わってしまうから、気を抜けないのだそうだ。

「せっかく仕事をするからには、おいしく、きれいに、丁寧に、ということを心掛けています。飽きがこなくて、当たり前に美味しい、そしてずっと残るものを作りたいですね。苦労して作っている分、ひとかけらでもその想いがパンに乗るように、そして食べる人にそれを感じてもらえるような仕事をしたいと常に思っています」

そう話す鈴木さんの口調は、相変わらずソフトなままだ。だが、秘めた想いの強さはしっかりとこちらに伝わってくる。おいしくて、格好の良いパンはいくらでもある。その中で選んでもらうためには、まず自分が作るパンに対して誠実でありたい、そう考えているという。


モチッとやわらかなリュスティック生地にたっぷりのグリーンピースを練りこんだ“グリーンピース\270”が人気


そして、変わらない良さに惹かれる反面で、“人と同じ事をするのが好きじゃない”のも鈴木さんのパンの特徴といえる。ベーグルをアレンジした“ビアリー”がそのいい例だ。

「ニューヨークに大好きなベーグル屋さんがあるんですよ。そこで食べるベーグルサンドはおいしいんですが、そのまま生地だけを食べるにはちょっと無理がある。それで、パン生地だけでもおいしく食べられるようなベーグルをイメージして作ったのが“ビアリー”なんですよ。なにか斬新なパンを作ろうという気持ちはありません。普通のパンをよりおいしく作りたい、そう考えてパン作りをしています」

根底にあるのはあくまで古くから親しまれてきたパン。そこが、鈴木さんの作るパンの魅力となっているのかもしれない。


ビアリー \160

スコーン \150



「基本的に20種類以上は作らないようにしているので、かなりラインナップは変わります。特に旬の素材を使ったパンは、『あれはないの?』とお客様に聞かれることも多いんですよ」

“お客様にもっと近い場所で”。その願い通り、お客様とのやり取りの中で定番化した商品も多い。
お年よりも比較的多いという場所柄、ちょっとビストロには似合わない“あんパン”や“クリームパン”、黒豆を使ったパンなどソフトな食感のパンが多いのはそのためだ。

「オープン当時から、ずっと食パンを買い続けてくださるお客様もいるんです」

“へぇ、食パンか”と思い棚を見るが、食パンは見当たらない。

「そうなんです。その方から注文があるときだけ作るので、普通は置いてないんですよ」

定番メニューになくても、オーダーがあればその都度作っているという。忙しい中、大変ではないのだろうか?

「そのお客様と話すのが楽しみなんですよね、そのために作っているようなものです」

そう話す目は、一層やさしく細められた。


タルト系が充実。ティータイムにぜひ



「既製品の天然酵母や色素でビビットな色を表現するのはとても簡単です。それはそれで、良いと思うんです。でも、僕はパン屋にしか出来ない味や作り方に魅力を感じています。すごく時間と手間のかかる仕事だし、販売価格は数百円と小さなものかもしれないですが、昔の人が考え、長い時間をかけて受け継がれてきたおいしさをお客さんに伝えていきたい、そう思うんですよ」

流行とか新しいものにはまったく興味がないんです、と鈴木さんは笑った。

そんな鈴木さんの気持ちは、店のスタイルにも通じているようだ。

「この店は、床や壁、そして手すりに階段まで、とにかく全部が手造り。スタッフ全員で徹夜して作り上げたものなんです。その分、愛着はすごくありますね。スタッフもみんな仲が良いし、楽しい職場ですよ」

来春には代官山に、ブーランジェリー、パティスリー、ブラッスリーを兼ねた店がオープンする予定だという。


窓から外を眺め、パンを頬張る。まさに、至福のひと時!


今でも鈴木さんの中にあるのは、最初に出会ったパリのブーランジェリーのイメージだ。
だがあの時、本当に惹かれたのは、パンの見た目ではなく、そこに込められた職人の想いであったのかもしれない。
パンに乗せた職人のひとかけらの想い・・・
鈴木さんの想いも、そうやって誰かの心に伝わっていくのではないだろうか。










HUIT(ユイット)
住所 東京都目黒区中目黒1-10-23 リバーサイドテラス1F
TEL03-3760-8898
営業時間11:45〜26:00(日・祝 〜22:00)
定休日無休
アクセス東急東横線中目黒駅より徒歩7分