東急沿線の大倉山に、一風変わった名前のパン屋がオープンした。その名は、「TOTSZEN BAKER’S KITCHEN」。
“TOTSZEN”と聞いて思い浮かぶのは、やはり“突然”の文字。いったいどんなパン屋なのだろうか。

緑豊かな住宅街として人気のある大倉山。商店街を抜けた先にはまだ畑や山が残る、のどかな雰囲気のベッドタウンだ。駅から梅の名所・大倉山公園梅林へと続く坂道の途中に、少し唐突に店が現れる。都会的でスタイリッシュな店構えが、街の雰囲気の中に異彩を放ち、そして不思議な一体感をなしているのだ。

表通りからは見えない隠れ家的な雰囲気に期待が高まる



そうかこれが突然の意味か、と頷きながら店へ入ると、ピシッとしたスーツに身を包んだ男性に迎えられた。

「こんにちは、岸本と言います。今日はどうぞよろしくお願いします」

レストランのギャルソンを思わせる、にこやかな笑顔と滑らかな口調。「TOTSZEN BAKER’S KITCHEN」を運営する、有限会社わらうかど 代表取締役の岸本拓也氏だ。店のサービスと販売を一手に引き受けているという。

バーといっても通用しそうなスタイリッシュな内装


「こちらがシェフです」

作業する様子が見えるようにと、大きなガラスで大胆に仕切られた厨房から、シェフの内山芳雄氏が静かに現れた。

大きなガラスで仕切られた厨房。開放感と臨場感が伝わってくる


「店名の意味ですか?大倉山に突然現れたという意味と、来るとワクワクしてつい帰り道に寄りたくなる、そんなパン屋さんが突然できたという意味があるんです。“TSU”でなく“TS”なのは、ちょっとした遊び心。ドイツ語っぽく見えるかなぁ、と思って(笑)」

スマートな岸本氏のサービス、ずらりと並んだミネラルウォーターのカラフルなボトル、そして、店内をやわらかく照らす間接照明の効果。確かに、住宅街にある普通のパン屋とは違うようだ。では、パンはどうかと目を戻すと、そこにはあくまでもパン屋の姿が見える。本格的なハード系やデニッシュ類だけでなく、あんパンやクリームパン、そしてメロンパンまで、幅広い層に対応したラインナップが輝きを放っていた。

オープン時、あえて、ごく少数しか広告を出さなかったにも関わらず、リピーターや遠方からのお客さんが絶えない


さっそくシェフの内山さんにお話しをうかがった。

「子供の頃からパンが大好きで、パン屋さんにはよく行きました。コックコート姿の職人さんに漠然と憧れていたんです」

その想いが内山さんをパンの道へと導いた。とは言え、パンについては右も左もわからない状態だったため、最初はパン工場に入社。だが、間もなく何かが違うと感じ、神奈川県を中心に展開する大手パンチェーンへと移った。

「もっとこだわったパンを作りたい、そう思うようになったのがこの頃なんです。魅了されたと言うのでしょうか、パンを知るほどにもっと極めたいと思うようになっていったんです。でも、今の仕事だとどうしても時間に追われてしまい、思うようなパンが作れない。じっくりパンを見て作りたい、と強く感じていました」

多くの従業員を抱えるチェーン店では、均一性を求めるためほとんどがマニュアル化されており、時間にも余裕がない。しかし、実際には、発酵、焼成を上手くコントロールすることで、焼きあがるパンの味は大きく左右される。時間に追われてパンを作るのではなく、生地の声を聞いておいしいパンを作りたい、そのジレンマにも似た想いが内山さんの中で大きくなっていった。そして、ランドマークタワーなど開発に活気づく横浜・みなとみらいの「ロイヤルパークホテル」にオープニングスタッフとして入社した。

「今度こそ、自分で納得のいくパンを作りたいと思っていました。それまで合計7年間パンを作っていたのですが、初心に帰って、ここでしっかり基礎を学ぶんだという気持ちでしたね。1つの生地にも、しっかりとこだわりを持てるようになりたかったんです」

そして、講習会などにも意欲的に参加し、パンの勉強に励んだ。いつの日か飛び切りのパンを焼けるようになって独立したい。そんな野望が内山さんの中に静かに芽生え始めていた。

朝昼は必ずパンを食べ、暇さえあればパンのことばかり考えているという内山さん


もっと上のパン作りを目指したい、その想いが強かったにも関わらず、ホテル入社までに7年の歳月を要したのには理由がある。

「1つのところに最低でも3年はいようと思っているんです。そうでないと、その会社の全体的な内容や動きがわからないですから」

そう強い口調で言ったあと、信念といったら大げさですけどね…と、少し照れながら付け加えた。穏やかで控えめな印象の内山さん。だが、その内には強くてしなやかな芯が貫いているだろう、そんなふうに感じた。

シリアルナンバー入りのバゲットも並ぶ


ロイヤルパークホテルで5年。基礎だけでなく、自信を身につけた内山さんは、スーシェフとして横浜の駅前にオープンした「ベイシェラトンホテル」に入ることになった。その理由は、同じ横浜エリアのホテルながら、ちょっとした違いがあったからだという。

「駅のショッピングモールにパンを販売するブースを置いていたんです。そこには一般のお客様もいらっしゃるので、今までよりもずっとバラエティに富んだラインナップを作る必要がありました。ホテルの特徴である高級感を活かしながら、町のパン屋さんに近い商品構成のパンを作ることが出来る。しかも、当時の「ベイシェラトンホテル」シェフの技量も含めて、今の自分には成長する大きな機会じゃないか、そう考えたんです」

高品質でありながら、親しみやすいパン作り。更には、ショップに顔を出すことで、お客様の反応を知ることもできた。充実した仕事内容だったが、その一方で、自分の店を持ちもっとおいしいパンを作りたいという想いは日増しに募っていった。

「ここでのスタイルが今の原点になっていると言えるかもしれません」

ベイシェラトンホテルで自分のスタイルに開眼した内山さん。そのタイミングを計るかのように、運命的な出来事が起こった。オーナーの岸本拓也氏との出会いである。

「岸本はホテルでマーケティングや営業企画をしていたんですよ。彼はいつか自分で飲食ビジネスをやりたいと思っていました。そのひとつとしてパン屋を選び、私と一緒に店を始めることになったんです」

レストランと違い、パンは1個何百円の世界。子供にも手が届く。しかしそこには、数千円の料理と全く変わらない職人のこだわりが凝縮している。そのことに感動した岸本氏は、どうしてもパン屋をやりたいと思うようになったそうだ。

右から岸本さん、内山さん


そして、独立、開業へと、2人は力を合わせた。しかし、同じホテルとはいえ畑の違う2人。違和感はなかったのだろうか?

「岸本は良い意味でパンの固定観念や殻を破ってくれるんですよ。厨房でずっと作っていると、どうしても視野が狭くなってしまうんですよね。店のデザインやコンセプトを手がけたのも彼なんですよ。その意味では、2人で始めたのは良かったと思っています」

パン作りのプロと、サービス業のプロ。2人のプロがそれぞれの領域で力を発揮できる場所になった。 プロ意識はそれだけではない。西麻布にあるイタリア発の水専門店「アクアストア」と提携するほか、あんこや牛乳も自分たちの足で探し求めたものを使用する。全ては、その道のプロとのコラボレーションと言うわけだ。将来的にはワインやチーズもそろえて行きたいという。

洒落たボトルのデザインはディスプレイにも


「実はパン生地の仕込みに、5種類のミネラルウォーターを使っているんです。あ、良かったら飲んでみますか?」

並べられたミネラルウォーターは1612mg/1Lというイタリアの超硬水から25mg/1Lという日本の軟水まで様々。中には、ドバイの砂漠を天然のフィルター代わりにしたという珍しいものまである。

左から2番目がドバイのミネラルウォーター


「実は、100%ミネラルウォーターのパン作りは初めての取り組みでした。試作してみて、水ひとつでここまで違うのかと正直びっくりしましたね。小麦粉やパンのイメージに合わせて使い分けています」

生地が締まりしっとり焼きあがる硬水はハード系に、軟水は粉が水を吸ってふっくら柔らかく焼きあがるため食パンなどに使っているという。

「まだまだ始まったばかりの旅、という感じです。でも、人間の体内は60%が水と言いますし、人にとってもパンにとっても水って重要な存在だと思うんです。それに、ミネラルウォーターを使用することでお客様に安心感を与えたいという思いもありました」

水に並ぶ重要な素材、粉についてはどうだろう。

「粉は今8種類です。フランス産小麦、石臼挽きをバゲットに。それから、国内産小麦も使っています。北海道の“春の香りの青い空”という小麦なんですが、フランスの小麦に近いサックリとした食感が生まれて、国内産小麦でこんなに美味しいパンができるのかと驚きました」

と目を輝かせる。今まで使ったことのない素材でも、どんどん試してみよう。そして、もっと美味しいパンを作りたい。そんな意気込みが内山さんの表情から伝わってくる。

ゴトウ牛乳、低水分バター、穂高の水、国産小麦100%で作られた“クロアソンジャポネ \160”


いわゆる町のパンから、ホテルの高級パンまで、幅広く経験してきた内山さんにとって、今作りたい“美味しいパン”とはどんなものなのだろうか。

「そうですね。スタイルにこだわるのではなく、とにかく良いものは吸収したい。あえて、コレというものを持たないで、柔軟においしいものを作って行きたいですね」

改めて店を眺めてみる。どのパンも店の雰囲気同様、洒落た表情をしているが、どこか気さくで気取った感じがない。そして、そのパンを求めて、ひっきりなしにお客さんが訪れる。岸本さんの、常連の方には親しみを込めて、初めてで少し戸惑っている方にはさり気なくお勧めのパンを紹介する姿が印象的だ。

「このスイスのミネラルウォーター。実は入荷したばかりで、買われるのはお客様が初めてなんですよ」

「これすごく珍しいですよね?よくこんな場所のがあったなぁと、嬉しくなっちゃって。前に旅行で滞在していたことがあるんです」

お客さんとの間に繰り広げられる他愛のないおしゃべり。岸本さんの巧みな話術で、店内はすぐに楽しそうな雰囲気に包まれていく。それは、洗練されていながら、どこか、昔懐かしい商店街での買い物を思い起こさせる。ホテルのクオリティと親しみやすさ、それが見事に調和しているのだ。

あまり見かけないミネラルウォーターも揃う。左は山形県庄内のゴトウ牛乳


それにしても、なぜ、大倉山を選んだのだろう。

「岸本が住んでいたんです。それで、この辺りならパン屋の需要があるだろうと。高級感のある住宅街すし、一人暮らしの方も多いので、ちょっと特別な雰囲気を味わえる店にしたかったんですよ」

実際、ワインと合わせてというスタイルも多く、ハード系の売れ行きも最初から良かったそうだ。

「ホテルのサービスで本物のおいしさを提供するというのがこの店のコンセプト。それぞれ、自分の持ち場で思う存分力を出せば良いんです。パンのことだけを考えていられるので、とても恵まれた環境ですね」

そう言うと、内山さんは晴ればれとした笑顔を見せた。今まで積み上げてきた技術や想い、それをやっと100%発揮できる環境が、ついに自分のものになった。これ以上の喜びはないだろう。

内山さん自慢のハード系




内山芳雄氏と岸本拓也氏。二人三脚のパン屋の旅はまだ始まったばかりだ。
だが、大倉山に現れた“突然”が、“必然”となる日はもうすぐそこまで来ている。(2007.3)







TOTSZEN BAKER'S KITCHEN
住所 神奈川県横浜市港北区太尾町389-9
TEL&FAX045-548-0568
営業時間 月曜&水曜〜金曜:10:00〜21:00
土曜:9:00〜20:00
日曜&祝日:9:00〜19:00
定休日火曜
アクセス東急東横線大倉山駅から徒歩1分以内
URLwww.totszen.com