渋谷から井の頭線に揺られ、若者たちの波に押されるように駒場東大前で電車を降りる。緑豊かな東京大学・駒場キャンパスの敷地に沿うように歩いていくと、爽やかなブルーのファサードが現れた。大きなガラス窓の向こうから、香ばしく色付いたバゲットや形の良いヴィエノワズリ、大ぶりなカスクルートが道行く人を見つめる。その誘惑に抗うのは難しい。気が付けば、思わず足を止め、扉を開いてしまう、そんな魅惑的な空気が店先にまで溢れているようだ。聞けば、シェフはあの「メゾン・カイザー」のほか、フランスの「エリック・カイザー」でも修業を積んだという。いったい、どんな人物なのだろう。


都心ながら喧騒とは無縁。場所柄、外国人のお客さんも多い

窓際を飾っているのはスタイルの良いヴィエノワズリ



「取材ですか?いいですよ。火曜日だったら、少し時間が取れると思います」

約束の火曜日は店の定休日※1。きっとゆっくり話が聞けるだろう、そんなことを思いながら店を訪れた。
※1:月曜休み、第3火曜日休み




「こんにちは、清水です。すみません、お話は作業をしながらでもいいですか?」

黒のキャップにコックコート姿の清水宣光さんは弱冠27歳。さっそく奥の厨房にお邪魔させてもらうと、ちょうどパン生地の分割、成形作業の真っ最中だった。だが今日は定休日のはず・・・。いったい、このパンはどうなるのだろう?

「うちのパンはちょっと特殊な製法なんです。今作っているのは明日の分。こうやって成形した後に冷蔵庫で長時間寝かせてから焼いているんですよ」

「ル・ルソール」ではルヴァン種で生地を仕込み、発酵後に成形をする。と、ここまでは普通だ。だがその後、5〜10℃の冷蔵庫で12〜24hおいてから焼くのだという。いわゆる低温長時間発酵の場合は、捏ねた生地を冷蔵庫などの低温状態でゆっくりと発酵させ、それから成形、分割、焼成を行うから、確かに特殊な方法だ。

「一番のメリットは作業性ですね。一度の仕込みでも、数回に分けて焼成することが可能になります。この方法だと、1人で作業していても、お客様の要望に応じて朝も夕方も焼き立てのバゲットを提供することができるんです」

だが、このスタイルでは前日分を用意するのが鉄則。そのため、合理的な方法といっても、清水さんに休みはないそうだ。


成形を終えた生地。このまま冷蔵庫で翌朝まで寝かされる


そして、一次発酵がすんだ生地を、“ディバイダー”という自動分割機に乗せる。“ガチャッ“とフタを閉めると、大きな生地があっという間に20等分されて出てきた。早い。

「この機械は絶対必要だと思って入れました。フランスの『エリック・カイザー』にいるときに思い知らされたんです」

確かに日本の個人店では、スケッパーなどで1つ1つ分割し、計量するところがほとんど。便利とはいえ値段も張るものだから、この規模の店で見かけるのは珍しい。

「年配の方の中には否定的な方もいますけど、僕はこういう機械を使う環境で育ってきた。だから、このやり方を伝えたいと思っているんです」

生産性を上げるため、できるところは機械化して効率良く・・・。そんな清水さんの考え方は合理的かつ進歩的だ。いずれは人を増やして無休にし、成形後冷蔵の生地をもっと効率よく回転させたいとも考えている。酵母のためなら泊まりこみも辞さない、そんな職人とは一味違う新しいジャンルの職人といえるかもしれない。


これがディバイダー。一度に分割できるので便利な上、生地へのダメージが少ない



「出身は愛知県です。実家は自営業ですが“食”とは全く関係ないんですよ。食べることが好きで、まずはパンから勉強してみよう、そんな気持ちで東京の学校に入りました。卒業後、最初に入ったのは反町(神奈川)にある『フランセ』。ここで、パンを約2年間学びました。本格的なハード系から庶民的な調理パンに菓子パンまで、とにかく何でも作りましたね」

晴れてパンの世界にデビューした清水さん。ところが、毎日パンは作っているが、何かが足りない、そんな漠然とした不安を感じるようになる。
そして、ちょうど良いタイミングで転機が訪れた。あの「メゾン・カイザー」木村周一郎氏との出会いだ。知り合いから紹介を受け、なんと当時日本初出店となる「メゾン・カイザー」立ち上げの準備段階から手伝うことになったのだ。清水さんは当時22歳。ここで、今までとは別の側面からパンを知ることになる。

「それまでは知らなかった業者間とのやり取りや場所探し、そして店の運営なども任せてもらえて本当に勉強になりました。『ル・ルソール』オープンに当たっても、随分役に立ちましたね」

今でこそ珍しくないが、その当時、フランス産小麦粉とルヴァン種を使いパリの味をそのまま再現した「メゾン・カイザー」のスタイルは斬新だった。

「チーズや生ハムなど使う食材が高級で、“スゴイの使うなー!”と正直びっくりしました。恐らくそれまでは、パンにそこまでの食材を使う店はほとんどなかったんだと思います。画期的でしたね」

そのときに感じた衝撃は、食材への強いこだわりとなって、今も清水さんの中にある。

「カイザーよりも、さらにいい物使ってますよ(笑)」


具材たっぷりのサンドイッチは素敵なランチを約束してくれそう!


人気店での運営を任され順風満帆の清水さん。だが、心の中には疑問が芽生え始めていた。

「たくさんの職人が働いているので、当然マニュアルがあり、やり方が決まっています。でも、どうしてこのやり方、時間、タイミングにするんだろうと、その理由がはっきりとわからなくて、もどかしさを感じるようになってきたんです」

その答えを求めるように清水さんはフランス行きを決めた。

「フランスには一度行こうと思っていたんです。『メゾン・カイザー』から行かせてもらうという話もあったのですが、自分で行きたかったのでお店は辞めてしまいました」

パン生地を触る手を休めることなく、穏やかに話しを続ける清水さん。その口調からは強い気性はまったく感じられない。だが、話しを聞くうち、秘められた意思の強さは想像以上なのかもしれないと感じるようになった。

「フランスでは何軒かで修業しました。でも、そのうちにどの店でも作業自体にはあまり変わりがないことに気が付いたんです。でも、出来上がったパンを見ると、上手な人と、そうでない人では大きな開きがある。何が違うのか、その軸のようなものを知ることが大切だと思うようになって」

そして、清水さんはパリの「エリック・カイザー」へ。慣れた場所だからこそ、パン作りに必要な軸が見えるのではないか、そんな気持ちからだった。

「週末になるとバゲットは3000本も出るくらい、とにかく数が半端じゃなかったですね。粉の貯蔵も、上にサイロのような大きなタンクがあって、そこから使う量が降りてくるようになっているんですよ」

毎日何千というパンを作るため、ディバイダーはもちろん、生地を丸める機械など設備が整えられ、効率的に作業が進められているという。

「小麦粉はタイプ65(灰分0.65%)を使っていましたが、タンパクは8%位とかなり低めでした。日本の粉と違って、日によって吸水も63%だったり68%だったりと、ものすごくブレがあるんです。マニュアルもあるのですが、しっかりミキシングを見て音で判断しないと良いパンはできない。日本の場合は、粉の質が安定しているのでマニュアル通りにやっても問題ないのですが、ここでは職人の勘が必要でした」

日本のマニュアル化されたオペレーションの中ではしっくりこなかった作業。そのひとつひとつが、清水さんの中で意味を持っていく。

「フランスに行って初めて、“ああ、こういう粉だからこのやり方をするんだ”と、その理由が見えてきたんです」

フランスの気候、風土、そしてその土で育った小麦があって、フランスのパンが出来上がった。フランスでそう強く感じていた清水さんは、日本に店を構えた今、国産小麦にも強い興味を抱いているという。

「国産小麦の味わいが好きで、最初は各地の粉を取り寄せて試作したんです。香りが良いし、ルヴァン種で仕込むと日本酒のようなフルーティな風味になるんですよ。でも、国産小麦1本で作るのはかなり大変でした。やりたい気持ちはあるけれど、あまり手をかけすぎると店の運営が難しい。だから、今は15〜30%程度を味付けに使うようにしています」

清水さんは、その若さに似合わない慎重さと、経営に関するシビアな目を持っている。決して、採算度外視で突っ走ることはしない。そこには、エリック・カイザー氏の影響もあるという。

「カイザー氏はとても頭の切れる人です。ムニエ氏のように、粉の香りを大切にするという考え方は一緒なのですが、カイザー氏の場合はそこに生産性がプラスされているんです」

1軒のパン屋としてだけでなく、ビジネスとして成功を収めたカイザー氏。さらに、「メゾン・カイザー ジャポン」を日本に広めた木村氏、そして、フランス帰国後に入った「コンフィチュール ド アッシュ」の辻口氏など、スマートな成功者の影響を少なからず受けているようだ。


店内にはパティシエ上間雄二さんの作るケーキも並ぶ


フランスでの経験は大きかった。自分もフランス人と同じレベルでパンが焼ける、そんな自信を胸に清水さんは独立を決めた。

「実は今まで、独立した先輩たちの姿を見ながら、意外に簡単だな、あんな感じで良いんだ、と軽く考えていたんです。でも、そんなに甘くはなかったですね、今、実感しています」

と清水さんは苦笑する。オープン当初はそれこそ死ぬかと思ったそうだ。半年以上たった今もまだ休む暇はない。2,3年は腰を据えてがんばろうと思います、と決意を見せる。

「小麦粉も色々と取り寄せ、毎日のように変えて試作をしているんです。昨日なんて、自分って天才かな、と思うようなおいしいバゲットが焼けたんですよ。でも、今日はイマイチ(笑)」

粉の種類はもちろん、中力粉の代わりに強力粉と薄力粉を使うなど、あらゆる可能性を試している。結果は失敗でも、その粉の意味や理由が見えてくるのだろう。一度疑問に感じたら、納得するまでやらないと気がすまない、そんな清水さんらしい挑戦でもある。

「今まで蓄積してきた美味しさのデータが、やっと形になり始めた感じです。1周年目にはもっと美味しいパンになると思いますよ」

清水さんは静かに客観的に自分を見つめている。無理な背伸びはしない、出来るところから着実にステップアップしていこう、そんな姿勢を見ているとなんだか応援したくなってくる。


特に人気があるのがハード系とサンドイッチ系。ヴィエノワズリも種類豊富





「本当に周りの環境に恵まれて、ここまで来られたと思っています。皆さんの意見や気持ちに応えて育っていく、そんな店になれればいいですね」



ルソールはフランス語でバネ。
清水さんは、今その螺旋の中にしっかりと力を蓄えている。
伸びやかに、しなやかに・・・
清水さんを応援するたくさんの人の気持ちをも力にして、これから、もっともっと大きな存在へと飛躍していくことだろう。(2007.6)







ル・ルソール
住所 東京都目黒区駒場3-11-14 明和ビル1F
TEL03-3467-1172
営業時間8:00〜19:00
定休日月曜、第3火曜
アクセス井の頭線駒場東大前駅より徒歩3分