タルト皿とめん棒。手作りの温かみを感じるこの絵がパティスリースリールのマークである。パティスリーらしいモチーフといえばそれまでなのだが、ロオジエでシェフ・パティシエを務めた岡村尚之シェフの店と聞いて、少し違和感を覚えた。高級感があり、繊細かつ華やか。そんなイメージを思い描いていたからだ。

パティスリースリールがあるのは、祐天寺や学芸大学に程近い、五本木交差点近く。高級住宅地というイメージがあるが、どことなく端々に下町の温かみが残るエリアでもある。
その中で、オレンジと白、そしてガラスの輝きを上品に組み合わせた外観が目を引いた。




「元々は青葉区(横浜)に住んでいたので、その近辺で探していたんです。でも、かなりの激戦区の上、良い場所がみつからなくて。吉祥寺や武蔵野近辺も含め、1年半ほど物件を探しました。その間に何度か通っていて、良いと思っていたのがここなんです。女性でも車が停めやすいという自分の条件にもぴったりだったので」


細身のシルエットに、穏やかでやわらかい物腰の岡村シェフ。熟練のパティシエというよりは、学校の先生と言った方がぴったり来る、そんな雰囲気の持ち主だ。
いったいどんな想いからパティシエの道を選んだのだろうか。


「最初の出会いは学生の頃です。偶然通りかかった『ルノートル』に並んでいるケーキを見て、なんてきれいなんだろうと思ったんです。そして食べてみて、シロップをたっぷり使った今までにないおいしさに、感動と衝撃を受けました」


ケーキの美しさ、そして本場フランスの味に開眼した岡村氏。出身は新潟県だが、若いうちから東京で過ごしていたことから、本格的なフランス菓子との出会いは早かったようだ。


「そのあと、気になって『ルノートル』やガストン・ルノートル氏のことを調べ、素晴らしい方だと知りました。この道に入りたい!と思い、1年後に念願の『ルノートルに入り、ガストン・ルノートル氏の元で学ぶことができたんです」


オリジンーヌ・カカオの川口シェフ、エーグルドゥースの寺井シェフを初め、現在『ルノートル』出身で活躍しているシェフは数多くいる。その仲間たちとは今も懇意にしているそうだ。




そして、いくつかのホテルなどを経てロオジエへ。同じジャンルと言っても、コースというひとつの流れの中で、その最後を締めくくる役割を持つデセールとでは考え方が異なる。それゆえのこんな出来事もあった。


ロオジエ時代、ルノートル氏が岡村シェフの作るデセールを食べに来た。
氏は一通り食事を楽しんだ後、パリブレストとパンコンプレ、その他いくつかのデセールをチョイスした。
緊張しながらその様子を見守る岡村氏。
ところが、

『これはパリブレストではない』

氏の評価は厳しかった。

『これにはバターが入っていない。これをパリブレストと呼んではいけない』



ロオジエでは、M.O.Fを持つ料理長ジャック・ホリー氏と10数年間一緒だった岡村シェフ。当然、デセールはコースの一環としてジャック・ホリー氏との相談の上決められる。


「私は食事の後には、バターが入らないクリームの方が良いと思っていたんです。その方が、スッと体に入りますから」


しかし、バターが入らなくては、本来パリブレストのクリームとは呼べない。それは、おいしさの問題ではない。フランス人、そして現代フランス菓子を築き上げてきたルノートル氏だからこその思いだったのだろう。



「ルノートル氏は、普段から弟子たちを“私の子供たち”と呼んで、とてもかわいがってくれていたんです。だからこそ、その子供が、アレンジしたものを本来の名前で呼ぶということが許せなかったのでしょう。でも、その後に『このマカロンは格別においしい!』と言ってくれたんですよ。それを聞いて、本当にホッとしました」


言うまでもなく、岡村シェフのパリブレストは、それまで店ではかなりの人気を博していたものだ。岡村氏の作るケーキは、同様に昔からあるものを現代の嗜好に合うように、わずかに軽めに変化させたものが多い。



スリールに並ぶケーキにもその特徴はよく表れている。
『ルノートル』が元祖と言われるイチゴとバタークリームのケーキ、フレジエにも自分なりのアレンジを加えている。驚くほどきめ細かく、軽い口どけのバタークリームにおどろいた人も多いのではないだろうか。また、看板商品ともいえる「五本木サブレ」のおいしさも秀逸だ。粉の1粒1粒がバターをまとったかのような、細かくそして旨みのある口どけで、今までのサブレとは一味もふた味も違った深い味わいがある。そこで、岡村流のおいしさの秘訣を伺ってみた。


「丁寧に作るだけです」


あっけないほどのシンプルな答えが返ってきた。だが、気のせいだろうか、その口元は少し微笑んでいるようにも見えた。


「プロセスを知っていること。こうなった時は、こうするということを経験で知っていることです。例えば、粉を打ちすぎないなど、雑に扱えば違うものができてしまう。1つ1つの段階で、間違った方向に行かないよう事前に手を打つことが大切です」


あくまでも岡村シェフの言葉は穏やかだ。だが、その裏に几帳面さと妥協を許さない厳しさとが垣間見える。100%に甘んじることなく、積み上げてきた経験と技術によって完成度を150%にも200% にも変えてしまう、そんな緻密で知的なこだわりが感じられた。

「五本木サブレ」の商品タグを見ると、“昔ながらのサブレです”とある。昔ながらとは、味わいのことではない。丁寧に基本に忠実に作る、そんな昔ながらのスタイルで作っていますという、シェフからのメッセージが込められているのだ。


「ある日ジャック・ホリーと話しをしていて、良い料理人とは何か聞いたんです。彼は、『サラダとテリーヌが上手に作れること』と答えました。どちらも、塩、胡椒、そしてヴィネガーが基本の非常にシンプルなものなんです。そこで、良いパティシエとは何かを尋ねました。すると彼は、『タルトが上手に作れること』と答えたんです。タルトの生地も、粉とバターが基本の非常にシンプルなもの、でも上手く作るのはとても難しいものです。タルトが上手く作れれば、何でも作れる。基本に忠実に、丁寧に作りたい、その意味をこめて、タルトとめん棒を店のマークにしました」


カード見ると、店名の下には『fait avec amour(心のこもった)』とある。
お母さんの手作りにようにはいかないが、それに近いものを作りたい。そして、それを見たり食べたりした人が微笑む(スリール:微笑み)ようなものを作りたい。そんな想いが込められていたのだ。



それを聞いて、今まで抱いていた違和感が消え、色々なものが見えてきた。
開放的な入り口。作業している様子が見えるように設計された窓。ケーキとは別に設けられたタルト専用のケース。そして、丁寧でやさしい味わいのお菓子の数々・・・。
そのどれにも、岡村シェフからのメッセージが見えるようだ。



大きな窓からは、シェフの姿、そして清潔感のある厨房がよく見える


「直接お客様が買っている様子が見えるのが嬉しいです。おいしかったという電話がかかってくることもありますよ。以前にも確かにそういう声を耳にすることはありました。でも、今嬉しいのは、この町の人たちに受け入れられているということなんです」


この店には経験、技術を兼ね備えたシェフ、そして本当においしいタルトがある。 毎日焼きあがるそのタルトを口にし、町に微笑みが溢れる日はそう遠くはないだろう。






パティスリー スリール
住所 東京都目黒区五本木2-40-8
TEL/FAX03-3715-5470
営業時間10:00〜20:30
定休日水曜日