成城の街は、パンの香りがよく似合う。成城学園と祖師ヶ谷大蔵の間に、2007年、一軒のパン屋がオープンした。名前は、「ラドリエ ドゥ プレジール」。自家製天然酵母パンの店だ。
洒落たタイルの壁に、大きく開放的なガラス窓。誘われるように扉を開けると、ふっくらと丸みのある黄金色のパンが出迎えてくれた。
“自家培養ヨーグルト種、液状ルヴァン種、硬質ルヴァン種・・・”
やや大きめのプラカードには、酵母や小麦粉の種類を語る、詳細すぎるほどの説明が書かれている。そのこだわりぶりから察すると、相当ストイックな職人なのだろう。もしかして、気難しい人なのでは・・と、かすかな不安がよぎる。

通りからも、パンや作業の様子が見える。茶色のタイルが目印


ガラス窓の向こうで作業していた手を休め、シェフの田中祐次さんが現れた。
「こんにちは!今日はよろしくお願いします」
予想を裏切る明るい笑顔に気持がほっとゆるむ。

タイルと白の洒落た店内。ラインナップのほとんどをハード系が占める


「ラトリエ ドゥ プレジール」の一番の特徴は、なんといっても100%自家製天然酵母を使用しているということ。だが、その味や食感は、いわゆる“天然酵母パン”のそれとはかなり異なる。口どけが良くしっとりとした生地からは、想像以上にやさしく丸みのある味わいが広がるのだ。
「パン職人の方にもよく驚かれます。『イーストと併用してないんですか?』って。でも、本当に100%自家製の天然酵母だけで作っているんですよ。見てみますか?」
冷蔵庫を開けると、中には、ヨーグルトやビール、フルーツなどの酵母がズラリと並ぶ。一見して丁寧に管理されていることがわかる酵母は、フルーティな香りのものから、ツンと酸味の強いものまで様々だ。


ビール種、ヨーグルト種、季節のフルーツ種の3種がメイン。ライ麦やホップはもちろん、カボチャなどの野菜やワインやハーブティを使った酵母も登場する


フルーツや小麦に付く酵母菌を培養し、自然の力でパンを膨らませる自家製の天然酵母は、工業的に作られたイーストと比べて発酵の力が弱い。だから、“天然酵母”のパンといっても、実際は天然酵母をベースに少量のイーストをプラスして、発酵力を補っている場合が多いのだ。


とにかく、全てのパンが100%天然酵母。小麦の種類や中に入れるフルーツによって、酵母を変えている


元々、実家がパン屋さんだったという田中さん。最初に天然酵母に興味を持ったのは、あるフランス人との出会いがきっかけだった。
「料理に興味があってフレンチレストランに出入りしているとき、そこにいたフランス人が作ったパンがとてもおいしかったんです。自家製酵母だって聞いて、自分で作る酵母がこんなにおいしいなら、是非作ってみたいと思いました」


パンカゴを持つ女の子が目印


だがその後、田中さんは、自家製酵母パンが嫌いになってしまう。
「実際に食べてみると、固くて酸っぱいパンばかりだったんです。自家製天然酵母が特徴の店でも働いていましたが、自分の中では、天然酵母 = すっぱくて、固い、というのがどうしてもイヤだった。カンパーニュのようなパンはいいとして、パン・ド・ミがすっぱいというのは、どうも違うような気がして・・・。だから、むしろ天然酵母のパンは好きじゃなかったんですよ」

想いとは裏腹に、遠ざかっていく天然酵母パン。では、どんな店での修業を経て今のスタイルに至ったのだろうか。 「すみません、あまり言いたくないんです・・・」
と、田中さんは申し訳なさそうに小さな声で答えた。
「経歴を隠したいというのではないんです。でも、〇〇で修業した、と言うと、どうしても先入観を与えてしまうと思って・・・。それに、お世話になった方たちのパンを否定しているように受け取られても困る。それなら、いっそ何も言わない方がいいだろうということなんです。すみません!」
と、頭を下げた。
確かに、修業した店を聞いて、“だったら、こんなパンを出す店かな?”と、想像する人は少なくないだろう。あえて、真っ白な状態で自分のパンを食べてもらいたい。そう、田中さんは考えているようだ。

店名をつけた“プレジール”。フランス、ドイツ、北米産のオーガニック小麦と、3種類の自家製酵母を使用


話を元に戻そう。自家製酵母のパンはどうしたら作れるのかを模索しながら、田中さんは数ヶ所の店でパン職人として働いた。理想のパンに出会えないため、発酵と腐敗はどう違うのか、消化や吸収に影響するのか・・・。色々なパン職人に話を聞いて回るのはもちろん、大学教授からも酵母を学んだそうだ。

そして、だんだんと自家製酵母パンのノウハウを習得していった。
「自分の思うような天然酵母パンが作れるようになると、自家製天然酵母のことを、他のブーランジェにもわかって欲しいと思うようになりました。発酵と腐敗は紙一重なので、知識がないまま使ってしまうと危険性もある。そうことを含めて、伝えていきたいと思ったんです」
そこで、田中さんは約6年間の職人生活から、コンサルタントとして天然酵母を教える立場に。その傍ら、ネットを通してパンの販売を行なうようになった。

従来の天然酵母パンと違うのは、なんといっても酵母の使い方にある。力の強い酵母や風味の良い酵母を3〜4種組合せて使うことで、思い通りの食感と味を作り出せるのだという。
「酵母には、発酵力の強いものや、風味のあるものなど色々あるので、それを組合せて味に深みや旨み、甘みを出していきます。酵母って面白いんですよ。かなり酸味の強いものでも、成形後にたっぷり時間を取ると、逆にグッと甘みが出たりするんです」

フランス産オーガニック小麦タイプ65を使った(中)種。30℃で5時間くらい発酵させる


自家製天然酵母だけでおいしいパンを作るために、田中さんは酵母作りに文字通り命をかけている。酵母は生き物、とはよく言うが、ヨーグルト、ルヴァン、フルーツ・・・という酵母を育てるのは容易なことではない。しかも、2回継いだもの、3回継いだもの(継ぐのは3回まで)と継ぎ方を変えたものも含め、約30種類の酵母をベースにしているから、その組合せは何百にもなるという。
「(中)種を作るのはお昼過ぎから。大体、7〜18時間前後かかります。労働時間ですか?うーん、20時間くらいですかね。25時間の時もありますよ(笑)」
田中さんと2人のスタッフが店に入るのは、早朝4時。営業時間が12:00〜20:00と聞いて、多少ゆとりがあるのかと思ったが、それはまったく正反対だった。営業時間が終わると、今度は液種や中種を準備し、小麦粉を挽く・・・。とにかく、生地になるまでの下準備にかける時間が半端ではない。仕事が終わるのは、早くても深夜12時くらいだという。
「定休日は月曜と木曜なんですが、実は、休みはもっと忙しいんです・・・」
思い描くパンのためとはいえ、なかなかできることではない。少量のイーストを併用すれば、もう少し効率が良くなるのではないだろうか?
「私も10年くらい前まではイーストを併用して作っていましたし、もちろん、イーストを併用してもいいと思うんです。でも、作ったパンを比べると100%自家製酵母で作ったパンの方が断然おいしかった。天然酵母で作る理由はそれなんです」

管理が大変といわれる有機小麦は少量で仕入れ、いい状態で使うようにしている


そんな田中さんのこだわりは、当然ながら、酵母だけに留まらない。
「粉も色々ありますよ。これは、仏産オーガニックのタイプ65。以前は仏産小麦がメインでしたが、国産の有機小麦の原麦も使うようになりました」
温度管理された室内には、“きぬの波”、“伊賀・筑後・オレゴン”など、耳慣れない名前の原麦がズラリとならぶ。

作り手の心意気に共感して使い始めたという埼玉県“小山農産”の有機小麦。田中さんのことを知って、ちょっと変わった素材などが集まってくるのだそうだ


「原麦は現在7〜8種類。これを石臼で挽いて使います。この機械だと粒子の細かさも7〜8種類に変えられるので、そういうのも含めると、小麦粉の種類もかなり多くなりますね」

通りからも見えるチロルの石臼。短時間でかなりの量を挽くことができるが、大きな音がするため、閉店後や定休日に稼動することが多いという


もちろん、生地にも特徴がある。
「これ、ブリオッシュの生地なんです。山芋みたいでしょう?」
ケースの中に入っていたのは、パン生地というよりは、クレームパティシエールといったほうがしっくりきそうな、非常にゆるい生地。通常のパン屋さんではありえない状態だ。

なめらかでクリームのようなブリオッシュ生地。水分量が多いため、口のなかで溶けるようなみずみずしい食感が生まれる


「これは、水分が150%、バターが70%入っています。膨らむと、もっとドロドロになるんですよ。ほかのパン生地も、大体70〜90%と水分量はかなり多め。どれも、捏ねるのではなく、パンチでつないでいくようなやわらかい生地なんです」
水分の多い生地はゆるく、まとまりにくいため、とにかく作業が難しい。こんな生地ばかりで大変ではないのだろうか?
「扱いにくい方が、やりがいがあって面白いですから」
その笑顔が、すべての理由を物語ってくれたような気がした。

水はフランス産の硬水“コントレックス”など、4〜5種類をブレンドして使っている

ところで、「ラトリエ ドゥ プレジール」では、オーガニック素材が多いのも特徴のひとつ。
「オーガニックが多いのは、おいしくて、できれば安全な方がいいと思っているから。だから、おいしくなければオーガニックでも使いません。あ、そうそう。このカシューナッツ、ダーボン社のオーガニックなんですけど、すごくおいしいんですよ!」
パンに使う小麦、ナッツやドライフルーツはもちろん、牛乳も有機を使用。さらに、色々と試した結果、酵母の元にするビールやヨーグルトまで自家製だというから驚く。

バナーヌエレザン ¥400。オーガニックバナナはカシューナッツと同じくダーボン社のもの。驚くほど、香りが高くジューシー


「変な話、利益は追求していません。だから、価格が高いといっても、ほとんどが材料費から来るものなんです」
“パン ド ミ”が700円という価格は、一般的な町のベーカリーに比べるとかなり高く感じるが、買う側にもその誠意は伝わるのだろう。高級住宅地という立地の良さも手伝って、とくに価格面が問題になることはないという。

阿波和三盆糖を使用した“パン ド ミ”。有機の牛乳から起こした自家製ヨーグルト種とホップ種を使い低温長時間発酵させて作る


「面白い粉や素材があれば、どんどん使っていきます。そういう意味では、逆に何もこだわりはないんです。おいしいパンを作りたいから、自家製酵母になり、小麦粉の種類も増えただけ。実は、今作っているパンも、一度も同じレシピだったことがないんです。お客様には気付かれない程度に、粉や酵母の配合を変えているんですよ」
思わず耳を疑ってしまったが、少しでもおいしくなるようにと、酵母の組合せや粉の組合せをほんの少しずつ変えているのだそうだ。しかも、田中さんは一切試作をしないという。品種や産地、収穫年によって、状態が違ってくる小麦の扱いひとつとっても、なかなかできる話ではないが、頭の中で何十回も試作をするから、大丈夫なのだそうだ。

これまで、コンサルタントやネットの販売でパンと関わってきた田中さん。どうして店という形にしたのだろうか。
「天然酵母100%でも、こういうパンができるんだってことを、食べる人にも、作る人にも、もっと知ってもらいたい。そして、よりたくさんの人に天然酵母でおいしいパンを作ってもらいたいと思い、店を開くことにしたんです」
厨房が店内から見えるような内装も、すべてを見て欲しいという思いから。どういう作り方をしているのかと、田中さんの元を訪れるパン職人も多いそうだ。

食事パン系がほとんどだが、酵母や粉が違うので、それぞれに異なる味や食感が楽しめる




取材を終え、パンを手に店を出る。ショップカードには、こんなメッセージが書かれていた。


店名のPLAISIR(プレジール)とは
フランス語で喜びや楽しみという意味で
パンを通じて皆様と喜びや楽しみを共有し
何より安全で美味しいパンを
お作りしたいと思っております。


酵母を育て、小麦粉を挽き、寝る時間を惜しんで、丁寧に作られたパンたち・・・。
田中さんの、そのひた向きな情熱は、パンを通じて多くの人へと伝わっていくことだろう。






ラトリエ・ドゥ・プレジール
住所 東京都世田谷区砧8-13-8 ジベ成城1F
TEL03-3416-3341
営業時間12:00〜20:00
定休日月曜・木曜
アクセス 小田急線祖師谷大蔵駅もしくは成城学園前駅より徒歩10分
URL http://www.plaisir1999.com/




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