コンクールをはじめとした洋菓子関連のイベントでは、必ずその姿を見かける横田氏。自らも数々のコンクール受賞歴を持ち、現在の日本の洋菓子業界を支える人物のひとりだ。「菓子工房オークウッド」オープンの際には数々のマスコミが大きく取り上げたことは、記憶に新しい。オープンから10ヶ月経った横田氏を訪ね、歩んできたその軌跡から将来の展望までを聞いてみた。



「とりあえず大学に行こうか」と考えていたが、和菓子職人である父親の姿に影響を受け「物を作る仕事に就きたい」と思うようになる。しかし選んだ道は、洋菓子職人。

「何となくケーキ屋の方が格好が良いかと思って」

その理由を笑いながら話してくれた。


専門学校で学んだ後、「東京プリンスホテル」へ入社。多い時は3000人分ものケーキを作ったという宴会場の仕事を経験した後、ホテル内のフレンチレストランへ異動。

「当時はフランス料理界が華やかな時代で、東京プリンスでは最先端の料理を出していました。フランス人の料理人と一緒に働きながら、彼らの感覚を知ることが面白かった」

様々な料理書を読み、知れば知るほど惹かれる”フランス”。渡仏のチャンスを狙いながらも、新しいステージへ場所を移す。



それは、銀座の超一流フランス料理店である「レカン」が営む「パティスリー・レカン」。当時ジャン・ミエ氏がアドバイザーを務め、レストランデセールの華やかさや繊細さを取り入れた正統派のフランス菓子を出していた。ここでは大きなカルチャーショックを受けたという。

「ケーキをまとめて作って冷凍することで仕事の効率を上げ、あいた時間を使って仕込みやデコレーションに惜しみない手間をかけていることに驚きました。例えばモンブランの場合、マロンクリームは通常は細い穴が10個ぐらい空いた口金で絞りますが、レカンで使う口金は細い穴が1個。それをシュガーのアイシングのように絞るのです。アントルメの場合、その絞りに要する時間は約15分。当然絞りの技術も必要で、結局一度もやらせてもらえなかったんですよ」



バブル絶頂期の1986年、「東京全日空ホテル」の開業に伴い入社。先輩パティシエが何人もいたが、幅広い仕事をさせてもらえたという。

「メインダイニングはフランスの二つ星レストランと提携していて、フランス人シェフが常駐していました。シェフから依頼を受け、デセールを作り上げる。それが評価されると本当に嬉しくて、自分で作り上げることの喜びとやりがいを感じました」

コンクールに集中して出場していたのは、ちょうどこの頃。東京プリンス時代に習得した飴細工だが、当時はその技術を持つパティシエは少なく、レカンや全日空では横田氏だけだった。その技術が横田氏を支え、周囲から認められるきっかけにもなったという。

コンクールへの出場の理由は、何だったのだろう?

「コンクールとは”自分の技術の粋を表現する場”です。しかし出場するための練習は仕事後にする訳ですから、自分との戦い。『もう止めよう』と思っても、他のパティシエが出場すると聞くと自分も出たくなってしまう」

当時のライバルは現「アン・プチ・パケ」の及川氏や、現「オリジンーヌ・カカオ」の川口氏。今の日本の洋菓子界をリードする面々が、若いパワーを炸裂させていた時代だった。



こうした状況のなか、「シェフとしてやってみたい。自分の理想を実現したい」という気持ちが強くなっていく。横田氏の評判は既に広く知れ渡り、数ある誘いのなかに「パークハイアット東京」が開業する話が持ちかけられた。外資系のホテルといえばコスト重視で機械的なイメージがあり、当初は乗り気でなかったというが、実際に話を聞いて横田氏の心が動いた。

「支配人や料理のシェフは自分と同年代で、専門分野は違うものの、話をしていて自分と同じ方向性が見えました」

パークハイアットでシェフを務めるに当り、目指したものは何だったのだろうか? それは、「街のケーキ屋に負けないお菓子を、ホテルで作ること」。かつてホテルの菓子は街場のケーキ屋に比べレベルが高かったものの、実力のあるパティシエが自店をオープンし、いつしかホテルのレベルを追い越していった。「他人が出来ないことをやってみたい」というチャレンジ精神もあったのだろう。しかし実際に仕事を始めてみると、すぐに大きな壁に突き当たる。

「上層部は外国人が多く、国籍も様々な多国籍軍。今まではフランス菓子だけを追い求めていましたが、ここで求められるものは様々な食文化を持つ人達に共通して受け入れられる味でした」

若い頃から料理の本をよく読んでいたそうだが、それらは全てフランスのもの。アメリカの料理本など絶対に見なかったそうだが、いざ見てみると様々な新しい発見があったという。

「技術的に『こんなことしていいの?』と思うことでも、やってみると案外大丈夫なんですよ」

そんな試行錯誤を経て、”パークハイアット東京らしい菓子”が出来上がった。パークハイアットといえば、そのスタイリッシュなデザイン性の評価も高いが、その点で苦労はなかったのだろうか?

「デザイナーのジョン・モンフォードのこだわり方は、本当に凄かった。最初は理解できず苦労した もありましたが、徐々に理解しながらその良さを自分のものにしていきました」

ベストリーブティックで扱うパッケージデザインも横田氏の選択だという。

「素晴らしい物を提案してもらうことはありましたが、現実的な採算や作業性までは考えていないことが多い。パッケージも含めて商品ですから、自分で決めました。与えられた仕事をするのではなく、自分が発信地になるようにしないと」




5年を経て自分で納得のいくものが出来た時、次の目標が頭に浮かんだ。

「この世界を”本”にして残したい」

出版社に企画を持ち込んでから、出版までに要した時間は約二年。そこに掲載するお菓子はもちろん写真の美しさにもこだわり、カメラマンは渡辺文彦氏を自らが指名した。





「出来上がった写真はもちろん、渡辺さんの撮影風景に惹かれました。直感でこの人に頼みたいと」

出来上がった時は、言葉に言い表せないほどの嬉しさと、達成感があったという。今では、この本を持ってサインを求める横田氏のファンも多いそうだ。

「驚くほど使い込んだ本を持ってくる方もいます」



本の出版から3年後の2004年5月、念願の自店「菓子工房オークウッド」をオープン。2年の歳月を要し綿密な計画の基に作られた店舗は、絵本から飛び出したような「お菓子の家」。



パークハイアット時代のスタイリッシュなイメージとの違いに驚いたが、それにはこんな理由があった。

「ホテルというのはある意味で特別な場所。今は自分のライフスタイルに合った場所で、その土地の人に求められるお菓子を作りたい」

出店場所として選んだ春日部は、結婚以来住んでいる生活の拠点だ。

「お菓子というのは嗜好品で、それには楽しさや癒しの要素を沢山含んでいる。この店では、お菓子を買う段階からそんな気分を味わって欲しいと思っています。季節によって表情を変える庭の木々や草花は、本当に美しい。散歩の途中で庭を見るために立ち寄るお客さんもいるんですよ」

横田氏は極力店頭に立ち、客とのコミュニケーションを大切にしている。子供達に気軽に声を掛ける姿が印象的だった。


パークハイアットでは正統派フランス菓子にとらわれず新しい菓子の世界を切り開いていった横田氏だが、オークウッドで目指す菓子とはどんなものなのだろうか?

「素材を生かした菓子作りをしたいと思っています。菓子職人はルセットから入り、型にはまった作り方をしますが、料理人は素材の味と自分の感性で作り上げる。僕は料理人の感覚で菓子を作っていきたい。これにはデセールの経験が生きています」

開店から約10ヶ月たったが、横田氏の描くオークウッドの世界はまだまだ未完成だという。

「現在の建物や厨房機器は、カフェ専用の建物を増築することを前提に作りました。カフェではデセールを出していきたいと思っていますし、その後はパン屋もやりたいですね」

現在の店舗は建物を増築することを前提として設計され、厨房もこれらが完成したことを考えて広いスペースを確保しているそうだ。
  


夢に向かって店を切り盛りする横田氏だが、2003、2005年のクープ・ド・モンド日本選手団長と国際審査員を務めた。また職人で組織する団体の会長として講習会やコンクールの企画運営にも携わり、若手の育成にも尽力している。シェフとして、パティシエの先輩として、若手に対してどのように接しているのかを聞いてみた。

「体育会系とか色々な人がいると思いますが、僕は”羊飼いタイプ”。後ろから見守って、横道に反れた時には軌道修正するように声を掛ける。僕が大事だと思っている”感性を磨くこと”は、若くないと難しい。積極的にチャレンジして欲しいですね」


手づくりの棚に並ぶ季節のジャム


苺のパリパリタルト



イメージ通り穏やかな人柄の横田氏だったが、その奥には目標を追い求める強いパワーがある。将来像についてはパン屋の話までしか伺えなかったが、横田氏の夢はきっとそれに止まらないはず。数年後、今度はどんな夢を語ってくれるのか・・・大いに楽しみだ。




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